いかなる像も 出エジプト記20章4-6節 2015年11月22日礼拝説教

前々回に、十戒は「十の言葉」であると言いました。義務を命じた「戒め」ではないという意味です。そして前回、「ほかに神があってはならない」という部分を「ほかの神々があるはずがない」と翻訳した私訳を紹介いたしました。十戒のうち八つは否定命令と通常考えられています。しかし、ヘブライ語文法的には普通の否定命令の形が使われていません。ただの否定文とまったく同じ形が使われています。ですから、十戒の否定命令は二通りに翻訳できます。「~してはならない」と否定命令で翻訳する場合と並んで、「~するはずがない」または「~しないだろう」という翻訳がありえます。

今日の箇所である第二戒の場合も、「~するはずがない」「~しないだろう」がぴったりと来ます。なぜかといえば、「それらに仕えたりしてはならない」(5節、新共同訳)というように能動態では、原文において記されていないからです。「それらに仕えさせられるな」が直訳です(岩波訳参照)。いかにも変な言葉です。受身である命令というのは奇妙です。むしろ、「それらに仕えさせられるはずがない」の方が素直です。仕えるは礼拝するという意味もあります。おそらく「人工的な像に礼拝することを強制させられるはずがない、なぜなら、エジプトを出て自由に霊である主を礼拝することが可能になったから」という意味が、本来の言いたいことでしょう。

実は「ひれ伏す」(5節)も「礼拝する」という意味で使われる言葉です。つまり、5節は前半で「イスラエルの人々は像を礼拝することはありえない」と語り、後半で「像を礼拝させられることもありえない」と言っているのでしょう。5節全体は否定命令ではないと考えるほうが素直です。

その5節の翻訳との関係で、4節をも「あなたは、あなたのために像を造るはずがない」と訳しえます。これが直訳風でもあります。神が奴隷から自由にしてくれた、その恵みで十分だからです。「わたしの恵みはあなたに十分だ」と、神はイスラエルの人々に語りかけています。慈愛に満ちた顔を向けて、祝福してくださっています。それなのに、礼拝のための道具である像があなたのために必要なのかと、問うておられるのです。

礼拝のために像を用いることは世界中にある現象です。人々が敬虔な思いになったり、精神を超越者に集中しやすくなったりするという便利さがあります。一概に否定できません。キリスト教会の中にも、マリア像を積極的に用いる教派も、イコン(聖像)を礼拝に用いる教派もあるからです。プロテスタントはなるべく簡素な建物・施設をこころがけていますが、しかし十字架という象徴も、その前で跪く人もありえますので、偶像と言えなくもないでしょう。

唯一神教の中でイスラム教は、像をつくらないことを徹底しました。神を絵に描かないし、預言者ムハンマドの肖像画すら控えます。だから風刺画にされることは耐えられないのです。神を描くことについてキリスト教がもっともゆるやかです。神の子が人の子となったという教理を持っているからです。見えるものに神はなりうるからです。ここにイスラム美術が幾何学模様を発達させ西欧美術が写実画を発達させた原因の一つがあります。

わたしたちは、像をつくることと拝むことをするはずがないと呼びかけられています。自分のために礼拝用の像を持つことには、特有の危険性があるからです。その危険性についてもここで確認したいと思います。その上で、あまり萎縮しないでのびのびと生きるために、「第二戒」を読み直していきたいと思います。礼拝用の神像を持つ必要がないわたしたちは、では、何をもって礼拝し、なにを持って毎日生きていけば良いのでしょうか。唯一神教の中の異端児であるキリスト教会だからこそできる解釈は何でしょうか。

「像」(4節。ヘブライ語ペセル)は、彫像や鋳像を指す言葉です。旧約聖書の中では圧倒的に否定的な文脈に登場します(例外は、創世記31章や士師記17章)。旧約において二つの警告があります。一つは、主というイスラエルの神の像をつくり拝むことに対する警告。もう一つは、イスラエルの周辺の民族が用いる他宗教の神々の像をつくり、それをも拝むことです。

第一の警告はアロンがつくった「金の子牛」にあてはまります(出エジプト記32章)。「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神だ」(32章4節)という民の言葉に、アロンは「明日、主の祭りを行う」(同5節)と応じています。金の子牛は、主の像なのです。牛の像は、4節後半に挙げられている中の、「地にある動物の形」です。

牛は豊作・多産の象徴でした。古代の東地中海世界全般で広く信仰されていた、豊穣の神であるバアルは、神話の中で牛として登場し、牛の像によって拝まれていました。主を牛の像にすることは、反バアル・対バアルの現れなのでしょう。その意味で当時の人々には分かりやすいのでしょうけれども、危険性があります。神が一つのイメージ(像)に押し込められてしまうという危険です。視聴覚教材の強烈な印象操作は仇になる場合があるでしょう。

米国に行った時に、黒人の聖家族像が売られているのを見て、驚いたことがあります。驚くわたしに友人が、「日本人の聖家族像はないのか」と尋ねてきました。それにも衝撃を受けました。つまり、自分が持っているイエス像は「面長・長髪・彫りが深い・優しい・憂いを含んでいる・西欧白人に似ている・30歳ぐらい・男性」に固定化されていることが揺さぶられたからです。それは子どもの頃から読んでいた子ども向けの『聖書物語』の挿絵に影響されてつくられたイエス像なのでした。自分の中に根深く残る脱亜入欧思想や植民地主義を適切に批判された経験でした。

