寝ずの番 出エジプト記12章29-42節 2015年7月19日礼拝説教

イスラエルの人々が集団でエジプトから逃げたことは、聖書の語る「救い」の模範例です。イスラエルの人々はこのことを「贖い(買い戻し)」と呼びました。エジプトの奴隷だったイスラエルが自由の民となったからです。キリスト教会に連なる者は、この「贖い」をイエス・キリストが成し遂げたと信じます。罪の奴隷であるすべての者たちが、イエス・キリストによって自由な民と変えられたからです。今日も「救い」について分かち合いましょう。

救いとは長く粘り強い努力によってもたらされるものです。出エジプト記5章から始まる長いファラオとの交渉が、12章31-32節でようやく終わります。出エジプトを願うアロンとモーセは、少しずつ成果を得ていきました。まずは「男だけ」の国外退去許可でした(10章11節)。その後「家族同伴」の許可が降ります(同24節)。今日とうとう「家畜も含めすべて」の許可・満願回答が得られます。

強大な力を持つ相手方が根負けするぐらい願い続けることは、もしそれが神の意思にかなうものならば、無駄にはなりません。そうして達成される正義は救いです。ルカ福音書18章1-8節に「やもめと裁判官のたとえ話」があります。どんなに不正な裁判官にもあきらめずに願い続けることが必要です。悪法が成立しても違憲立法審査権によって裁判をすることもできるのです。

第二に、奴隷であるイスラエルを解放することは、エジプトにとっても救いであったということです。ファラオとの長い交渉を続けるヘブライ人たちの姿をエジプト人たちは見ていました。尊敬の念・厚意の念がそこに生まれていました。イスラエルの人々が求めれば、金銀・装飾品・衣類がエジプト人から寄付されたのです(出12章35-36節)。

36節末尾の直訳は「そして彼らはエジプトを奪った/救った」です。動詞ナツァルは強意・作為の談話態で4回登場します。ここはエゼキエル14章14節にならって「救う」と採ります(出3章22節参照)。というのも、イスラエルがいなくなることは、エジプトにもはや災いが起こらないということだからです。彼らは死を恐れていました(33節)。

さらに、エジプトの世論がファラオの決断を後押ししたということも大事です。奴隷を蔑視してこき使っていたエジプト人が、奴隷たちに厚意と尊敬を持つことは、エジプト人の心を解放しました。加害者はどのようにして救われるのでしょうか。被害者への偏見を捨て、被害者を踏みつけている足を除け、被害者を助けることによって、加害者もまた救われるのです。

救いとは「種々雑多な人々」を含むものです(38節)。イスラエル民族だけの救いではありません。同じような苦しみを負わされていた奴隷のヘブライ人がいました。ヘブライ人(イブリーム)とは「渡り者」という意味合いの社会層を表す言葉です。ここで言う「種々雑多な人々(エレブ)」は、イスラエルの人々と結婚した外国人たちを含みますし、その子孫たちも含みます(レビ24章10節以下参照)。全般に旧約聖書には「純血主義」が強いものです。同じエレブという単語はほとんど否定的な文脈で登場します(エレミヤ25章20節「入り交じった民」、エゼキエル30章5節「諸種族の群れ」)。しかし、それに対する批判としてさまざまな人々がいることを肯定する思想グループもいます。ルツ記・ヨナ書・ヨブ記、そしてモーセ五書の一部を書いた人々(J集団)などです。ただし「妻子を除いて」という言い方には家父長制的狭さがあるので問題です。マルコ6章44節と8章9節参照。今日排外主義が強まる世相の中、多様な人々を肯定する「寛容思想」に傾くことが求められます。

救いとはさまざまな人々を含むものでなくてはなりません。「教会の外に救いなし」と説いた教父(古代キリスト教指導者男性)がいましたが、わたしからすればそれは「恐怖」の思想です。なるほど教会には救いがあるでしょう。ただしその救いは、すべてのいのちを含む内容でなくてはなりません。キリスト教徒だけが救われるという救いは、出エジプトという模範例が示す救いから遠くなります。共に福音に与るという姿勢が重要なのです。

救いとは「ラメセスからスコトに向けて」の旅にたとえられます。ラメセスはイスラエルにあてがわれた居留地でした(創世記47章11節)。ファラオの名前が冠されていることから、ラメセスは奴隷の苦しみの象徴と言えます。それに対してスコトはどうでしょうか。この土地は考古学的にも場所が同定されていますが、それ以上の意味を持っています。スコトが「仮庵(祭)」(申命記16章16節以下)の意味を持っているからです。

仮庵祭はユダヤ教徒の三大祝祭の一つです。秋の収穫感謝祭だったものが、荒野での仮住まいを記念するものに「歴史化」された祭りです。現在でもニューヨークのアパートのベランダに仮小屋を建ててお祭りを過ごすユダヤ人もいます。荒野での仮住まいの旅の記念ということが要点です。

奴隷の家に定住する生活から、仮庵に象徴される移動生活の旅へと変わることが「救い」というものです。ヘブライ人への手紙11章12節をお読みいたします(新約415ページ)。地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表した者が、聖書の民です。キリスト者もまたこの人々の後輩です。

救いとは主観の問題でもあります。どのような気持ちで日常を過ごすのか、どうすれば快いのかということです。救いとは物や者、あらゆるモノに対する執着から解放されることです。物への執着は所有欲、者への執着は支配欲です。物や者の奴隷となることがわたしたちにはありえます。いつのまにかそれらが自分の神になるという皮肉な現象があります。これが罪の真相です。

