今週は第九の災いです。災いはすべてで十ありますので、最後から二番目。エジプト全土を不思議な闇が三日間覆ったというものです。しかしイスラエルの人々が住んでいるところにはどこでも光があったというのです(21-24節)。第九の災いはファラオとの対話による警告や猶予無しに行われています。第三のぶよの災い・第六のはれ物の災いと同じタイプです。この二つはどちらもP集団の物語なので、第九の災いもP集団が書いたと考えて良いと思います。ファラオが呼び寄せる場合、今までは「モーセとアロン」でした(9章27節、10章8節・16節)。アロンを重視するのはPの特徴です。今回モーセだけが呼ばれているのはPだとすると奇妙ですが(10章24節)、しかしギリシャ語訳聖書は「モーセとアロン」としています。また24節は「あなたたちは行け」と複数形ですので、「モーセとアロン」が本来の本文だったと考えます。「ヤハウェがファラオの心をかたくなにする」(27節)のもPの特徴です。以上の分析から、学説は揺れているのですが、暗闇の災いはP集団が書いたと推測します。
そうすると創世記1章1-5節との深い結びつきがさらに推測されます。前にも申し上げたとおり、創世記1章はP集団による天地創造物語です。創造の第一日、神が光を創造され、闇と光を分けました。この闇(ホシェク)と光(オール)は、単語レベルで今日の箇所と対応しています(21・22節。23節)。予備的に、まず天地創造の第一日目に創られた光と闇について考えます。
この光は物理的な光ではありません。なぜかといえば創造の第四日に太陽・月・その他の星は創られているからです(創世記1章14節以下)。また、創世記1章5節は「第一の日」と訳されますが、ヘブライ語では「一日」と書いてあります。ここには進化論の否定/進化論との対決があるわけではありません。創造論と進化論は別の土俵の話です。
バビロン捕囚のという混沌とした状況にユダヤ人は置かれていました。イスラエル国家という信仰共同体が「かたちなく空しい」状態にされ強制連行され、外国に寄留させられている状態です。人々は立ち上がる気力・復興再生する元気がなくなっていました。一日の苦労が重すぎます。その先が見えないからです。絶望という闇が覆っていたのです。毎日太陽が昇っても気が晴れません。物理的光では解決できない、真の闇が人々の心とからだを塞いでいました。
そのようにうずくまる人々に必要なことは希望という光です。それは物理的な光ではありません。一日の苦労は一日で足りる、明日がある、日はまた昇る、明けない夜はない、上から一方的に差し込む希望という光です。わたしたちは下からその一条の光を仰ぐことができます。それが神への信頼・信仰というものです。わたしたちの状態が悪くても神がかならず救ってくれるという信頼、神への愛です。ヨセフがエジプトの牢獄の中から仰いだ一筋の光。毎日毎日同じ一日が来るのですが、しかし、その闇の中で光を見ることができるのは、信仰者の特権です。
神が最初に光を創造したという言葉は、世界に対する全肯定の宣言です。ひどい世の中だけれどもかならず希望がある、それが「一日」というものだという宣言です。第九の災いを、「神が創った希望の光」という視点で読み直してみましょう。それが聖書を形作った編集者たち(わたしたちの先輩にあたる信仰者たちであり、便宜的にJEDPなどと呼ばれている人々)の編纂意図にかなう読み方です。
アロンとモーセはファラオとの交渉を続けています。それは極めて厳しい話し合いであり出口が見えないものです。二度も罪を告白し二度とも罪の告白を取り消すファラオは、不誠実な対話相手だからです。いなごの災いはイスラエルの人々をも襲いました。もう後が無い感じになりました。アロンもモーセも疲労と焦りが出てきています。25節のモーセの「ファラオからも犠牲獣をもらう」という挑発的な発言や、29節の「二度と会わない」という断言にも、追い詰められた感じが表れています。
この全体状況が闇そのものです。この話し合いそのものも真っ暗闇の中で行われています。ヤハウェが送った闇は、ファラオへの説得材料でもありますが、それと同時にイスラエルを取り巻く厳しい状況を説明するものでもあります。
バビロン捕囚の中でユダヤ人たちも新バビロニア帝国から脱出することを何度も交渉したかもしれません。しかし強大な国家権力の前に、常に跳ね返されていたのでしょう。そうして約50年異国の地に住むことになりました。その人々がモーセ五書を編纂し、毎週の礼拝でそれを読んで希望を得ていたのです。モーセとアロンの状況と重ね合わせ、暗闇の中に「光あれ」と念じながら一日一日希望を持って生きていたのです。ヘブライ人が出エジプトを果たしたように、自分たちも出メソポタミアを実現し約束の地に帰ることを希望し続けていました。この希望は決して絶望に終わることはありません。
ようやく大手の報道機関も報じるようになった動きがあります。毎週金曜日に行われている若者たちのデモです。SEALDsという団体が主催する「戦争法案」を廃案にさせるための活動です。「安保法制」は確実に戦後最大級の法案です。にもかかわらず11本の法案をいっぺんに審議することを始めとして、あまりにも杜撰な審議ぶりが目立っています。国会の内でのファラオとの話し合いの貧しさに驚嘆し失望しています。国会外の若者たちの言葉にもファラオは耳を傾けるべきでしょう。
