2019/06/12今週の一言


6/12の聖書のいづみでは、フィリピの信徒への手紙2章3-5節を学びました。以下に直訳風私訳を記します。

 

3 利己心によるのでもなく、虚栄心によるのでもなく、むしろ謙遜でもって互いに自身より優れた者と評価しながら、

4 おのおの〔単数〕が自身のことではなく、むしろ他者たちのことをもおのおの〔複数〕が注視しながら。

5 このことをあなたたちの中であなたたちは考えよ。そしてそれはキリスト・イエスの中にも(あるのだが)。

 

「利己心」「虚栄心」が、「謙遜」と鋭く対立しています(3節)。キリスト者のあり方・生き方の指針が、ここに示されています。それは「他者のための存在・利他的な生」です。自分とは異なる人格を持つ隣人は、正に他人であるという事実のみによって、自分よりも優れています。

「謙遜」という言葉は、「低み」と「穏健」の合成語です。イエスの十字架の低み、イエスの十字架という非暴力を表現しています。十字架のイエスは、全世界の罪を贖いました。キリストは、利己心と虚栄心に満ち、傲慢であり暴力的である罪人たちでさえも、自分よりも優れた存在として無条件に認め、十字架・復活によって救い出してくださったのです。

このイエス・キリストの信(イエスの信じたアッバへの誠実な従順)によって、わたしたちは救われキリスト者となりました。だから、各個人は自分のことではなく、複数人によって成る複雑な人間関係を注意深く顧みて、互いに目を留め合わなくてはいけません(4節)。

5節は、二文目に動詞が省かれているため、二種類の翻訳/解釈が可能です。私訳は新共同訳とも同じ立場です。「ある」「見られる」「現れる」などを補う場合、「キリスト・イエスの中にも」と訳します。「以下に記すことがらは、キリストにおいても当てはまる」という趣旨になります。

もう一つの翻訳の可能性は、直前の一文目の動詞「考えよ」を補う場合です。その場合には、「キリスト・イエスにあって」と解せざるをえません。「キリスト者同士なのだから、よく考えなさい」という趣旨となります。文語訳聖書はこの立場を採っています。どちらがしっくり来るでしょうか。

翻訳interpretationは、解釈interpretationです。聖書を読む行為は、否応なしに聖書を解釈する行為に直結します。自らの解釈に誠実に生きたいものです。JK