静かにしていなさい 出エジプト記14章1-14節 2015年8月16日礼拝説教

人生には絶体絶命の危機という場面があります。ある日突然に襲う危機もあれば、徐々に訪れる破局もあります。いずれにしろ、進むこともできなければ、退くことも困難という「進退極まった状況」・「窮地」に陥ることがあります。その時どうすべきか、キリスト教信仰は一つの示唆を与えます。それは生きる道への示唆であり、わたしたちが「救い」と呼んでいるものです。

主(ヤハウェという名を持つ神)の命令は、13章18節の「神は民を葦の海に通じる荒野の道に迂回させられた」という全体見取り図の具体化です。「葦の海」とはどこであるのか、そして出エジプトの脱出路がどこであるのかの詳細について学説は一致していません。ただしそれでも、「ミグドル」「ピ・ハヒロト」(2節)や「バアル・ツェフォン」(2・9節)などの地名を手がかりに最低限わかることはあります。それは、イスラエルの人々がこの箇所の時点でエジプト国境まで来ていて、目の前に浅瀬の海があるということです。

ここに宿営することは神の意志に基づく導きでした。同じ神がエジプト王ファラオに働きかけイスラエルを追跡させます。ファラオの心をかたくなにしたのは主ご自身です(4・8節)。「かたくなにする」(ハザク)という言葉は「強くする」という意味です。神が強めた王の意志を、神がより強い自分の意志でひっくり返すわけです。それによって、神は自分の名誉をとりもどします(4節)。民を救う目的の一つは、かわいそうな人々を救い出すことだけではありません。神ご自身の尊厳を保ち名誉を回復するためということでもあります。愛だけではなく正義の問題です。「ヘブライ人の神ヤハウェ」は奴隷の民と共に貶められていましたが、今や汚名が返上され栄光が現されるのです(4節)。

ただ逃げるだけでも良さそうです。ここで神が自分の見せ場を創出するために絶体絶命の場面が設定されるということは、イスラエルの人々やわたしたちにとっては、いささか迷惑な神の導きです。しかしこれは救いに関する真理の一部です。人生の危機が神の自作自演である限り、わたしたちは神に常に希望をおくことができるからです。試練を与える方は同時に逃れの道をも用意する方です(Ⅰコリント10章13節)。

また、わたしたちの神が名誉・尊厳・栄光に弱いという性質を持っていることも重要です。それが「神に対する有効な祈りの言葉」というものを教えてくれます。「わたしを不条理の苦しみに遭わせるのは、正義と愛の神にとって不名誉なことです」と訴えれば、神は必ず心動かされるからです(創世記18章25節参照)。人生の危機においてわたしたちは「わたしの神よ、どうしてわたしを見棄てたのか」と問うて良いのです(マルコ15章34節)。

ファラオは自分自身の出した勅令・法律に反する行動をします(12章31-32節)。言い換えれば神が悪魔役になってファラオと家臣たちを誘惑し試したということです。「イスラエルの出国許可を取り消して軍隊を出動して暴力的に引き返させよ、そうすればあなたたちの支配欲が満たされるだろう」。ファラオと家臣たちは誘惑に抗しきれずに罪を犯します(5節)。当時の世界最強の軍隊が丸腰のイスラエルの民を追跡し迫害します(6-7節)。

イスラエルの人々は400年間エジプトに住んでいました。この意味ではもはや「エジプト国民」です。自分の国の人々にも弓や槍を向けることがある。これが軍隊の一つの特徴です。沖縄戦でもそうでした。軍隊は民を守るための組織ではありません。国家や国家権力や権力者を守る暴力装置です。天皇の軍隊と同じ意味でエジプト軍はファラオの軍隊です(6節)。ファラオの支配を維持するために治安出動するのです。

ここで想定されている戦車は三人乗りの軍用馬車です。おそらく二頭立ての馬車です。乗員の一人は御者、一人は攻撃兵器を持ち、一人は防御兵器を持ちながら指揮をします(「士官」(7節)の直訳は「三人目の人」)。600の戦車部隊は、だから、1800人の軍隊です。騎兵のなかった当時、最速最強のファラオの軍隊が、恐ろしい音を轟かせて、高齢者や子ども家畜連れのイスラエルの民が寝ている場所を目掛けて殺到するのです(9節)。東京大空襲の夜の恐怖や、イラク戦争の夜間空爆の恐怖を思い浮かべれば恐ろしさが分かります。

イスラエルの人々は恐れます。恐怖の叫びを神に上げます。当たり前です。後ろにはエジプト戦車部隊、前には浅瀬の海。絶体絶命の危機なのですから。「ヤハウェの神さま、助けて」と大声を上げました。そしてモーセを批判します。パニック状態にあってなかなか修辞の効いた一言目です。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか」(11節)。ピラミッドは巨大な墓です。多くの労働によってできた巨大建造物です。そのことを皮肉って、「荒れ野で野垂れ死にするよりもエジプトの地で埋葬された方がましだ」と言っているのです。

12節も重要な言葉です。「我々はエジプトで『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりはエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか」。ここから推測されることは、物語の表面にはでてきませんでしたが、(おもにアロン・ミリアムでしょうけれども)モーセ・アロン・ミリアムの指導者たちは脱走にちゅうちょするヘブライ人たちを説得して、強いて連れ出していたという事情です。「だから言わんこっちゃない」という言い草です。彼らは神に問うべきでした。モーセたちを動かしているのも、ファラオを動かしているのも、実は主だからです。危機に遭うと他人のせいにしたがるものですが、わたしたちはそれを避けなくてはいけません。すべての責任を神に帰することが唯一神教の姿勢です。