救い主を一つの像に押し込めてはいけません。神は霊であるからです。神は、金の子牛のみにくくられるものでもなく、白人イエスの聖画にくくられるものでもありません。神は収穫を与えるだけではなく、黒人奴隷を自由の身に解放してくださる方でもあります。

金の子牛は人々を支配するために用いられました(列王記上12章28節以下)。アロンも支配のために用いました。せっかく奴隷から解放されたイスラエルを自分のための奴隷とする道具として金の子牛が用いられています。人々の支配されたがる心理をたくみに利用しているからです。像の悪用にも注意が必要です。神を一つのイメージに閉じ込めながら、さらに人々を支配するため・自分のために像を用いることが批判されています。

わたしたちはイエス像を福音書から思い描きます。多種多様なイエス像を描くべきでしょう。しかし、その像には一つの共通点がなくてはなりません。それは利他的なイエス像でなくてはいけないということです。ここにキリスト教独自の貢献がありえます。利他的な神によって、罪の奴隷から利他的に解放されたわたしたちは、利己的な神像を利己的につくるはずがないのです。

二つ目の警告は、他の神々が像として拝まれていたという現実に飲み込まれないようにというものです。つまり、主(ヤハウェ)という神像、バアルという神像、アシェラという神像、アシュタロト、アナト、ケモシュ、ミルコム、モレクなどなどの神像が並んで拝まれている状況が想定されています(列王記上11章、同下17章等参照)。主という救い主を拝みながら、それと同時に他の神々を拝むということがありうるだろうか。この問いは、第一戒と地続きです(3節)。ですから、ユダヤ教やルター派・カトリックが、3-6節をまとめて「第一戒」と考えるのにも一理あります。

旧約聖書において多神教の中の一つとして主が拝まれるという事態が起こる場合、具体的には主の神像がつくられているのです。極端な話、主の礼拝所である神殿に、さまざまな神像が主の像と並んで置かれ、そこで同時に礼拝がなされていたのです(同下21章)。実際、「ヤハウェとその配偶神」が描かれている壺がすでに当時の民家から発掘されています。

これは宗教的な不倫です(ホセア4章参照)。あの神を拝みながらこの神も拝むということだからです。そのような態度は不誠実です。イスラエルの人々は、古代西アジアには珍しく一夫一婦制を理想としています。不倫ということに嫌悪感が強い文化です。面と向かう契約関係に誠実であるべきと考えるわけです。人と人とでも、人と神とでも同じです。だから第二戒は、第七戒「姦淫するはずがない」と共鳴しています。

不倫を許さない神は「熱情の神」(エル・カンナー)です(5節)。かつては「妬む神」と訳されていましたし、その方が原意を伝えています。一夫一婦制のように一対一の関係が聖書の神の求める契約関係なのです。神が妬むという表現は「人間臭い」と考えられ、新共同訳は「熱情」と翻訳したのでしょう。

旧約聖書の時代には、他の宗教や像が信徒にとっての危険・誘惑でした。新約聖書の時代にイエスはその思想をさらに展開していきます。「神と富とに兼ね仕えることはできない」(マタイ6章24節//ルカ16章13節)と言い抜くからです。金は宗教でも神でもありません。しかし、人々を跪かせる力を持っています。拝金主義は、ある種の宗教として機能します。金の子牛(バアルの像)は経済的繁栄(豊穣)の象徴とも考えられるので、イエスの言葉と重なり合います。神を拝みながら同時に金を拝むということは、深いところでどんな人にもできない行為なのです。「金を拝むな」ではなく、「同時にできるはずもない」と言うあたりに、第二戒の精神が生きています。他宗教との不倫だけでもなく、もっと裾野を広げています。「あなたが最も大切にしていることがらが、すなわちあなたの神/宗教ですよ」ということです。無宗教の人も、この意味の「神」を持っていると言えます。仕事や趣味、家族など、自分が最も大切にしていること(究極の関心事)が、自分の神です。

自分が夢中になれる何かに集中することは良いことです。「ながら主義」よりもはるかに良いことです。熱情の神は、極端な言い方をしながら、一度信じたら集中しなさいという単純な教えを熱く語っています。「わたしを愛する人には幾千代も慈しみを行う・わたしを憎む人には三代四代も罰を報いる」とは、まったく感情的な言い方です。おそらく、この不均衡な表現で言いたいことは、「やるならとことんやりなさい」ということなのでしょう。わたしたちにも極端な言い方を用いてハッパをかけることがあるではないですか。

問題は、とことん行うその中身です。金のためにどんなことでもするということは、結局利己的な目的に仕えているのではないでしょうか。ここでも「自分のための像」として金の子牛があります。利他的な神にならって自ら隣人となる時に、真に熱い生き方がまっとうされるように思えます。

ナザレのイエスは第二戒の最大最後の例外です。イエスの霊を直接礼拝しながら、わたしたちは利他的な神のイメージをイエスによって広げていきましょう。イエスの霊を吸い込んで利他的な生き方を身に帯びましょう。自分の支配欲のために像をつくりえないわたしたちは、他人に仕えるために自由な発想で小さな愛の行いをしてみましょう。「してはならない」から「するはずがない」へ、さらに「せずにおられない」「してみよう」となることを願っています。