わたしの心に残った言葉は次のような若者の発言でした。「夜明け直前が最も闇が深い。しかし明けない夜はない。彼らが民主主義を破壊するならば、わたしたちが民主主義を始めよう」。このような言葉に、現代版ファラオとの交渉を見ます。若者たちは暴力的な言葉を使わず、誠実な態度で話しかけています。そのような人々の所にはどこでも光があります(23節)。相手の発言の最中に野次ったり、相手の問うていることに真正面に答えなかったり、相手の人格を傷つける仕方で口汚く罵ったりしない。むしろ相手の良心に非暴力的に働きかける時に、内に宿る光が闇を克服します。闇の中に光があった。そして闇は光に勝たなかったのです。
「イスラエルの人々が住んでいる所にはどこでも光があった」(23節)という状況は、物理的な光のことだけではないように思えます。部屋が明るく家事ができたということだけではないと思うのです。「住んでいる」は「座っている」とも訳しえます。座ることは非暴力の象徴です。暴力的な相手に対してさえも非暴力的に話し合いで解決しようとする者たちには、希望の光が宿るということでしょう。
ファラオは条件交渉に戻ります。彼はモーセとアロンを呼び寄せます。呼ばれる限りにいて二人は必ず話し合いの場所に行きます。二人は希望を持ちながら絶望的に傲慢な相手と同じテーブルに座って条件交渉を続けます。
「あなたたちは行け。ヤハウェを礼拝せよ。妻子同行は許可する(11節参照)。しかし、家畜はだめだ」(24節)。少しずつファラオがより良い条件を示すようになっている様が分かります。25節はモーセの勇み足の発言だと思います。相手を挑発する余計な一言です。それに続く26節はアロンのフォローの発言でしょう。モーセはヘブライ人の礼拝儀式についてよく知りません。後の大祭司となるアロンが礼拝儀式に動物がどうしても必要なのだということを、若干の誇張を交えてエジプト人ファラオにそれらしく説明したのだと推測します(創世記22章7-8節参照)。犠牲に捧げるべき動物を知らないということはありえません。
この答えはファラオの態度を硬化させました。「去らせようとしなかった」の原文は丁寧な表現です。「放つことに同意しなかった」と書いてあります。合意形成に意思があったファラオがそれを断念した気持ちがにじみ出ています。ということは、モーセがまたも不用意な一言(25節)を言っているので話し合いが合意に達しなかったということです。ヤハウェはモーセを「言葉の人」として創っていません。舌の重い人間として創っています(4章10節)。だからヤハウェがファラオをかたくなにしたとも言えます。雄弁なアロンのフォローも虚しく、ファラオは怒り出します。「引き下がれ」(28節)の直訳は「わたしの上から行け」です。「貴様の『上から目線』が嫌なのだ」というファラオの気持ちが伺えます。
「次にわたしの顔を見る時、貴様は死ぬ」とは恐ろしい脅迫の言葉です。ファラオが死刑執行の権限も持っているからです。これで長い交渉が終わってしまったようにも思えます。売り言葉に買い言葉のようなモーセの発言が続くので余計にそう感じます。「よくぞ仰せになりました。わたしは再びあなたの顔を見ません」(29節)。ここにもモーセの強い拒絶の意思が表されています。そうなるとイスラエルの人々はどうなるのでしょう。顔と顔とを合わせて話し合う機会が永遠に失われます。「出エジプト許可証」という「いのちのビザ」は発行されなくなってしまいます。暗闇が除かれたとも語られずに、この物語はここで終わります。希望の光が吹き消されたようにも読める締めくくりです。
11章4節を見ると、今日の締めくくりに反して、モーセはファラオと最後の交渉をしています。なぜモーセは死刑に処されなかったのでしょうか。その理由については次週取り上げることにしますが、今日の箇所で大事なことは闇を意識することです。闇は「ヤハウェの過ぎ越し」という救いの背景です。救いは真夜中の真っ暗闇の出来事でした。わたしたちは年間の主題として「民の救い」を掲げています。その際に、どこからの救いであるのか背景や前提を知らなくてはいけません。
救いとは闇からの救いです。闇とは何でしょうか。それを罪という言葉と言い換えても構いません。罪に二種類あります。世の中の悪い仕組みと、個人の悪さと弱さです。神と人を愛させない社会と、神と人を愛さない自分です。エジプトという社会はヘブライ人社会を社会的に苦しめています。これが世の中の悪い仕組みという罪です。ファラオは個人というよりもエジプト国家を象徴しています。モーセは柔和な人物ですが至らないこともあります。軽率な失敗をしでかすことがあります。個人の悪さと弱さという罪がモーセに表れています。
社会の持つ闇は広いものです。戦争できる国になるということは日本という国が殺人を外国で犯すということです。この広い罪に否応なしに巻き込まれ加担するのです。個人の持つ罪は深いものです。自分の存在が揺らぐような思いを誰しも経験します。大きな失敗を犯したとき、傷ついたとき、傷つけたことに気づいたとき、弱さと悪さに絶望します。その広く深い闇から脱出したいと願うことが求道心です。神を求める心です。
今日の小さな生き方の提案は闇を見つめるということです。徹底的に闇を集中して睨みましょう。夜に星を見続け目が慣れて小さな星が見えるように、希望は闇の中にあります。その光の発見によって人は生きる者となります。