2018/03/07今週の一言

3/7の聖書のいづみでは、サムエル記上569節を学びました。神の箱の物語は続きます。

粗筋は次のとおりです。神がアシュドドに災厄をもたらし、人々は腫れ物に苦しむこととなります。そこでアシュドドの人々は、他の四つのペリシテ都市国家の代表者を集めて会議を開きます(ガザ、アシュケロン、エクロン、ガトの四つ)。この災厄を分担しようというのです。代表者たちはガトを指名しました。するとガトでもアシュドドと同様に腫れ物が人々を襲ったというのです。

以上の粗筋はヘブライ語本文に基づくものです。ところでギリシャ語訳においては、8節後半の内容に重要な相違があります。ヘブライ語本文は、「彼らは答えた。『イスラエルの神の箱をガトへ移そう。』」としています。しかし、ギリシャ語訳は、「そしてガトの人々は言った。『イスラエルの神の箱がわたしたちのもとに来るように。』」としているのです。

ギリシャ語訳によれば、ガトの代表者は自分たちの町に災厄が来ることを覚悟しながら、それを自ら引き受けています。もしかすると、「アシュドドで起こった災厄はガトでは起こらない」とタカをくくっていたのかもしれません。あるいは逆に「アシュドドの苦難を共有しよう」と思っていたのかもしれません。戦利品としての「イスラエルの神の箱」に魅力を感じていたのかもしれません。いずれにせよ、一定のリスクを背負い込むことぐらいは覚悟していたはずです。

ギリシャ語訳に基づくガトの人々の行動は、米軍基地課題について示唆に富みます。知り合いの牧師で、米軍基地を本土にまず移設しようという運動を担っている人がいます。その理屈は次のようなものです。「日米安保条約の必要性を80%以上の人が感じている。80%の人は、米軍基地が日本国内に存在することに賛成している。そうであるならば、沖縄にだけ荷重に基地負担を押し付けるのではなく、本土にも応分に米軍基地を設けることに、80%の人が賛成すべきだ。」

この運動は、本土沖縄間の差別を鋭く衝き、解決のための現実的一歩を提示しています。米軍基地の問題は、沖縄の問題ではなく日本全体の問題なのです。

「少なくとも県外移設」という民主党政権の公約は、公平性の観点から納得感を得られやすい内容でした。「ガトの人々の心意気」に似た発想だったと思います。しかし、当時も今も、わたしたちにガトの心意気がない。ここに問題があります。基地の課題を「自分事」にして、日米安保条約と憲法9条との整合性について考えていきたいものです。JK