雹の災い 出エジプト記9章13-35節 2015年6月7日 礼拝説教

今日は第七の災い・天から雹が降ってくるという災害です。全体はJ集団の著作であり、ところどころにE集団が書き込んでいます。物語の縦糸を提供する重要な書き込みです。「神への畏れ」という主題です(20節、30節。1章20節参照)。神を畏れるということは自分の罪(悪さ・弱さ)を自覚するということです。この書き込みによって、ファラオとの話し合いが政治的色合いから、ぐっと宗教的な色合いになります。信仰というものの射程は、社会・経済・政治の話題を含むものなのです。この大小関係に留意しましょう。「神への畏れ」「罪とは何か」が縦糸です。

その上で、キリスト教信仰にとって国家権力とは何であるのかについて深めましょう。「教会と国家」「政教分離原則」「良心の自由」という主題はバプテスト教会にとって伝統的に重要です。この際にまとめて整理してみましょう。信仰と政治の関係は、大小関係というだけでは足りないものです。これが横糸となります。

第七から第九の災いにも一つのまとまりがあります。「天災」というシリーズです。川から陸へ、陸から天へと災害が上に向かっていることが分かります。アロンの杖やモーセの手/杖は、最初は水、次に地、そして天へと差し伸べられていきます(7章19節、8章1節、8章12節、9章8節)。下から上へというイメージが大切です。

人間の力ではどうしようもない領域に物語は進んでいきます。だからこそでしょう。エジプトの魔術師はもはや登場しません(11節参照)。魔術は当時の科学の最先端です。人間の科学技術が及ばない神の領域に至っているということを物語は示しています。その一方で「ファラオの家臣たち」(20節、34節)が頻繁に登場するようになります。

「おそろしい雷」(28節)の直訳は「神の声/音(複数)」です。ギリシャ語訳は直訳しています。この世界は創造主のものであるということをファラオは知って怯えたのです(29節)。偉大な神の前に決して立つことができない自分であることを自覚したとも言えます。神の声/音は、アダムとエバが聞いた「ヤハウェ神の声/音」です(創世記3章8節、ただし単数)。彼・彼女は神の声/音を前にして怯えて隠れてしまいました。ファラオも同じように神の隣在の前に怯えたのです。

「稲妻」(23-24節)の直訳は「火」です。24節前半は、「甚だ激しい雹の真ん中に捕らえられ続けている火」という表現です。この火は、「柴の真ん中に燃え続けている火」(3章2節以下)と同じく、神の臨在を示しています。創世記3章も出エジプト記3章も、どちらもJ集団の書いた物語です。

このような仕方でエジプトの王ファラオが次第に神と面と向かうように物語は進んでいます。当初ファラオは、ヘブライ人の神ヤハウェと面と向かってはいませんでした。奴隷の指導者アロンとモーセの「わがままな要求」を適当にあしらおうとしていたのです。「ヤハウェとは誰か」(5章2節)という態度です。それはヘブライ人の文化への軽蔑と一体化した態度でもありました。アロンとモーセとの交渉の過程でファラオは自らの支配欲を知り、罪をつきつけられ、良心に照らされ、神と出会うのです(5章16節)。

罪とは何か。隣人に対して高ぶることであり隣人を踏みつけにすることです(17節)。ヘブライ人奴隷を差別することです。掴み続け、自由にさせないことの根本にこの「高ぶり」があります。「自分自身を高くする」という表現です。「心をかたくなにする」という翻訳は(35節)、「心を重くする」という表現であると説明してきました。さらに突っ込んで考えると、「心を重んずる」という意味でもあります。ファラオは自分の心を重んじたのです。それが隣人に対して鈍感となること、隣人の足を踏み続けることにつながります。してはいけないことをすることが罪です。

罪とは何か。隣人の警告を聞かないことです。無視をして、すべきことをしないこと(不作為)です。今までアロンとモーセの語ってきたことはみなその通り地上に行われてきました。第六の災いまで経験してきました。その経験則からそろそろファラオは学ぶべきでしょう。しかし差別と支配欲が彼の耳を閉ざすのです。そして自分の民に多くの損害を与えてしまうことになります。

「原子力発電所事故が人災である」と言われるのには理由があります。多くの科学者・市民が「原発は地震や津波に耐えられない可能性がある」と警告をしてきたからです。しかしそれらの神の声(複数)は無視され弾圧されて、「日本の原発は絶対に安全だという神話(世論)」が迷信的に形成されていました。すべきことをしなかった罪がここにもあります。

ここで意外にもファラオは罪の告白をします。「今回、わたしは罪を犯した(ハター)。ヤハウェは正しい。わたしとわたしの民は悪い」(27節直訳)。ギリシャ語訳聖書は「わたしとわたしの民は不信仰だ」と訳しています。非常に宗教的な言い方であることが注目に値します。旧約聖書全体の中でも、非イスラエル人がヤハウェという神に向かって罪の告白をするのは珍しいことです(民数記22章34節)。すべての者は悔い改めに招かれています。ここには民族差別を批判する国際主義が現れています。J集団の特徴の一つです。