このリーダーシップの問われる場面でモーセが民に答えます(厳密にはモーセが語りアロンが通訳したのでしょう)。指導者たちの危機管理能力が問われる場面です。神に模範解答を聞く時間がありません。モーセは自分の全存在をかけて事態の収拾を図ります。ファラオの軍が来る前に、パニックによって内部崩壊することは避けるべきです。根本的な救いではありませんが、救いの前段階を整えなくてはいけません。民全員が救われるためには一体となって外部からの危機に当たらなくてはいけないのです。

①「恐れるな」、②「落ち着け」、③「救いを見よ」、④「静かにせよ」(13-14節)、この四つの指示がモーセのとっさの答えです。ここに人生の危機に対するわたしたちのとるべき態度があります。これらが根本的な救いを準備するのです。内部崩壊を防ぐ四つの指示です。

①恐怖というものは人を支配する力を持っています。威嚇や脅迫が卑劣であるゆえんです。We shall overcomeの第二節は、抵抗運動の只中で生み出された歌詞だったと記憶しています。We are not afraid of you(わたしたちはあなたを恐れない)。白人暴徒や白人警官と対峙する黒人たちが恐怖に震えながらしかし敢然とこの歌詞をもって抵抗したのでした。恐れない態度は武力による威嚇を行う相手の意図を打ち砕きます。

②「落ち着く」と訳された動詞ヤツァブは同じ出エジプト記にすでに出ています。7章15節と9章13節で「(ファラオの前に)立つ」とある言葉です。この言葉は、「逃げない」「屈服しない」という含みを持ちます。初めは現人神ファラオの前に立つことに畏れ多さを感じていたモーセが、その権威に打ち勝って足を踏ん張って立っている様子です。モーセは、自分が神によって自立した個人とされた救いを、イスラエルの人々に伝えています。落ち着けというのは神ならぬ者に屈服するなということです。

③「主の救いを見よ」という指示は、わたしたちに信仰者の視点を与えます。人生の危機において見るべきではないものと見るべきものがあります。その見分けが重要です。わたしたちは永遠ではないものを見るべきではありません。草は枯れ、花はしぼみます。ファラオの軍隊も同じです。イエスの時代のローマ軍もそうです。そしていつかアメリカ軍もそのようにいなくなるでしょう。わたしたちは危機にあって人の手によって造られたものを見て一喜一憂してはいけません。そうではなく、人為的な危機を不思議な形でのりこえる永遠の神の救いを見るべきです。

このモーセの指示によって、イスラエルの人々の視点が変わります。彼ら彼女らは目を上げて後ろのエジプト軍を見ていました(10節)。しかし、再び前にある「火の柱」のみを見上げるようになったのです(13章21-22節)。そこに見えざる神がおられます。目に見えないものに注目するようになったのです。前に救いがあり、後ろには恐怖しかないのです。

④「静かにしていなさい」という言葉には、「語らない」という含みがあります。パニックは人々の騒ぐ声の相乗効果によって発生します。悪さをする犬の前でキャーキャー騒ぐと余計に興奮して悪さをするのと似ています。軍隊はパニック状況を生み出し助長し悪用します。むしろ黙ることが重要です。

言葉にならない苦しみや、言葉にした途端に嘘に聞こえるような窮地というものがあります。このような深刻な危機にあってわたしたちは黙らざるを得ないし、黙ることは正しい行いです。自分の言葉を出さないことが神の救いを準備します。

モーセのとっさの答えはモーセという人物の全存在を言い表したものです。神のみを恐れてファラオを恐れず、ファラオの前に毅然として立ち、神のみを見上げて穏やかに無口を貫く態度。良くも悪くも集団は指導者のようになります。自由民主党も安倍晋三さんのようになっています。モーセという指導者をいただくイスラエルは皆、この無口なミディアン人老羊飼いの振る舞いに影響され、穏やかで毅然としたひとりひとりになっていきます。最大級の危機にあって、民全体の「モーセ化」が進みます。

エジプト軍が到着した時、彼らはイスラエルの民を見て怯みます。寝込みを襲ったつもりがみんな起きています。起きていますが誰もエジプト軍を水に海に向かって立っています。誰も恐怖の声を上げずに静まり返っています。このような時に奇跡が起こるものです。奇跡を待つ静かなイスラエルを見渡すエジプト軍はひるみます。丸腰の民が剣を持つ者たちを精神的に圧倒します。

今日の小さな生き方の提案は、「待つ」という態度を学ぶことです。人生には危機があります。根本的な外からの危機を前にして、内部崩壊を始めるという前段階の危機もあります。組織においても個人においても、内部崩壊をする場合には外からの危機にも耐えられません。混乱に耐える精神性が必要です。その精神性を霊性と呼ぶし、その態度が「待つ」ことに凝縮されます。実に危機こそ霊性を深める好機です。

ここに集まる人々はさまざまな人生の危機に直面していると思います。恐れない・落ち着く・主を見上げる・静かにする、これら四つの態度をもって内部崩壊をこらえ、主の救いを待ち望みましょう。祈れなくて構いません。叫び・うめき・嘆く霊の働きを聖霊自らが共振してくださいます。後ろからの危機を逃れる前への奇跡的救いの道を聖霊が切り開いてくださいます。