主の慈しみ 詩編131編1-3節 2021年11月14日礼拝説教(舛田栄一神学生)

改めまして、泉教会のみなさま、こんにちは。詩編の131編をとおして、皆様とともに礼拝にあずかる恵みと幸いを感謝いたします。少しだけ、城倉先生と私の関係を紹介させていただきます。城倉先生と私は、東京バプテスト神学校の「師匠と弟子」の間がらです。昨年、城倉先生から半年間、「今、イザヤ書をどのように読むのか。」と題して、講義を受講させていただきました。

 城倉先生は、講義のなかで泉教会をご紹介してくださり、なんと犬(ワンちゃん)も一緒に礼拝に出席している。そして、先生の説教をこれまた熱心に聞いている、と教えていただきました。「内心、本当かな?」、と思いましたが、改めてお送りいただいた9月19日の週報をよくよく拝見いたしますと、礼拝出席者、ヒト男5名・女7名、イヌ男2頭、女0頭、合計 人12名、犬2頭となっていて、犬の出席欄がちゃんと設けられておりました。

何かほのぼのとした、とても嬉しい気持ちがいたします。私たち人間は、「神様に創られた被造物である」と教えられてきたところですが、動物も同じように神様の被造物であり、「ともに主の御前の礼拝に参加し、神の恵みと祝福にあずかる」という考え方は、とても素敵だと思います。

 そのほか、城倉先生からは、泉教会が大切にされていることとして、「日本一、ヒマな教会を目指そう」というキャッチフレーズのご紹介がありました。 会社の仕事も家庭の仕事も、そして学校の勉強もなかなか終わりがありません。 たくさんの仕事とノルマのなかで、疲れを覚え、体力の消耗を感じることが少なくありません。教会は、そのような社会の延長にあるのではなく、礼拝をとおして、共に御言葉の恵みを分かち合い、互いに祈りあい、平安と感謝、希望と勇気をいただいて、新しい一週間を、新しい思いで始めることができる。そのためには、奉仕のための奉仕ではなく、本当に必要な働きをきちんと選択する必要があること。泉教会の皆様は、そのような教会の在り方を共に目指しておられる、このように感じ受け止めさせていただきました。ありがとうございます。

 さて、ダビデの詩とされている詩編131編につきまして、私たちに語られている御言葉の恵みを、もう少しご一緒したいと願っています。

 ところで、この「都上り」とは、そもそもどのようなものであったのでしょうか。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                

旧約聖書、最近ではヘブライ語聖書と呼ぶ方も多いようですが、申命記16章16節には、このように記されています。「男子はすべて、年に三度、すなわち、除酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出かけなければならない。ただし、何も持たずに主の御前に出てはならない。あなたの神、主より受けた祝福に応じて、それぞれ献げものを携えなさい。」とあります。

 イスラエルの三つの大きなお祭のひとつ「除酵祭」ですが、これは3月から4月頃に開催される「過越の祭り」とセットであったようです。「七週の祭り、七週祭」とは、穀物の刈り入れを始めた日から数えて7週目、おおよそ6月頃に開かれるお祭りです。最後の「仮庵の祭り」は、秋の収穫を感謝するお祭り、収穫感謝祭ですが、あえて木の枝で作った「仮庵」に住むことにより、先祖がエジプトを出て荒野をさまよった期間を思い起こそうとするもので、10月頃にお祭りが行われます。

 ユダヤの人々は、このような大きなお祭りに合わせて、エルサレムに出かけて行き、礼拝と捧げものを行っていたのでしょう。イエス様とイエス様の両親が、この都上りに参加した様子について、ルカによる福音書の2章41節から記されています。どうぞお聞きください。

『41さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。 42イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。 43祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。』

 イエスさまの両親、つまりヨセフとマリアは、過ぎ越しの祭り、過越祭には、毎年、エルサレムに旅をしたと記されています。地域の方々や家族、親族のみなさんも一緒に都上りの旅に出られたかもしれません。時は三月から四月、旅をするには良い季節だったことでしょう。

 さらにルカは、ユダヤの社会において、とても大切なことを書き加えています。それは、「イエス様が12歳であった」と記されていることです。実は、ユダヤ社会において、子供が12歳になるということは、特別な意味をもっています。それは、ユダヤの信仰共同体において、共に聖書を読む仲間として、認められ、お祝いされる、ということを意味しています。 

ユダヤの聖書であるトーラーを人前で読み、そのトーラーを学び、そして長いスピーチをすることができるというものです。12歳になったイエス様は、喜びのうちにユダヤの信仰共同体の一員に加えられ、「共に聖書を読み、学ぶ」という祝福のなかに、ご家族と一緒に「都上り」
をしたと読み取ることができます。

