ヨハネはヨルダン川で個々人の謝罪を意味する儀式を行なっていました。神への謝罪をバプテスマで表すのです。これが水によるバプテスマです。教会が行なっているバプテスマは、この意味を含んでいます。悔い改めという意味でもバプテスマを行うからです。ところで、水のバプテスマよりも聖霊によるバプテスマの方が優れているとあります(33節)。それはヨハネよりもイエスの方が優れているという言葉と対応しています(26-27節、30節以下)。今日は聖霊によるバプテスマということが何を意味するのかを考えます。
聖霊によるバプテスマとは第一にイエス・キリストが受けたバプテスマです。
聖霊によるバプテスマとは第二にイエス・キリストの十字架刑です。
聖霊によるバプテスマとは第三にイエスの弟子たちが行なったバプテスマです。これら三つの意味で水のバプテスマよりも優れています。
第一にイエス・キリストが受けたバプテスマについて申し上げます。ヨハネ福音書はイエスが洗礼者ヨハネからバプテスマを受けたことを知っていますが、あえてその記事を省きます。32-33節にある、霊が鳩のように天から降ってイエスのもとに留まるという出来事は、イエスのバプテスマの際に起こっています。最古の福音書であるマルコ1:9-11(新約61頁)を開いて確認してみましょう。ヨハネ福音書がマルコ福音書を知っていたか学説は分かれますが、やはり知っていたととる方が自然です。知っていてあえて省いたのです。なぜか。それは、イエスが洗礼者ヨハネよりも格下の人物であるように見られることを避けたということでしょう。先週も申し上げたとおり、洗礼者がエリヤであることも否定するのがヨハネ福音書の考え方です。ユダヤ教の枠から外そうとしたわけです。「ユダヤ教の枠内の洗礼者からバプテスマを受けた(=弟子)イエス」という図式を避けるために、不都合な事実を隠したのでしょう。しかし、そのようなヨハネ福音書でも受け入れたことがあります。マルコ福音書との共通部分、「イエスのバプテスマの際に聖霊が降りてきた」ということです。
四つの福音書はすべてイエスのバプテスマが聖霊によるバプテスマだったことを証言しています。そしてそれはバプテスマが三位一体の交わりと関係があることを表しています。神の子が登場し、神の子に聖霊が降り、神が「これはわたしの愛する子」と呼びかける(34節参照)、この三者の交わりが地上で実現することにバプテスマの本質があります。4月21日の説教で申し上げたとおり、神と神の子の交わりは食卓で互いに寝そべる近さという親しい交わりです。その交わりには聖霊もいることを表す儀式がイエスのバプテスマだったのです。
バプテスト教会では全身を水で浸すバプテスマを行います。健康上の理由などの場合には別途考慮しますが、基本的に入信の儀式は全身浸礼です。ただし水の量が少ないと「救われない」わけではありません。聖書に忠実にと考えて浸礼を選んでいるだけのことです。水の量より大事なことがあります。それは三位一体の交わりです。バプテスマで地上に何が表現されるでしょうか。天におけるあの水平の食卓、地におけるあの水平な主の食卓、世の終わりにおけるあの水平な祝宴が実現するようなバプテスマを、わたしたちは努力してつくりだしていかなくてはならないでしょう。それがイエスの受けた聖霊によるバプテスマを再現することになります。その限りで儀式には意味があります。
第二の点は、聖霊によるバプテスマが十字架で完成するということです。マルコ10:35-45(新約82頁)をお開きください。二人の弟子がイエスの右と左に任じられたいと願います。イエスはその出世欲・支配欲を批判しながらマコ10:38にあるように、「わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」と言います。このバプテスマは明らかに十字架のことです。マコ10:45にあるように「人の子(イエス)は多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」からです。そして十字架で殺されたとき、イエスの右と左にこの二人の弟子はいなかったわけです。
聖霊によるバプテスマを受けた人は十字架へと向かいます。ヨハネ福音書1:29に戻ります。「世の罪を取り除く神の小羊」とあります。岩波訳が「取り除こうとしている」と訳すように、ここは現在進行形が使われています。取り除きつつある、その歩みを始めた人という含みです。世界全体の罪を取り除く歩みを、聖霊によるバプテスマでイエスは始めたのです。そしてその聖霊によるバプテスマは、十字架で完了します。ヨハ19:30で「成し遂げられた」と最後の言葉を語るように、聖霊によるバプテスマということがらは点ではなく線なのです。イエスの短い活動期間全体が聖霊によるバプテスマということです。ヨハネ福音書だけが、過越祭前日に十字架の日を設定します。その日に小羊が犠牲として捧げられるからです。「世の罪を取り除く神の小羊」(29節)というヨハネの言葉は、十字架の死に至るまで福音書全体を貫いているのです。
ではイエスの活動全体とは何であったのかが問題となります。イエスの「神の国運動」は、平等の食卓を用意することでした。特に食卓からはじかれていた人たちに偏って・傾いて共に食事をすることでした。あなたも神の子である、あるいはあなたこそ神の子であると、99匹を置いてでも1匹の羊に声をかけて偏愛することです。その時、小さくされていた人たちは尊厳を取り戻し、「ありがとう」と神に応答します。そうしてイエスの周りに、神の子であることを取り戻してもらった人が集まります。これが神の国運動です。世の罪を取り除く活動です。「個人の罪を」ではなく「世の罪を」取り除くために、虐げられた人々への愛を徹底したということです。低いところを高めたのがイエスの活動です。
