2018/09/05今週の一言

9月5日の聖書のいづみでは、サムエル記上8章6-9節を学びました。十二部族の連合体イスラエルに、中央集権的な王制が導入された経緯を記す物語です。

 守旧派の老サムエルの目に、イスラエル諸部族の長たちの「あなたがわたしたちに王を与えよ」という主張は、「悪」であると映りました(6節)。サムエルには、なぜ人々が自ら支配されようとするのかが理解できません。イスラエルの理想は、エジプトの奴隷状態から解放され自由とされることにあります。だから、一人の王による支配ではなく、対等な諸部族間の連合体であり続けようとしていたのです。諸部族の中から入れ替わり立ち替わり起こる「士師(裁判官)」による自治は、権力を集中させない工夫です。

 一方で、サムエルが後継士師に任じた息子たちの汚職が起こっています。伝統から言えば士師は世襲制であるべきではありません。長老たちはサムエルが実質的には王制に近い世襲制を導入していることを指摘しています。だからサムエルに新王の任命権限を委託するのです。

 士師制度を維持すべきか、それとも王制に舵を切るべきか。サムエルは判断に迷い、ヤハウェ神に祈ります。ヤハウェの答えは意外なものでした。「民の声に従え。彼らはあなたを拒んだのではなくわたしを棄てたのだ。王に支配されたいということは、王を偶像礼拝することと同じだ」(7-9節要約)。ここには、「わが民、わが民、なぜわたしを棄てたのか」という神の嘆きが聞こえます。

人間が持つ罪の一形態は、「支配されたがる」ことです。厳しい人に暴力的に叱られたことが、良い思い出として語られる「ねじれ現象」は今でも起こりえます。支配-被支配の関係は、横暴な専制君主によってのみ成立するのではありません。皮肉なことに専制君主を求める民の声との相互関係によって完成するのです。ヒトラーが実に民主的なワイマール憲法のもと、合法的手続きに則って独裁者となったことも、その証左となるでしょう。人々は神ならぬ者を拝みたがるものです。

神は民が罪を犯す自由を認めます。エデンの園にあえて一つの禁則を設けて「それを破る余地」を与えた神は、神を棄て・神を否定する自由を人間社会に与えています。この方針は十字架にかけられた神の立ち居振る舞いにも一貫しています。

政治制度の中から神を棄て(親政政治の否定)、さらに王制も棄て(ただし象徴天皇制は中途半端)、民主政治制度を選んでいるわたしたちは、英雄待望をも棄てなくてはいけません。与えられた自由の用い方が課題です。支配されたがる罪に逆戻りするとき、十字架の血が無駄となってしまうからです。JK