2019/07/24今週の一言

聖書のいづみは夏休みとなりました。7/21の参議院通常選挙を振り返って、民主政治制度Democracyについて「神学する」営みを続けていきます。

何と言っても投票率の低さ(48.80%)が課題です。民主政治は「自治」を至上の価値としています。統治する者と統治される者が同じだという建前です。それはバプテスト教会の「各個教会主義」「会衆主義」と重なり合います。その自治に参与する者が48.80%、実に過半数が参与していないという驚愕の事実です。特に18-19歳では30%代の低さですから、私たちは日本国憲法施行後72年を経て、自治の担い手の育成(主権者教育)に完全に失敗しています。

とかく選挙といえば、勝敗・当落に一喜一憂しがちです。「選挙戦」「出馬」「一騎打ち」等の用語にも反映していますが、選挙は戦争やゲームにしばしば譬えられます。わたしたちは、ルール内の勝ち負けに焦点がおかれる「勝敗至上主義」という誘惑に晒されています。勝敗至上主義は、真の勝者・敗者が誰であったかの判断を曇らせます。今回の選挙の敗者は、自治を謳う民主政治制度そのものでしょう。

低投票率に対しての特効薬は、オーストラリアやベルギーが実践している義務投票制(棄権者に罰金)です。自治そのものの価値に拠って立って、そろそろ日本でも導入した方が良いかもしれません。憲法には勤労・納税の二つしか義務が課せられていません。そこに参政の義務も読み込むという解釈改憲となります。憲法改正の国民投票のことも考え合わせると、義務投票にも一理があります。

逆さまからも考えてみましょう。参政権は権利、人権の一つです。憲法上「権利」というのは「自由」と同じ意味です。だからこそ「権利/自由」の反意語である「義務」投票は憲法に書き込まれていないのでしょう。棄権をする自由を保障すべきだという論は、憲法議論の王道です。

さらに棄権・白票という行為にも意思表明が見られるという観点も加わります。選挙は立候補した者の中からしか選べません。その中に自分の意見を代表してくれそうな人がいない場合、棄権や白票は立候補者全員に対する不信任、現行の選挙制度への批判の意思とも取れます。さらに踏み込めば、議会のメンバーを選ぶ「代表制民主政治」に対する不信と挑戦です。自分を代表できる者など自分以外に存在しないのであれば、代表を選ぶことは無意味となります。これも一理あります。

棄権や白票の意思をも選挙制度に組み込むことができるのでしょうか。例えば全国比例代表部分(50議席)では投票した48.80%分の議席(25議席)を配分し、残りの25議席は棄権・白票の人から抽選するというやり方がありえます。JK