いなごの災い 出エジプト記10章1-20節 2015年6月14日礼拝説教

今日は第八の災い・いなごの大発生という天災です。13節「エジプトの地に」をギリシャ語訳に従って「天に」と読み替えます。そうすると、第七から第九の災いは天災シリーズとなります。いなごの害は古代人にとっては身近な天災の一つでした。今日の箇所を読み解くヒントはアモス書にあります。最古の預言書であるアモス書(前8世紀)を知っている人々がモーセ五書を執筆・編纂したからです(前6世紀)。アモス書4章9節には、「いちじくとオリーブの木は/いなごが食い荒らした。/しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと/主(ヤハウェ)は言われる。」とあります。ここには北イスラエル王国滅亡(前722年)の警告が、いなごの大発生という天災によってなされていることが記されています。天災は「しるし」(出10章1節)≒「前触れ」なのです。

さて、古代地中海世界におけるいなごについてもう少し掘り下げて考えてみましょう。いなごは食用の虫でした。メソポタミアでも神々がいなごを採取している浮彫絵が出土されています。レビ記においても四種類のいなごが宗教的に清い動物とされ食べることが許されています(レビ記11章22節)。バプテスマのヨハネも常食にしていたようです(マルコ1章6節)。日本でも信州人は今でも食べます。一匹のいなごは弱小動物のたとえにも用いられます。

人類にとって有用な小動物が、時に大発生した時に国全体を滅ぼす大きな力を持っていることをいなごは示しています(士師記6章5節)。日本語の格言「蟻の一穴」に似ています。だからこそ、「しるし」としての効果が抜群に強いのです。皮肉のスパイスが効いているからです。

確かに大災害が起こる時に人間は自分たちの小ささを思い知らされ、「これは何かの警告なのでは」と考えるものです。このことは現代にも通じます。今も地震や噴火が起こっていますが、ここから「時のしるし」を読み取る必要はあるでしょう。地震大国/火山帯国日本は、単純に核発電には向いていない立地条件です。

また同じアモス書7章1-3節には、預言者アモスとヤハウェとの興味深い対話が記されています。古代人にとって天災は王の失政の結果とみなされていました。つまり天災は、「神が懲罰を王にしている」という事態です。アモス書7章は、ヤハウェが北イスラエル王国を懲らしめるためにいなごの災害を準備していることに気づいたアモスが、ヤハウェにその取りやめを祈願するという場面です。「ヤハウェよ、赦してください」と北王国を執り成すと、ヤハウェは思い直して「このことは起こらない」と言ったというのです。アモスは南ユダ王国の出身であり外国人です。アモスと同じように、ヘブライ/ミディアン人モーセがエジプト人のためにヤハウェに祈願すると風がいなごを吹き飛ばしました(出10章18-19節)。

ここには重なり合いがあります。経済的繁栄を享受した北イスラエル王国の王(ヤロブアム二世)と、当時最強の先進国エジプトの王ファラオ(ラムセス二世)とが重なります。南ユダ人預言者アモスと、ヘブライ/ミディアン人預言者モーセが重なります。そしていなごの災害という天災の内容が同じです。第八の災いは、アモス書を下敷きにしています。

それだからファラオの家臣たちは、事態の深刻さを理解します。これはエジプトの国全体の滅亡に関する「存立危機事態」です。家臣たちが「ファラオはエジプトの国が滅んだ(預言的完了)ことを知るべきだ」と、ファラオを諌めて迫ることは当然です(7節)。この家臣たちは、9章20節に登場する「ヤハウェの言葉を畏れ、僕と家畜を家に避難させ、雹の災害を最小限に食い止めた、一部の家臣たち」でありましょう。ことがらは少しずつ前に進んでいます。

当初ファラオは、アロン・モーセとヘブライ人の分断や、エジプト人家臣とヘブライ人との分断に成功していました。ピラミッド状の階層を設け、それぞれの階層同士が対立するように仕向けていました(5章)。しかし、今やそれと逆の状況が起こっています。ヤハウェの言葉に従う者たちがファラオの家臣たちに現れ、ヘブライ人を荒野に放つべきだと主張する家臣たちが直接現人神ファラオに物申すようになってきたのです(7節)。エジプトの王宮内に分断が起こっています。

アロン・モーセとファラオとの面談は、二つの場所で行われてきました。ナイル川の河畔と、もうひとつの場所は王宮です。ヤハウェが「ファラオのもとに行きなさい」という場合です(1節。7章26節、9章1節)。「ファラオの中へと入り込め」という表現です。交渉相手の懐深くに入り込めという指示をヤハウェは繰り返していました。その効果が現れ始めました。ファラオの懐刀たちがファラオの意見に反対し始めたのです。

こうして家臣たちに寄り切られたファラオはアロン・モーセとの条件交渉にのぞみます。エジプト国家全体の損害を最小限に食い止めながら、しかし同時に、ヘブライ人奴隷を失う損害も最小限に収めようとファラオは考えます。政治というものはそのような均衡を図る努力です。ファラオは「三日の道のりだけ荒野に行かせてほしい」というヘブライ人奴隷たちの要求(3章18節・5章3節・8章23節)を真に受けていません。おそらく自由となった奴隷はそのまま手の届かないところまで逃げていくと予測しています。

