2020/09/23今週の一言

使徒言行録2章9-11節には、最初のキリスト教会を創設した人々の筆頭として「パルティア人」が記載されています。冒頭に紹介されているということは、その集団の中で多数を占めていたか、それとも最重要であったかでしょう。使徒言行録の著者であり、フィリピ出身(ローマ帝国の植民市であり退役ローマ軍人が多く住んでいた町)のギリシャ人ルカはどのような意図で、パルティア人を筆頭に諸外国人たちを紹介したのでしょうか。

アルサケス朝パルティア王国は、当時の西アジア最大最強の大国であり、紀元後3世紀までローマ帝国と領土・支配権の奪い合いで軍事的・政治的に凌ぎを削ったライバルです。その最大領土は現在のトルコの東部から、ジョージア、アゼルバイジャン、シリア、イラク、イラン、アフガニスタン、パキスタンの西部まで含まれます。交易路であるシルクロードを経て、中国の漢王朝からも「安息国」として知られるほどの超大国です。冒頭の聖句9節でパルティアに続くメディア、エラム、メソポタミアといった地名は、すべてパルティア王国の支配下にありました。

キリスト教会誕生の頃はアルタバノス2世という王が統治していました(在位、紀元後10-38年)。この王の統治時代、ユダヤ人の兄弟がパルティア王国のバビロニア総督に対して反乱を起こし、一時バビロニア地方をこの二人が支配したこともありました。ユダヤ人とパルティア人には往来があります。

パルティア人はアラム語とパルティア語を使用していました。パルティア語を用いる時もアラム文字を使うことができました。日本語話者が漢字の音読みと訓読みを併用するようにアラム文字を使っていたのです。ユダヤ人たちもアラム文字とアラム語を使っていたので、パルティア人との連絡はさほど不便ではありません。

聖書学の定説によれば著者ルカは、キリスト教会の迫害者である支配者ローマ帝国に気を使いながら使徒言行録を書いたと言われます。つまり「反ローマ帝国的要素」を注意深く避けながら教会の歴史を著したとされます。大方はそうかもしれません。しかし少なくとも「パルティア人」についての言及においては、そうではないでしょう。最初の三千人のキリスト信徒にパルティア人が多かったということは、かなり反ローマ帝国的要素だからです。

フィリピの町で病院を営んでいた時、ルカのもとにはパルティアとの戦争によって負傷したローマ軍人やその子孫が治療のために訪れていたと推測します。ローマ人はパルティア人を敵国として憎んでいます。冒頭の聖句10節にはローマ人もいたことが証言されています。ルカの教会観が垣間見えます。JK