2020/06/17今週の一言

先日、母の弟からUSBが2本送られてきました。そのUSBには、2013年に亡くなった父の説教録音データが収められていました。1980年代から約30年にわたって、昭島めぐみ教会ではテープに録音していた説教を保存していたのだそうです。叔父の娘(私の従姉妹)が昭島めぐみ教会に在籍している関係で、退職して悠々自適の暮らしをしている叔父が、録音テープのデータファイル化を頼まれた模様。奇特な教会と奇特な叔父のおかげで、父の説教を30年ぶりに聞くことができました。ちなみに、日本基督教団の牧師の娘だった母には、姉が一人(ソンキ伯母さん)、弟が二人いて、USBを送ってくれたのは唯一キリスト者ではない方の弟でした。

早速一人で聞いてみることに。1987年3月までは同じ礼拝に出席していたのですから、何か覚えている話があるのかと密かに期待していました。ところが、さっぱり思い出せません。語り手の問題か、聞き手の問題か、あるいは時間経過の問題なのか。同じ職業を持つ者として若干ショックを覚えました。

1984年からはマタイ、続いてマルコ、ルカと福音書の講解説教をしているようでした。一節の途切れもなく連続して聖句の解説をしていく執着ぶりは、私も似てしまったのかもしれません。1990年代から召天するまでは「一日一章運動」にのめり込み、日曜日の礼拝説教箇所も7章ごとに飛んでいきますが、初期のころは講解説教だったという事実を改めて知らされました。「逐語霊感説」(聖書の一言一句は客観事実として間違えがないとする考え方)に立つ、無類の聖書好きです。

父の説教には感動的な例話がありません。聴衆の感情を揺さぶらないのです。大衆向け伝道説教でもなく、社会的な視野もほぼ皆無です。「教会形成的な話」もありません。組織としての教会をうまく機能させるための訓話もしない。たとえば、毎主日礼拝厳守、十分の一献金奨励、教会学校や聖歌隊参加の意義などなど、説教の中で牧師が展開しがちな具体の勧めがありません。

説教の時間は20-30分程度です。この長さについては記憶通りでした。子どもにとっては苦痛・退屈・拷問だったからよく覚えています。この長さで、聖書と個人の信仰生活について、心のありように焦点をおいて説いている印象です。「印象」と曖昧に評した理由は、説教の結論めいたものも判然としていないからです。

口癖はそのままなのですが、録音の関係で生前の声よりも高く聞こえることと、説教前後に尺八賛美歌演奏が入っていることが、妙にユーモラスで一人で笑いながら聞き入りました。ある部分を受け継いだことを認めざるをえないという思いと、別の部分ではまったく相容れないということを実感する時間となりました。 JK