今日から有名な「十の災い」(7:14-12:36)と呼ばれるシリーズに入ります。出エジプトを許可しないファラオに対して、アロンとモーセがさまざまな超常現象を駆使して、何とかファラオからの許可を得ようとします。ファラオは単純に頑固に拒否する場合と、一旦は許可を与えながら考えを翻す場合とがありますが、基本的には「許可しない」という線で一貫しています。また、アロンとモーセの二人が交渉に当たったり・モーセのみであったり、超常現象のためにアロンの杖が用いられたり・かまどのすすが用いられたり、色々と方法は異なります。しかし、ヤハウェが不思議な現象を起こすことは一貫しているし、エジプトの魔術師の真似事はヤハウェの起こす出来事に「似ているけれども劣る」という関係が一貫しています。
今日の箇所は、「十の災い」の導入部分と(7:8-13)、「第一の災い(血の災い)」にまたがっています。導入部分は、憲法の前文のように、十の災い全体の読み解き方を提示しています。そして第一の災いは、「ヘブライ人の男の赤ん坊をナイル川で虐殺した出来事」との関係で解釈すべきと考えます。
一般にP集団は、アロンを持ち上げます。PはPriest祭司の略です。エゼキエルも祭司の出身ですが、正に彼のようにバビロン捕囚においては身分の高い貴族のみがエルサレムからバビロンに強制連行されました。大祭司の血統は貴族の中の貴族です。その人々がモーセ五書作成の発起人であり最終的な編集者たちだったのです。だから、「モーセとアロン」という言い方はPの筆です。「アロンの杖」が重要視されている部分もPの筆です。P集団は、自分たちの直接の先祖であるアロンの偉大さを言い募りたいからです。先週も取り上げたとおり、Pにとってアロンは「預言者」(1節)です。この肩書きはモーセが唯一無比の預言者とするDの意見と対立しています(申命記34:10)。アロンに対する破格の格上げがなされています。
十の災いの導入部分を書いたのはPです。導入部分がアロンの杖の強力さを語り、専ら主人公がアロンだからです。それに対して第一の災いについて言えば、主にJが書きそこにPが補助的に書き加えていると推測できます。第一の災いが途中から「モーセとアロン」を登場させながらも(20節)、全体としてモーセが優位に立っているからです(14節・19節)。十の災いの中で、二人が交錯して登場するのは、PとJの個性の違いから説明できます。
さて8-13節がPであってJではないということは、「蛇」(9・10・12節)という単語とその単語の解釈に関わるので重要です。ここで蛇と訳されている単語はヘブライ語タニンです。蛇ももちろんタニンの語義の一つですが、大蛇や鰐という翻訳も可能です。わたしの意見は大蛇/鰐です。最古の翻訳であるギリシャ語訳旧約聖書はドラコン(英語のdragonの語源)とし大蛇、すなわち伝説上の怪物という翻訳の正しさを示唆します。ヘブライ語には蛇についてのナハシュという別単語があるので、やはり訳し分ける必要があるでしょう。
地面に投げた杖が蛇(ナハシュ)に変わったという記事は4章1-4節にあります。J版モーセの召命記事の一部です。それを引き受けて、7章15節における「あなたは蛇(ナハシュ)になったあの杖を手に持ち」と書いてあります。Jはナハシュを好みます。有名なアダム・エバ夫妻を騙したのもタニンではなくナハシュという蛇であり、創世記2-4章はJ版の創造物語です。
Jがナハシュを好むことに対応するかたちでPはタニンという単語を好みます。創世記1章21節に登場する「大きな怪物」がタニンです。創世記1章はP版の創造物語です。さらにPに影響を与えた預言者エゼキエルがタニンという単語を用いていることにも留意が必要です。エゼキエル書29章3節です(1342ページ)。ここでエゼキエルは、エジプトのファラオを「巨大なわに」(タニン)と呼んでいます。このエゼキエルの思想を引き継いで、Pはアロンの杖がタニンになったと言いたいのです。
つまり、モーセの杖が小さな蛇(ナハシュ)に変わるなら、アロンの杖は大きな鰐/怪物(タニン)に変わるのだぞと、内部の競合相手であるJとの論争においては言いたいのでしょう(大祭司アロンを重視)。また、エジプトの賢者・呪術師・魔術師の杖=タニンというのはエジプトという国そのもののたとえと理解できます。タニンをも創造された神は、エジプトというタニンをも支配し、出エジプトを果たす歴史の主・全世界の主であるとも言いたいのでしょう。
こういうわけで新共同訳は一律に「蛇」と訳していますが、9・10・12節のタニンを「鰐/怪物/龍」と翻訳し、15節のナハシュを「蛇」と翻訳すべきというのがわたしの意見です。それはすなわち、十の災いを読み進める際の指針となります。解釈の方向性や物語の基調に流れている教えは、天地創造の神がヘブライ人たちを救い出すということです。普遍的で大いなる方が、固有の少数の民を救うという不思議です。国家権力も科学の力も地上で怪物のように猛威をふるっていますが、神には勝てないということです。人間は神に対して見栄を張り、挑戦をし続けています。呪術・魔術・秘術は当時の一級の科学です。エジプトは軍事大国であり科学大国(文明)でした。神のなさる業と同じようなことができるかのように見えます。しかし創造主には敵いません。
地震と津波によって、絶対に壊れないはずだった原子力発電所が壊れ、絶対に大気中に放出されないはずだった放射性物質が大量に放たれ続けている現実を前に、わたしたちはアロンの杖がタニンになり、魔術師たちのタニンを飲み込んだことを思い出すべきなのです。人間は神の領域に近づこうとして怪物をつくり、その怪物を制御できないままのたうち回っています。創造主に対する謙虚さが必要です。
