パウロという人は今日の箇所をバプテスマと同じであると解釈しています。コリントの信徒への手紙一10章1-2節です(新約311ページ)。「わたしたちの先祖(ヘブライ人)は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなるバプテスマ(洗礼)を授けられ」たと、ヘブライ人パウロは解釈します。バプテスマは、キリスト教徒になる時の通過儀礼であり、教会に入会するための儀式でもあります。バプテスト教会では、キリストによる救いとキリストに従う決意を象徴する儀式であり、そのために全身浸礼のかたちを採ります。
「聖書の最良の参考書は聖書である」と言われます。葦の海を渡ることがバプテスマと同じというパウロの解釈を参考にしながら、出エジプトという救い・キリストによる救い・わたしたち教会が行っているバプテスマについて分かち合いたいと思います。
先週、「奇跡的な救いは待つことから始まる」と申し上げました。救いは人生の危機からの解放です。さまざまな葛藤がわたしたちにはあります。葛藤は格闘によって乗り越えられます。葛藤の原因との格闘です。聖書において、民の葛藤を解き放つために格闘するのは、常に神です。「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」(14・24-25節)。
民は静かに海に向かって立ち尽くしました。それだけです。あとは対岸に向かって歩くことしかしていません。唯一モーセは二回手を海に向かって差し伸べました(21・26節)。一度目は海を分けるため、二度目は海を元にもどすためです。でも、それだけです。ちなみにモーセは「杖を高く上げよ」という主の命令(16節)には従わず、手を差し伸べるだけしかしていません。杖に呪術的な力があることを否定したかったのでしょう。彼ら彼女らはエジプト軍に対して自衛のための戦争をしませんでした。神だけがエジプトと戦い、杖の助力も必要なく主のみがイスラエルを救い出しました(30節)。
救いは主の戦いです。だからわたしたちは何もする必要がないし、何かをすることは良くないのです。ただ待つことだけで良いわけです。もがいても髪の毛一本も自由にできないわたしたちだからです。
キリストはただ一人ゲツセマネで世界全体の救いのために葛藤しながら格闘し乗り越えられました。弟子たちはみな寝ている最中です。キリストはただ一人十字架を背負ってゴルゴタの丘を登り、磔にされました。キリストはただ一人神に起こされ、永遠のいのちを与えられました。
この方がわたしたちのために・わたしたちに代わって罪と格闘し罪を乗り越え、罪人であるわたしたちに永遠のいのちを配り・わたしたちと共におられます。わたしたちがすべきことは、ただ一言「イエスさま、罪人のわたしを憐れんでください」と立ち尽くして祈るだけです。そうすれば救われ、生きる力が永遠に与えられるのです。
バプテスマという儀式には必ず執行者がいます。自分で水をかぶるか、自分で水に全身浸る行為を行った人はいました。ジョン=スマイスというバプテストの創始者も自己洗礼です。しかし「自分で自分を救うことができるようなやり方は、キリストによる救いの象徴としていかがか」という意見が大勢を占めるようになったわけです。主の戦いによる救いの象徴として執行者が立てられる伝統が今や確立しています。執行者を牧師に限るわけではありませんが。
さて、パウロは左右にそびえる海と上にある雲によって民がすっぽりと覆われている様子を(19節・22節)、全身浸礼のバプテスマの様子と重ね合わせています。それは死をくぐりぬけて生き返るというイメージです。キリストが十字架で殺され三日目によみがえらされた姿と、葦の海を死ぬ思いで逃げ対岸で生き返った思いで振り返る民の姿とが重なっています(30節)。「母なる海」と考える者たちには想像しにくいのですが、古代東地中海に住む人々にとって海(ヤム)は恐ろしいものの代表でした。神話においてもヤム(海の意)は怪物として暴れまわります。死の象徴です。
主はここで毒をもって毒を制したのです。当時の世界最強のエジプト軍のすべてが(ただし「騎兵」を「御者」と訳した方が良い。17・18・23・26・28節)、怪物である海に呑み込まれました。ヨナを助けた大きな魚はここに登場しません。暴力的な人間も自然の猛威には勝てないのです。
エジプト軍が死ぬことを見たイスラエルは、「自分も同じ罪によって死ななくてはならなかったのに奇跡的に救われた」という恵みを知りました。軍隊は暴力組織です。しかし民にも暴力性(罪)が必ずあります。モーセに食ってかかる姿は暴力的ではないですか(11-12節)。海をも支配する方が、一方を死なせ他方を生かす。その理由は分かりません。分からない恵みはわたしたちを謙虚にさせます。魚の腹の中のヨナの悔い改めと同じです。バプテスマは「自己否定をくぐり抜けた自己肯定」を象徴する儀式です。
ただほど高いものはありません。代価先払いの無償の救い・無条件の救いはわたしたちを高ぶらせたり開き直らせたりしません。15節の神の問いを常に心に刻む者となるのです。「あなたはわたしに何を叫ぶべきか」(直訳)。「罪人のわたしを思い出してください」と叫ぶべきです(ルカ23章42節)。