とは言えファラオの罪の告白は信実なものだったのでしょうか。極めて疑問です。モーセも疑っています(30節)。今回だけが自分の罪だったように言うのは事実を真正面から捉えていません。案の定、災いが去ったあとにファラオは約束を破ります。再びイスラエルを荒野に放つことを拒み、自分の支配下に把握し続けたからです(34-35節)。「過ちを重ね」(34節)の直訳は、「もう一度罪を犯した」であり、27節と同じ動詞が用いられています(ハター)。ここも宗教的な言い方です。

罪とは何か。不誠実な態度でありご都合主義です。それだから同じ悪を平然と繰り返すことができるのです。こうしてすべての者はこの罪という根本的な倒錯から自力で抜け出すことはできなくなります。エジプトのファラオはわたしたちすべての者が持っている罪の本質を端的に例示しています。罪とは、神を畏敬しないで、隣人を尊重しないということです。

さてここで個人ファラオというだけでなく三権の長としてのファラオ、国家権力そのものとしてのファラオに視点をずらして考えてみましょう。キリスト信徒にとって国家とは何かという考察です。

国家は神の支配の下にあるということがわたしたちの基本線です。「わたしのような神は地上のどこにもいない」(14節)と語る神を信じるわたしたちにとって、国家は神に対抗できません。国家は神になりえません。ここに日の丸を拝みたくない自由の根拠があります。

それは神が国家を立てたということでもあります。「あなたを生かしておいた」(16節)の直訳は、「あなたを立てた」です。神はファラオを権力者として立て、エジプトという国家を立てています。だからバプテストは無政府主義を採りません。しかし何のために神が国家を立てたかを覚えなくてはいけません。「神の力を見せるため・神の名を全地に数え上げて説明するために」国家は立てられています(16節)。

神の力とは人々を救うということです。救済と経済とは関わります。民の生活の基盤を整えるために国家はあります。いわゆる福祉国家というものです。「最大多数の最大幸福」が国家の仕事です。それは神の救いの業の代行です。たとえば、災害が起こる時に避難の方法を伝えることも救いです(13節)。また、国内の人々に損害が起こらないようにしたり、損害が起こった場合に補償したりすることも福祉国家の救いの業です(25節)。創世記41章53節以下のエジプトの総理大臣となったヘブライ人ヨセフの政治が、その理想形です。彼はエジプトだけではなく近隣の人々も経済的に救済しました。

神の名とは「わたしはある/成る」という名前です(3章14節)。この名前は「個人の自由」を示しています。最大多数の最大幸福という考え方は、少数者の意見を切り捨てる/雑に扱う危険性があります。多数決は常に正しいとは限らないものです。国家は多数の人の救いを理由として、少数の人の人権を抑圧することがありえます。最大多数の最大幸福は少数者を犠牲にして良いという考えに流れてはいけません。だから国家と個人では、必ず個人を上にしなくてはいけません。本来自由であるべき個人を、神の似姿として一人一人数え上げて尊重しなくてはいけません。ヘブライ人という少数者を守ることは(26節)、「わたしはある/成る」という神の名による救いです。

アロンとモーセが訴えたことは、ファラオは本来の仕事をしていないというものです。神から委ねられたエジプト国内の多数の人々の幸福を実現していないからです。エジプト人の内の少数者だけがヤハウェの言葉を畏れたので指示に従い難を逃れましたが(20節)、大多数は大きな被害を受けました(25節、31-32節)。古代においては天災が起こるのは王の失政のせいとされていましたから、なおさらのことです(サム下21章等)。ファラオがアロンとモーセの求めに応じないと(またいたずらに魔術師が二人に張り合うと)民が苦しむという図式は失政そのものです。

そしてファラオは宗教的少数者・社会的弱者・外国人寄留者であるヘブライ人を保護していません。むしろ抑圧しています。礼拝の自由を侵害し、行動の自由を束縛し、強制労働によって労働者の権利を侵害しています。これは福祉国家のあるべき姿ではありません。

神のみ旨に反しない限りにおいて国家に従うということは、神のみ旨に反する国家に対しては従わないことがありうるということです。バプテストの伝統と、アロンとモーセの実践は重なります。二人は直接王に向かって訴えます。「王よ、あなたは罪を犯している。あなたは神でもなくわたしたちの良心の主でもない。にもかかわらず、崇拝と労働(仕えること)を強要している。わたしたちの礼拝をさせてほしい。国内に差別がある以上出国させてほしい」。

しばしば政教分離原則という言葉は誤解されています。「宗教者は政治的な活動を控えるべき」という誤解です。そうではありません。政教分離とは国家が宗教を利用することを禁じ、宗教が国家に癒着することを禁じたものです。だから宗教からの国家への批判はありえます。アロンとモーセのように。

バプテストはこの政教分離を徹底させたために「キリスト教的神政政治」も否定しました。カルバンのように市議会を教会指導者が率いることを批判しました。国家権力がカルバン派のみを優遇してしまうからです。「キリスト教であっても政教一致してはいけない」というのがバプテストの主張です。「わたしはある」という、個人の魂の自由こそが大切だからです。

今日の小さな生き方の提案は良い市民になりましょうということです。それぞれの生きている場で神を畏れる生き方・良心的な生き方をしましょう。ファラオの家臣でもヤハウェを畏れることができます。罪を知り神のみを畏れて、一個人の意見を公にし、異見をも尊重し、誠実に知的に歩みましょう。成熟した市民が増えるときにバプテストの教会が形成されていきます。