キリスト者は、それらのモノは神ではないと言い切ります。さらに、自分の所有するモノなどありえない、むしろ身の回りに持つモノはすべて神から与えられ、預けられているだけにすぎないと考えます。なぜなら地上では仮住まいだからです。神ならぬモノを相対化するときに快い毎日となります。すべてのモノに縛られずに自由に生きることができるからです。

救いは非暴力です。暴力的ではない方法で暴力から逃れ非暴力を身に帯びることです。「主の部隊」(ツェバオート・ヤハウェ)という表現があります(41節)。憲法9条を持つ国に住む者として気になる翻訳です。イスラエルの民は武装した戦力・軍隊だったのでしょうか。

「万軍の主Lord of Hosts」(ヤハウェ・ツェバオート)という神の呼び名があります。ヤハウェが戦争の神として崇められていた時代の名残でしょうけれども、わたしたちはこの神の呼び名をどのように解釈し呼び直すかが問われています。この箇所を書いたP集団はどのように考えていたのでしょう。

名詞ツァバー(ツェバオートの単数形)の意味は、「軍隊・軍勢・天使の群れ・天体」(創世記2章1節「万物」P)、「戦争・軍務」(用例多数)、「儀式の奉仕」(民数記4章4節他「仕事」P)です。バビロン捕囚という敗戦を経験し外国でモーセ五書を書いているP集団は、「万軍の主」という熟語の順番を変えて「主の部隊」とし、軍隊と戦争を批判しています。だからここは、「主の群れ/奉仕者」と訳すほうが良いと考えます(6章26節・7章4節も)。

イスラエル国家は敗戦により武装解除されています。その捕囚民の姿が、エジプトで奴隷だったヘブライ人に投影されています。エジプトから夜逃げした人々は武器を持っていません。鍋釜だけを担いで(34・39節)、家畜を連れ、足手まといにもなりうる子どもたちや高齢者を連れて旅にでるのです(37-38節)。「ヤハウェの部隊全軍」なるものの実態は種々雑多な人々ですし弱い民です。軍隊という暴力装置を棄て、ただ神にのみすがる人々です。彼ら彼女らはエジプトという暴力国家に対して暴力で対峙しませんでした。ただ距離をとって逃げるだけでした。暴力からの逃走が救いです。これこそ、ヤハウェに仕える(礼拝する)こと(31節)、あるいは礼拝の中で奉仕することです。

この救いは国家間においても個人間においても同じです。武力の行使や武力による威嚇とは、暴力の行使や暴力による威嚇と読み替えることができます。わたしは憲法9条をそのように拡大解釈しています。

非暴力/暴力否定という救いは、非暴力の神によってなされます。ヤハウェという神は、ここで暴力を行使していません。むしろ「寝ずの番」をします(42節)。「寝ずの番」(シンムリーム)という名詞は、「守る」(シャマル)という動詞から派生した言葉です。羊飼いが夜通し羊の番をして、狼など外敵が来た時に羊を守るというイメージです。神が徹夜をして民を守る、祈って見守る、旅立ちを見送るという光景がここに描かれています。

ルカ福音書でイエスは徹夜で二回祈っています。弟子たちを選び出すときと(ルカ6章12節)、十字架の前夜です(ルカ22章39節以下)。ここには出エジプトの際に寝ずの番をされたヤハウェの神との類似があります。救いとは良い羊飼いである神の祈りによってなされるものであり、それだから非暴力的な仕方で達成される神の業です。

まとめると救いとは人間側から見れば長い努力の結実であり(信仰と希望)、神の側から見れば神の祈りと守りの結実です(愛)。また救いとはさまざまな暴力から逃げることであり、暴力を止めることであり、さまざまな人と寛容な交わりをつくることです。さらに救いとは礼拝者・奉仕者へと召されることであり、礼拝行為そのものです。さまざまなモノへの崇拝を止めて救い主を礼拝するときに、わたしたちは自分の生きている場所へ派遣され、所有欲・支配欲をなるべく避ける生活を心地よく過ごします。この全体が救いです。

今日の小さな生き方の提案は「礼拝によって守られ・礼拝から派遣される生活をしましょう」という勧めです。そこに救いがあるからです。

礼拝がわたしたちにとって守らなければならない義務であるなら本末転倒です。それは人を苦しめます。また礼拝参加のために条件をつけ、達成度によって序列をつけるなら、本末転倒です。それも人を苦しめるでしょう。

わたしたちは礼拝によってイエス・キリストの神に守られているのです。「駆け込み寺」的に教会の礼拝に逃げ込んだ人にとっては正にそうでしょう。それで良いのです。誰からも守られたことのない人が、礼拝の中で無条件に守られることを実感することこそ救いです。

ところで定期的に礼拝出席している人は、次のような誘惑に陥りやすいものです。「わたしが神に仕えている」という発想です。「神への奉仕」という考えです。この考えは「義務化」や「序列化」へと流れていきやすいものです。実は礼拝とは「神がわたしたちのために祈り見守る行為」です。「神の奉仕」です。地球は丸いので神は不眠不休、わたしたちが寝ている時もまどろむことはありません。世からの出エジプトを毎週果たしているわたしたちのために神は寝ずの番をされています。礼拝でその神とわたしたちは出会います。

この守りを背に受けて平日へとわたしたちは派遣されます。礼拝は労働です。神以外のモノを絶対化しない働き方へと明日から遣わされていきましょう。