救いは夜明け前に起こりました(20・24・27節)。それは小さな光が闇の中にあるのだけれども、闇が光に勝たないという真理を言い表しています。「神の御使い」(19節)は、この文脈では雲の柱・火の柱の言い換えであり同じ意味でしょう。「神がそこに居られる」という古代の表現です。神が体を張ってさえぎったために、エジプト軍はイスラエルに近づくことができずに一晩を過ごします(20節)。不思議な表現です。「そして雲と闇があった。そしてそれは夜を照らした」(直訳)。おそらく、火が中にある雲の柱と(24節)、闇に象徴されるエジプト軍が夜中に対峙しているということです。神がエジプト軍に向かって「光あれ」と言って進撃をとどめて、救いを日の昇る朝まで引き延ばしている状況です。
神は夜中に救いません。完全な闇は絶望の象徴です。キリストの十字架刑死の時に全地が真っ暗闇になったことは絶望を表現しています。少し明るくなる頃、つまり人々が希望とともに朝を待つ頃、神は民を救います。イースターの朝を思い浮かべ、復活者との朝食を思い浮かべてください。ここに救いに関する神の演出があります。弱いわたしたちが、常に朝との連想で救いに希望を持つための、神の演出です。睡眠は死の象徴、起床は復活の象徴です。実際に朝日を浴びることは心身にとても良いそうです。すかっと生き返るのです。
その一方で神は「夜もすがら激しい東風をもって海を押し返され」ていました(21節)。「東」はもちろん日が昇る方角です。東風が海を動かすということは、希望が絶望に打ち勝つことを示します。「東」には「前」という意味もあります。東風はわたしたちを前向きにします。また、「風」(ルアハ)には「霊」という意味もあります。神の霊がわたしたちの人生の海を切り拓きます。ここにも救いがどのようなものであるのかが説明されています。
バプテスマはわたしたちにとって夜明け前の出来事です。教会の希望の光です。これほど手放しで喜べる行事はありません。今年のイースターに17年半ぶりにバプテスマが行われたことは、わたしたちに出エジプトの出来事を思い起こさせます。神は17年半、ずっとわたしたちのために立ち尽くし、わたしたちを滅ぼす勢力を押しとどめていたのです。その間、神の霊が海を切り拓き、ひとりの人を信仰告白へと導かれました。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして光があった」(創世記1章2-3節)。この神の救いを見る者たちは前向きになり希望を抱きながら共に歩むことができます。
救いは民全体が同時に体験する出来事でした。葦の海を渡ったのは、子どもからお年寄りまで含む人々、男性も女性も性的少数者も含む人々、ヘブライ人と称される種々雑多な人々、さらに家畜までも含むいのちの全体でした。パウロはこのような全体的な救いを教会の儀式であるバプテスマに重ねています。
動物はバプテスマを受ける必要がありません。動植物はすでに神に愛されていることを知り、神に応えて生きているからです。野の花も空の鳥も人間の見倣うべき模範です。人間の儀式に動植物を倣わせる必要がありません。ここで重要なことは、全体が救われない救いは救いの名に値しないということです。
一人の人が救われバプテスマを受けるという出来事が、一つのからだである教会全体に関係があるということを、パウロは言いたいのでしょう。さらにわたしたちは、一つの生態系である地球全体の救いとバプテスマを関係付けることができます。同じパウロがローマの信徒への手紙8章19-22節で動植物の救いについて語っていることも印象深い事実です。
ひとりの人のバプテスマは教会全体の生まれ変わりと復活を意味します。教会が一つのからだだからです。しかもよみがえらされたキリストのからだだからです。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます」(使徒言行録16章31節)。この聖句は「神の家」である教会にも向けられています。新しい家族を受け入れる教会全体が、その時(挙手をもって志願者の入会を承認するその時)、受け入れることによって家族として新しく生まれ変わり救われます。転入会においてもそうですが、その人の信仰告白に「アーメン」と同意するときに救いが共有されます。共通の体験・財産となります。
ひとりの人のバプテスマは世界にとって「動植物に似た人間の誕生」です。それは、神の愛に素直に応答する存在が増えること、被造物世界がそれを受け入れ新しい家族の誕生を喜ぶことです。こうして地球の救いが進みます。地球は人間が地球の慎み深い共生のルールに悔い改めることを待っています。弱いものたち同士が知恵を尽くして、自分たちの種の保存をしようとし、誰も貪らないというルールです。神の愛に応えながら分に応じて歩む生き方です。神は動植物のために「乾いた地」を海から切り分けて設定されました(創世記1章9-10節)。人間よりも先に植物を繁栄させ、動物に祝福(生きる力)を与えました(同11-12節、20-22節)。人間は被造物の先輩に倣うべきです。
軍隊によって脅かされた動物たちが人間と共に「乾いた地」を歩いて救われる出エジプト。戦争が最大の公害であり、戦争の被害者が人間だけではない現実をよく言い当てています。動物たちは常に毛を刈られる羊のように黙々と従順にいるのではありません。その霊はうめいているのです。バプテスマは苦難の中にいる動植物たちの体験を引き受け、そうではない地球(水俣弁で「じゃなかシャバ」)を再生する決意へと動かす儀式です。特に地球総被ばくの現実にあって、この視点が必要です。
バプテスマや転入会の度ごとに出エジプトを共有し何回も生まれ直しましょう。そこに希望があります。この小さな出来事は地球全体の希望の芽となる大きな出来事です。最後に31節を読み、祈ります。