公平かつ普遍的な神の愛を不公平な世で実現するとき、それはどうしても偏愛というかたちになります。99匹の多数派は神に対して「ずるい」「えこひいき」と考えます。しかし多数派によっても奪えない自由があるのです。福音書のイエスは不当に扱われている少数者を弁護します。子どもたち、障がいを持っている人、娼婦、病気を負う人、一人暮らしの高齢女性、ハンセン病の患者、職業的に律法を守れない人、日雇い労働者、非ユダヤ人などなど。当時のユダヤ人たちの中の党派と関係なく、イエスはその時不条理に扱われている人に傾いて偏った愛を示します。多数派によっても奪えないことがあります。それは、その人たちも神の子であるということです。今の言葉で言えば基本的人権です。
不平等な世で平等を実現しようとする人は世間に殺されます。それがイエスの十字架です。そしてそれが聖霊によるバプテスマという生き方です。
5月3日は憲法記念日です。毎年わたしは日比谷公会堂で行われる憲法集会に参加して、銀座パレードに繰り出します。日本バプテスト連盟の「憲法改悪反対」ののぼり旗を持って参加すると、連盟関係者が集まってきます。憲法の本質は人権擁護にあります。多数派によっても奪えない自由を保障するための国民の道具です。現在の多数派、自民党憲法草案の問題は、この人権を制限しようとするところにあります。国家や家族や天皇が、個人の人権よりも上になり、国民に義務を押し付ける内容だからです。それは憲法ついての無知であり破壊です。わたしは1-8条までは削除という改憲に賛成ですが(天皇制は法律レベルで規定できる)、自民党草案のような改憲に反対です。なぜかといえば、聖霊によるバプテスマは十字架に至る道だからです。イエス・キリストが成し遂げられた、世の罪を取り除く作業に参与することの一例は、この時代にあっては憲法改悪を阻止することです。少数者の人権を守ることに直結するからです。世間に疎んじられる結果をもたらすかもしれません。しかし苦労を甘んじて受け止めて、主に従うことがわたしたちの受けるべきバプテスマ(苦い杯)でしょう。
第三に、聖霊によるバプテスマはイエスの弟子たちが行なっていたバプテスマであるということです。
ヨハネ福音書は極めて特徴的なことに、3:26でイエスがバプテスマを授けていることを記します。他の三福音書にはない記述です。このことは33節と対応します。どちらが史実かと言えば、この場合はヨハネ福音書の方が史実でしょう。教会が最初期からバプテスマという儀式を用いた理由の説明にもなるからです(使2:41)。
しかも実はヨハ4:2において、バプテスマを行なっているのは弟子たちだったと福音書は記します。イエスはバプテスマをさせただけなのです。このことは聖霊によるバプテスマの特徴です。水によるバプテスマは、ヨハネという人が行います。聖霊によるバプテスマは、イエスの代理人が行います。そうすると何が起こるのでしょうか。権威主義が克服されるという効果が起こるのです。
ヨハネは人の平等を解き、神の前での謝罪を求めました。しかし、人々の受け止め方はヨハネに対する謝罪になりえます。そして「ヨハネ先生」という権威が仕立て上げられることになりがちです。イエスはそれを避けたのでしょう。「先生と呼ばれるな」「良い先生は神のみだ」という持論を持っていたからです。聖霊によるバプテスマは、執行する人の権威をはぎとるところに趣旨があります。そしてそれこそ長続きする運動となるのです。カリスマ的指導者ヨハネの死後、ヨハネ宗団は歴史の舞台から姿を消します。誰でも出来る聖霊のバプテスマを行うイエスの弟子たちの「ありがとう運動」は、今も続いています。
目的として三位一体の水平の交わりを目指すバプテスマにおいては、方法として権威主義を取り除く必要があります。手段は目的を規定します。民主的な手段が民主的な交わりをつくるのです。権威主義的な手段が、権威主義的な上下関係や特定の個人を崇める集団をかたちづくります。暴力的な方法は暴力そのものであり続けますし、暴力的な結果、つまりは交わりの破壊をもたらすのです。
泉バプテスト教会は「特別に按手礼を受けた牧師」のみにバプテスマ執行権限を与えなかった歴史を持ちます。そしてバプテスマという儀式を受按牧師の権限としてではなく、教会の責任として行なったわけです。権威主義を避けたのです。その実践は聖霊によるバプテスマということを追求した行為と言い換えても良いでしょう。偉い人なしでも、三位一体の神の名前によって/三位一体の交わりを目指して、聖霊によるバプテスマを行うことがイエスの代理人たる教会の仕事だからです。これはわたしたちの教会にとって重要な歴史のひとこまです。ちなみに初代バプテスト教会においては牧師の投獄がしばしばあったということもあり、委託された教会員たちが礼典を行いました。按手礼と礼典執行は別、これがバプテストです。
目に見えず・耳で聞こえず・手で触れない方、霊である神は、または神とイエスから派遣された聖霊は、「あなたたちの手でパンを配りなさい」「あなたたちがバプテスマを行いなさい」と言われています。分かりやすい権威に頼らずに、神のみを権威として崇め、三位一体の水平の交わりを目指して、毎週の礼拝・主の晩餐・バプテスマを、権威主義を排除する形で行い続けましょう。それが世の罪を取り除く道、イエス・キリストの道に従うことです。