22節にある魔術師の不思議な行動も上記のようなフクシマの現実から説明ができます。なぜエジプトの魔術師が、ナイル川の水を血に変える必要があるのでしょうか。自国の民をさらに苦しめる理由はないはずです。彼らは完全にまひをしています。超常現象合戦・力比べをすること・神への挑戦そのものに意味を見出し、最大多数の最大幸福という建前さえ守れないのです。悲惨な原発事故の直後にも原発を再稼働しようとする愚かさと、エジプトの魔術師がエジプトの生命線(21・24節)であり・「国富」であるナイル川を血に変えることの愚かさとが重なって見えます。
さらに第一の災いである「ナイル川の水が血に変わる」について掘り下げましょう。創世記4章には、兄カインが弟アベルを殺害する事件が記されています。ヤハウェはカインに「あなたの弟アベルはどこにいるのか」と問いますが、カインは「知りません。わたしは弟の番人/守る者でしょうか」と答えて白を切ります。するとヤハウェは言います。「あなたが為したことは何か。あなたの弟の血が土の中から叫んでいる」(創4:8-10)。羊飼いを忌み嫌うエジプト人は、羊飼いである弟アベルを殺した、農夫である兄カインと重なって見えます。
エジプトの王ファラオが虐殺した多くのヘブライ人男児(乳児)の血がナイル川の中から叫んでいます。ファラオは、生まれたばかりの子どもをナイル川に投げ込めと命じ、その勅令によって多くのいのちが失われたからです(1:22)。本来ファラオは兄カインとして、弟アベルである寄留のヘブライ人を「番人」として守る必要がありました。政治家の仕事です。しかしその本来の仕事をせずに多くのいのちを奪ったのでした。いのちの主であるヤハウェは、この虐殺事件を決して忘れていません。第一の災いがナイル川を血に変える奇跡でなくてはいけない理由がここにあります。
「わたしはヤハウェ(17節)、ヘブライ人の神(16節)」。このことをファラオに知らせるために、まずナイル川が真っ赤に染まったのです。すべての罪を赦す神は、すべての罪を忘れる神ではありません。理屈の上では(教理上)確かにかつてのファラオが犯した殺害の罪も神は赦すはずです。十字架でなされた贖罪がすべての人に当てはまり、十字架以前の人・以後の人の罪が赦されたとわたしたちは信じています。救いは「成し遂げられた」(ヨハ19:30)。ただし無条件の赦しは罪悪の忘却ではありません。忘れるということは加害者の開き直りを誘発するので危険です。赦しは裁きを内に含んでいます。神はわたしたちを招くときに、罪を含むすべてを受け止め包み込みます。その際、神は罪を指摘するものです。ないものにはしません。罪あるままに罪を赦し二度と罪を犯さないように念を押し新しい生き方へと招くのです。十字架はわたしたちのイエス殺害の罪を問い続けます。しかしそのイエス殺害の罪を、十字架で殺され神から起こされたキリストが贖い、聖霊がわたしたちを悔い改めさせ、永遠のいのちへと導きます。神・人を愛すという人生がわたしたちの救いです。
神は裁くという仕方でエジプト王を招いています。歴史を振り返り、自分の前のファラオの大虐殺事件を指摘しながら、新しい生き方へと招いています。神に反抗する心の自由をも与えながら、「あなたの前のファラオが抑圧したヘブライ人たちに礼拝の自由を保障することで賠償責任を果たせ」(16節)と招いています。今日の箇所ではヤハウェがファラオの心をかたくなにさせたとは書いていません。すべてファラオが主語です(13・14・22・23節。3節と対比)。ファラオは自由意思によって、神の招きを拒否したのです。
ここにもカインとアベルの関係が示唆されています。両者は礼拝の場面で決裂します(創4:3-7)。隣人愛へと招かれている礼拝の場面で隣人愛を拒否し、の結果神をも拒否したのが、カインによるアベル殺害という出来事です。カインはヤハウェとアベルが礼拝において霊的な交わりを実現していることに嫉妬しました。そしてアベルの礼拝の自由を永遠に奪ったのでした。
ファラオはヘブライ人男性の生後八日目の割礼という儀式をする自由を奪いました。彼らの礼拝の自由を永遠に奪いました。そして生き残っているヘブライ人にも現人神ファラオ崇拝と重労働を強要しました。どちらもヘブライ語では「ファラオに仕える」という表現です。だから、その償いとしてヘブライ人たちに荒れ野での自由な礼拝を保障/補償しなくてはいけないのです(16節)。
今日、短絡的な歴史修正主義がもてはやされています。これは1990年代から始まった「慰安婦証言」に対する対抗運動として起こったものです。実に20年越しの草の根右翼活動です。1993年に初当選した安倍晋三もその運動の寵児であり担い手です。若い時から彼はNHKの番組にも政治介入していました。自虐史観を克服した教科書づくりと普及に努めるという形でも教育に介入していました。そして日本軍の加害者性を薄めようとしています。大日本帝国は隣国を侵略し植民地支配をした土地で国家神道・天皇崇拝を強要しました。日本の教会もバプテストもそれに協力しました。それは罪です。誠実な謝罪と賠償が必要な場面です。歴史を直視しない言い方を聞くにつけ、アベルの血の叫び・真っ赤なナイル川の光景が頭をよぎります。ファラオの頑迷な心を思い出します。ヘブライ人の神を毎週礼拝するからこその連想です。
今日の小さな生き方の提案は自分自身の内に柔らかい心を持ちましょうということです。「絶対的なるもの(科学万能/拝金主義/国策)」を捨て、神ならぬものから自由にされましょう。その上で「見張り」の責任を果たし、頑迷なファラオが立ち帰るように警告をしつづけましょう(エゼ33章)。