2019/01/16今週の一言

116日の「聖書のいづみ」ではフィリピの信徒への手紙の背景となる事柄を学びました。紀元後1世紀当時のフィリピの町の状況や、この手紙の著者が誰であり、いつどこで書かれたのか、さらにはフィリピ書の元となる写本は何かということについて大まかに把握しました。

フィリピはアレクサンドロス大王の父親フィリポス二世が、マケドニアの東端に建てた町です(前4世紀)。その後ローマ共和国(後にローマ帝国となる)が支配し、軍事上・商業上の重要拠点・交通の要衝としました(前1世紀)。フィリピにはローマ軍の除隊兵やイタリア農民が多く植民します。フィリピ教会の中にも「皇帝の家の人たち」と親交のある人がいます(422節)。フィリピ住民はローマ市民を自認しており(使徒言行録1621節)、ローマ皇帝を崇拝していました。

ローマ市民パウロは後50年ごろに、使徒言行録の著者マケドニア人ルカの招請によって、フィリピに来ます。すでに教会の原型(「祈りの場所」)はあったけれども、ルカらはさらに一歩進めて「パウロ系列のキリスト教会」になることを志向していたのでしょう。紫布商人リディアの自宅が家の教会となります。欧州初のパウロ系列の教会です(使徒言行録16章)。

パウロはその後各地を転々とし、エルサレムで逮捕され、皇帝に上告したためにローマ帝国の首都ローマ市に移送され、軟禁されます(後59年ごろ)。この未決拘留期間は二年に及びました。伝説によればこの後彼は斬首刑により殉教します。

フィリピ書の中には、パウロが軟禁状態の中でフィリピ書を著わしているということが明記されています。フィリピ書の著者がパウロであることは、最も批判的な学者でも同意する定説です。ところが幽閉されていた場所については、学問上大いに争われています。多数派はエフェソという町での執筆を推すのですが、使徒言行録19章にはエフェソでパウロが投獄されたとの記載はありません。その一方で古代の写本には、「フィリピ人へ、ローマから書かれた」と表題を付けられたフィリピ書も存在します。この点、田川建三の主張するローマでの執筆に分があります。

田川説に立つと、執筆場所はローマ、執筆年代は後60年代初頭。生涯を終えようとしている老使徒が、たっぷりと時間を取って、フィリピ教会に連なる、十年来の旧友に書いた手紙だということになります。彼の思い浮かべる懐かしい顔の中には、ローマ軍の退役軍人もいたことでしょう。手紙の中には軍隊用語が散見されます(11330節、225節、43節)。

なお「フィリピ書が三つの手紙の合成本である」との仮説は採りません。JK