2020/12/23今週の一言

新約聖書には多くの旧約聖書が引用されています。クリスマス物語にも多くの預言書が引用され、イエス・キリストの誕生は数百年前から予告されていた出来事の成就であるという「証明聖句」として用いられています(マタイ福音書2章17節参照)。新約聖書記者たちの時代にあっては、そのような旧約聖書の読み方は一般的でした。いや、正確に言うならば、旧約と新約を「預言と実現」の関係で理解することは、今でもキリスト教界全般で一般的です。東方教会であれ、西方教会の中のカトリックであれプロテスタントであれ、あてはまります。

この流れに竿を差しているのは、18世紀から興隆した「近代聖書学」の歴史的批評的分析だけかもしれません。歴史的批評的聖書学は、聖書の各文献が「書かれた時代」を推定し、それぞれの言葉が、それぞれの時代に対してなされた表現活動であることを定めます。歴史的批評的分析に従えば旧約聖書の預言は、決して遠い未来についての予知ではなく、その時代に対する「神から託された伝言」であるか、せいぜい近い未来についての警告や期待なのです。

このような冷徹な学問的営みは「素朴な信仰」にとって害悪なものなのでしょうか。確かに知識偏重の傲慢に陥る誘惑はありえます。しかし他方で、知れば知るほど知らないことの総量が増えていき、学ぶほどに謙虚になるのが学問の道です。歴史的批評的聖書学であっても、学ぶほどに神の前に首を垂れていくはずです。また「素朴な信仰」がしばしば「煽られた熱狂」にとって代わる危険にも注意が必要です。現代に生きる私たちは決して理性を放棄してはいけません。科学的知識や非暴力の理性なしに、この時代に伝道をすることは困難でしょう。

神学は「教会に仕える学」という縛りを持っています。歴史的批評的学問の成果は、教会で分かち合われる「福音」として、つまりはその時代の人を活かす言葉として公表されるべきです。統合が必要です。「預言と実現」という図が「福音」になる場合も、逆に「福音」にならない場合もありえます。そこに旧約聖書学の学問的成果を入れ、新たな「福音」を現代に届けていく作業が大切です。

紀元後1世紀にマタイ福音書を編纂した人々は、旧約聖書のエレミヤ書31章15節を引用しました(2章18節)。預言者エレミヤの紀元前6世紀の預言が、ヘロデ大王によるベツレヘム虐殺事件で実現したとマタイ教会は考えました。この当てはめは現代のわたしたちを活かす言葉となっているでしょうか。むしろ、バビロン捕囚に際してエレミヤが語った言葉そのものの方が、「福音」となっているように思えます。31章は「新しい契約」を打ち出す希望の章・慰めの章です。JK