そこで奴隷の流出を最小限に食い止め、できれば多くの奴隷をエジプトに戻すために「現役世代の男性」(11節)のみを祭のために行かせる許可を出そうとします。8節から11節のやりとりには、ファラオの本音がにじみ出ています。こうすれば女性配偶者たち、高齢者や未成年者は人質となる、これが本音です。ここには現代にも通じる性差別があります。宗教儀式を司る者は男性のみに限るという性差別を前提にして、ファラオはこのような処分をしようとしているのです。

このファラオの策略に対するアロンとモーセの返答は優れています。9節を直訳風に訳します。「わたしたちの若年者たちと共に、わたしたちの高齢者たちと共に、わたしたちは行きます。わたしたちの息子たちと共に・わたしたちの娘たちと共に、わたしたちの羊の群と共に・わたしたちの家畜の群と共に、わたしたちは行きます。なぜなら、ヤハウェの巡礼祭はわたしたちに属する/わたしたちのためのものだからです」(サムエル記上1章参照)。

この返答には礼拝の本質を示す重要なことがいくつも含まれています。それは「わたしたち」「共に」という言葉がくどいぐらいに繰り返されていることにあらわれています。礼拝とは、わたしたちに全てに属するものだし、わたしたちすべてのためのものです。

「わたしたち」にはすべての世代が含まれます。若者も高齢者も入ります。未成年の子どもたちも入ります。祭儀を司る者は男性のみに限られません。9節には「妻たち」という単語がありません。この理由は、成人女性たちを一体化して含んで「わたしたち」と言っているからでしょう。そうなると、モーセはミディアン人の妻ツィポラを「わたしたち」の中に含めているということになります。また、アロンとモーセの姉である預言者ミリアムも「わたしたち」に含まれています。彼女は礼拝指導者でした(12章20-21節)。女性たちが祭儀を司り賛美を主導していたのでした。「わたしたち」には外国人も含まれます。ツィポラもその他の種々雑多の人々(12章38節)もヤハウェの祭に参与できます。

「わたしたち」には動物も含まれます。ひとつの理由は、動物の犠牲祭儀が礼拝の内容でもあったからでしょう。ただしもうひとつの理由もありえます。動物もまた礼拝の主体であったからでしょう。20章8-10節には十戒の中の第四戒「安息日礼拝遵守」が記されています。そこで安息日の礼拝を守る者たちが列挙されています。「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も・・・寄留者も」とあります。今日の箇所とかなり重なっています。動物は犠牲の対象というだけではなく、安息する主体・礼拝者でもあります。

ファラオの条件提示はそんなに悪くないようにも聞こえますが、しかし、この条件は礼拝の本質に触れるのでモーセとアロンは拒否しました。現役世代の男性だけで行う礼拝は礼拝ではないので、条件として不十分なのです。そして家族を人質に取られることは避けるべきなのです(創世記42章18節以下)。

こうして交渉は決裂しいなごの災害はエジプト全土を襲いました(12-15節)。今回の災害はヘブライ人居住区のゴシェン地方も例外なく襲ったようです。かつてなら、ヘブライ人たちはアロンとモーセに文句を言いそうな状況ですが(5章21節)、何も不満は報じられていません。ファラオの王宮内の分断と、ヘブライ人奴隷たちの結束が対比されています。この苦しい状況で、ヘブライ人たちは「礼拝共同体としてのわたしたち」を強固にかたちづくっていったのです。

ファラオは再び罪の告白をします。16節・17節「過ち(を犯す)」は宗教的な罪を指す言葉です(ハター)。今回は、より具体的に「ヤハウェに対し」・「あなたたちに対し」とファラオは告白しています。罪は神への高ぶりであり、隣人を貶める行為であると正確に理解しています(3節)。旧約聖書の中で罪を告白しながら次の瞬間に罪を犯すという人物はファラオしかいません。しかも二度も行っています(20節)。罪というものが自分ではどうしようもない魔物であることを示しています。

ファラオは「ただこの死をわたしの上からヤハウェが取り除けるように」とモーセに願います。死の棘は罪です。いなごの災害は罪の結果としての死を示す「しるし」です。モーセは神に執り成すイエス・キリストの前触れです。旧約聖書の中にはモーセのようなイエスに似た「メシア的人物」が何人も登場します。ファラオのように「万死に値する罪」を犯した者でさえも、イエス・キリストの前では執り成しの対象となります。イエスのようにモーセは祈ります。いなごが神の風/息/霊(ルアハ)によって運び去られ、ファラオの罪が聖霊によって運び去られるように祈ります。ちなみに17節「赦す(ナサー)」は、19節「吹き飛ばす(ナサー)」と同じ動詞です。この西風は裏切った弟子たちを赦した聖霊・イエスの息と同じです(ヨハネ20章22節)。モーセはイエスのように敵を愛するということを実践したのでした。罪と死を吹き飛ばし、新しい使命に生きるように、キリストは全ての者を招いています。

今日の小さな生き方の提案はキリストの執り成しの祈りを信じるということです。わたしたちが無意識のうちに犯す罪もキリストはすでに運び去られています。ファラオは二度でしたが、七の七十倍までキリストは罪を赦します。その愛に応える者は敵を愛する者となります。

巨大な敵に脅かされながらも敵を愛する者たちは神礼拝のために集まります。敵を愛する者たちはさまざまな人々や動物を含むことができます。社会で重んじられている人だけではなく、むしろ小さくされている者たちが真っ先に礼拝に招かれています。ばらばらの個人であるわたしたちが共に礼拝する根拠はただ一つ。キリストの執り成しの祈り・罪の除去・派遣です。