 この都上りの旅には、女性も含まれており、小さな子供も一緒であったかもしれません。あるいは大切な家畜や犬も一緒であったかもしれません。長い道中、いろんな人と知り合いなり、親しくなったことでしょう。たくさん歩くことはとても大変なことですが、忙しい仕事を離れて、普段見ることのできない光景や、なかなか手に入らないお土産、そこでしか食べられないおいしい食事、そして何より神殿での礼拝と捧げものをとおして、罪が許され、平安と祝福をいただいて、新しい一年の旅路がはじまる。そのような巡礼の一コマが、詩編131篇に切り取られているように思います。

 この詩編131編は、とても短い詩編ですが、エルサレム神殿のなかにある階段をひとつ上るごとに、15の「都上りの詩」をひとつずつ朗読したとの言い伝えもあります。 詩編120編から134編までの15個の詩編は、ひとつのグループとして、さらにイスラエルの歴史やユダヤ人の信仰、救いを求める個人の内面にいたることまで、それぞれのつながりの中で、暗唱され、歌われてきたと考えることができます。

そのようにしてダビデの詩編とされる131篇の2節を読みますと、「私は魂を沈黙させます。私の魂を、幼子のように、母の胸にいる幼子のようにします。」と記されています。 「魂」それから「私の魂」という言葉が取りあげられており、ダビデ個人の深い内面、深い思いに触れています。

 このダビデの深い思いを、階段の前後の踏み段のように取り上げている、そのように読めるのが、一つ前の詩編130編です。ここにはダビデの名前は出てきません。しかし、罪の深い淵から主を呼び求める声、自らの不義を嘆き祈る声が主に届くようにという、切々とした祈りと願いは、ダビデが刻んだ歴史とダビデの深い苦悩の内面に触れるものとして、読み手に迫ります。

深い淵から主に救いを求める祈り、詩編130編は、巡礼の人々にとって、ダビデの生涯における困難と苦悩を思い起こすと同時に、自らの人生における困難や苦労をも重ねて思い起こさせるものであったことでしょう。ダビデは続けます、「しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。私は主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます」というダビデの信仰告白は、今を生きるわたしたちにおいても力であり、希望であり、平安であります。

さて、詩編131編に戻りますと、その1節においてダビデは、「主よ、わたしの心は驕っていません。私の目は高くを見ていません。大きすぎることを、わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。」と唐突に語ります。この突然とも思えるダビデの告白は、次の詩編132編の冒頭、「主よ、御心に留めて下さい。ダビデがいかに謙虚にふるまったかを。」に続きます。そして多くの聖書は、この「ダビデの謙虚」を「ダビデの苦労」と訳します。

このダビデの苦労とは、エルサレムの神殿の礎を築いたダビデの苦労のことでありましょう。詩編132編の前半をわかりやすくまとめますと、「主のための神殿を設けるまで、私は、家に帰らず、テントで休まず、ベッドに入らず、眠りません。」とダビデは告白をしています。 詩編131編は、「エルサレム神殿建設の礎を築く」というダビデの偉業、大いなる業を受けつつ、ダビデの言葉として、「主よ、わたしの心は驕っていません。私の目は高くを見ていません。大き過ぎることを、わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません」と宣言しているのです。

 今を生きる私たちの社会や生活では、自分の能力を高め、大きくすること、なりたい自分を実現していくことが大切とされています。たくさんのことをなし、大きなことを仕上げることのできる人は、素晴らしいことであり、小さなことよりも大きな結果を残した人が尊ばれる風潮が多くあります。しかしダビデは、大いなる業を成し遂げながらも、あえて主の御前で「これらのものを追い求めません」と宣言するのです。 「あなたの慈しみに生きる人々は 喜びの声を上げる」「わたしの慈しみに生きる人は、喜びの声を高く上げる」と歌い告白しています。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                

私たちの日々の生活においては、エルサレム神殿のような華々しさ、ダビデのような栄誉や称賛はないかもしれません。けれども主は、そのような大きなことをなすことができる私たちを良しとされるのではなく、ダビデのように深い淵から祈り、主の憐みのなかに私の罪が赦されていること、小さなこどもがいつも母親に信頼をしているように、主を待ち望み、主に望みをおくこと、日々の生活の小さなこと、そして平凡と思われることにこそ、主は恵をもって臨んで下さり、私の人生という巡礼の旅を、今日も支え続けてくださる方であることを、覚えて歩んで参りましょう。お祈りをいたします。