7/13今週の一言

7月13日の「聖書のいづみ」では、出エジプト記29章10-25節を学びました。「祭司聖別の儀式」の具体的内容が記されている箇所です。ここには非常に古い宗教観念が残っています。

第一に、「祭司といえども正義の神の前では殺されなくてはならない罪人である、だから祭司の身代わりに犠牲獣が殺されなくてはいけない」という観念です。

犠牲祭儀には三つの要素があります。一つは、いのちそのものを象徴する「血」です。犠牲獣の血は、祭壇の四隅の「角」(机の角を尖らせていた)に塗られ、祭壇の基にも流され、祭壇の四つの側面にも振りまかれ、祭司の耳たぶ・右手と右足の親指にも付けられ、服にも振りかけられました。血が人の罪を清めるからです。

この観念は、祭壇という物質に人間の罪を帳消しにする呪術的効果があるかのような迷信を生み出しました。ソロモン王に殺されそうになった時に、祭壇の角をつかんで「殺さないでほしい」と嘆願した人々がいたことも、その証左です(列王記上1章50節、同2章29節)。

もう一つの要素は、神が居るであろう天にまで立ち上る「煙」です。犠牲獣は殺され、その血が用いられた後、一部または全部が祭壇で燃やされました。動物を燃やす際の煙が、天に居る神の憤りを宥めると考えられていたからです。

この観念は、神が上にだけ居るということや、神に鼻があり嗅覚があることなどを前提にしているので、「霊の神」という教理に抵触します。

最後に、祭司の特別な「所作」です。祭司たちは、捧げられる獣の頭の上に両手を置きます。パンの場合には、捧げ物を揺り動かしながら奉献をしたようです。今やそれらの動作が厳密にどのようなものであったかを特定することはできません。しかし確実に言えることは、祭司の家系にだけ伝えられる所作が、祭司たちの権威付けに役立ったであろうということです。

イエス・キリストの十字架上の処刑がすべての人々の罪を肩代わりするための犠牲だったという信仰は、上記の「血」の要素を下敷きにして発展されたものです。しかし「血が罪を清める」という観念は、現代的には危険な誘惑を伴います。殉教・殉国・ヤスクニ・自爆テロの思想を後押しするからです。

「煙」の要素は衰退していきました。むしろ霊の神が、風や息となって信徒の中に宿るという観念にとってかわられました。「所作」の要素は、手を頭の上において祈る按手礼や、パン割きを大げさに行う主の晩餐に継承されました。祝祷やバプテスマの際に手を挙げる行為も、ある種の所作でしょう。 JK