2017/07/12今週の一言

712日の「聖書のいづみ」はサムエル記上12123節を学びました。

 『死海写本』の一部である4QSamaにも2223節が保存されています。ギリシャ語訳聖書(紀元後4世紀)4QSama(紀元前1世紀)とが一致する場合、そちらの方が新共同訳の底本となっているヘブライ語写本(紀元後11世紀)よりも元来の本文である可能性が高いものです。そのような例を二つ紹介いたします。

 一つ目は22節の冒頭です。新共同訳聖書は「ハンナは行こうとせず」としていますが、直訳は「そしてハンナは上らなかった」です。ギリシャ語訳と4QSamaは長形本文であり、「そしてハンナは彼と共に上らなかった」となっています。「彼と共に」がある場合、ハンナは「自分の夫エルカナと共にはお参りに行かなかった」、ないしは「自分の息子サムエルと共にはお参りに行かなかった」という意味になります。

長形本文は「ハンナが誰と共に行かなかったのかが曖昧になる」という効果を持ちます。特に前者の場合、ハンナがサムエルと二人だけでシロの神殿に行ったという可能性すら残ります。ヘブライ語底本は長形本文の曖昧さを排除するために、「彼と共に」が省かれた短形本文を形成し、伝承したのでしょう。

 二つ目は、23節のエルカナの発言の末尾です。直訳は「しかし、主が彼の言葉を立てるように」です。ギリシャ語訳と4QSamaは、「しかし、主があなたの口から出たことを立てるように」としています。ヘブライ語底本は、「主が主の言葉を実現するように」という意味ですが、ギリシャ語訳と4QSamaは「主がハンナの言葉を実現するように」という意味です。

サムエル記冒頭からここまでの物語において神も、また神の言葉もまったく登場していません。つまりヘブライ語底本の立場は、文脈上少し無理があります。ただし、「言葉(ダバル)」を「出来事」と解釈・翻訳するならば、この問題は解決されます。ハンナの言葉がどうあれ、神の意思が地上で実現するようにという祈願になるからです。新共同訳聖書は「主がそのことを成就してくださるように」と訳しているので、ギリシャ語訳と4QSamaの立場を採っているように思えます。

 エルカナとハンナの夫婦間対話は、エルカナの悔い改めを示しています。夫エルカナはハンナの苦しみを十全には理解せず、常に自分の意向に彼女を従わせていました。しかし、サムエルの誕生によりハンナの意思を尊重するように変えられたのです。エルカナは、礼拝が抑圧の場面になっていたことを反省し、ハンナのしたい礼拝をハンナに選ばせることができるようになりました。JK