2021/07/07今週の一言

ヨシュア記は創世記から数えると六番目の書です。「モーセ五書」という括り方は人口に膾炙しています。創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記という冒頭の五つの書の総称です。

しかし内容面から見ると「五書」の終わりは中途半端なものです。というのも創世記でアブラハムとサラに約束されている「子孫繁栄」「土地授与」のうち、「土地授与」は実現しないままに申命記が終わるからです。シナイ契約の締結(出24章)・律法の授与という観点からは「五書」というまとまりは合理的ですが、神の約束の実現という観点からは「五書」というまとまりは未完成です。

「約束の完全なる実現」にヨシュア記の意義があります。モーセの後継者ヨシュアによって初めてパレスチナ地域にイスラエルが入り、部族ごとに土地の割り当てが定められ、定住していくからです。この点を重視して、「六書」というまとまりを重視する学者もいます。ヨセフの遺骸を埋めるという記事は、この立場を補強しています(ヨシュア記24章32節)。この記事は、創世記50章25節にある「出エジプトの際には自分の遺骸(ミイラ)を運び出すように」というヨセフの遺言を子孫たちが実現したことを示しています。エフライム部族出身のヨシュアは、ヨセフの直接の子孫です。両者の寿命は共に百十歳、単なる偶然ではありません。

ヨシュアには第二のモーセという面もあります。シナイ契約の立役者モーセと同様に、ヨシュアは民とシケムで契約を結びます(24章)。この契約は民にヤハウェ神への忠誠を誓わせるものでした。この後のイスラエルの歩みはシケム契約に対する不誠実の歴史です。ヨシュア記は士師記・サムエル記・列王記の読み方の指針を与えています。何が「主の目に正しい/悪い」の基準です。

現代の課題としてヨシュア記には特別な留意が必要です。アラブ系パレスチナ住民に対する、ユダヤ系イスラエル国家の軍事占領や土地収奪を正当化するために悪用される場合があるからです。ヨシュア記の戦争記事や「聖絶」(敵とされた住民とその所有物を根絶することによって神に奉献するという観念)は、霊的に解釈されなくてはならないと思います。ナザレのイエス(ヘブライ名ヨシュア)は「パレスチナ問題」をどう読み解くのでしょうか。JK