パンの家 出エジプト記20章13節 2015年12月20日 礼拝説教

あなたは殺さないだろう。(直訳風私訳)

クリスマスの出来事と、十戒の第六戒を重ね合わせて考えてみたいと思います。イエス・キリストが生まれた場所はベツレヘムという小さな町でした。日本語の片仮名でベツレヘムと呼びますが、この地名はbethとlehemから成ります。ヘブライ語で、「パンの家」という意味です。救い主がパンの家で生まれたということは、パンと救いが密接に関係していることを示しています。

「爆弾bombではなくパンbreadを」という標語があります。殺し合いの根っこには貧困があることを鋭くついた言葉です。また、空襲・空爆の被害者の多くが子どもたちであることへの憤りでもあります。報復の連鎖をどのようにして終わらせることができるのでしょうか。この地球に住むすべての人が真剣に考えなくてはいけない問題です。シリアを空爆することが、パリの殺人事件を止める力になるでしょうか。おそらく答えは否です。なぜかといえば、アフガン戦争やイラク戦争によってテロリズムは世界中に拡大したことを、わたしたちは最近起こった事実として知っているからです。

わたしたちはクリスマスの機会に、殺し合いを止めることのヒントになることがらを聖書からなるべく多く見つけたいと思います。

まず言葉の意味を調べてみましょう。「殺す」という言葉はヘブライ語のラツァハです。第六戒においても、否定詞ロー+未完了形ですから、「あなたは殺さないだろう」が直訳です。ちなみに、最古の旧約聖書翻訳であるギリシャ語聖書も、「あなたは殺さないだろう(未来形)」とし、マタイ5章21節もそのまま引用しています。そもそも誰を殺す場合なのか、殺した場合に何が罰則としてあるのかが明記されていないので、「あなたは殺さないだろう」の方が理解しやすいと思います。

ラツァハのもともとの意味は「粉々にする」「ばらばらにする」というものです(名詞形やアラビア語からの類推)。殺すということは、他人の体や心をばらばらにする行為ということになります。ばらばらにさせされていたヘブライ人奴隷たちに対する、神の深い愛情が吐露されているように思えます。また、エジプト人を一人殺したことのあるモーセに対する励ましともとれます。「もう二度とあなたは殺さないだろう」という神の期待です。

ラツァハは聖書の中でさまざまな意味合いで広く用いられています。残虐に殺すこと・故意に殺すことも、故殺ではない過失致死も含まれます(民数記35章11節ほか多数。特に「逃れの町」の規定は誤って人を死に至らしめた場合)。殺すこと一般、何でもラツァハに含まれます。

ところが聖書の民の歴史は、第六戒の限定解釈の歴史です。たとえば、『旧約聖書神学辞典』を開くと、「ラツァハは正当防衛の場合には使われない」などと書いてあります。この一言は、「正当防衛で殺すことは良い」という解釈に道を開きます。殺してはならない対象範囲を狭く限定し、殺しうる範囲を広げるところが鍵です。その他にも、「第六戒の対象範囲は信者の間だけ、イスラエル/キリスト教世界のみにあてはまる」という解釈も有力でした。そこから、他国人/他宗教信者/人間以外の命を殺しても良いという理解が生まれます。十字軍を始めとし、アジアにおける原爆投下、太平洋における数え切れないほどの水爆実験、ベトナム戦争・アフガン戦争・イラク戦争における新型兵器使用の通奏低音に、第六戒の限定解釈があります。

自衛のための戦争・正義のための戦争・平和を維持するための戦争・平和を作るための戦争がありうるかのように導く第六戒解釈は、現代許されるべきではありません。それらの暴力行為によって、さまざまな命がばらばらにされ、物理的に粉砕され、精神的にも分断させられ、世界という一つの交わりが瀕死の状況に陥っているからです。

神は「いのちのパン」として(ヨハネ6章48節)、神の子イエス・キリストを2000年前にこの世界にお与えになりました。ひとりの人の姿をとったイエス・キリストというパンは、一つの生命体である地球を象徴しています。このパンは、十字架で虐殺されました。それは、ばらばらに裂かれた地球生命体を象徴しています。そのイエスがよみがえらされたことは、ばらばらに裂かれた地球生命体の復活と再生の象徴です。

教会では毎週礼拝の中で「主の晩餐式」という儀式を行っています。パンと葡萄酒を分かち合う礼拝の必須要素です。パンを用いることはクリスマスを記念する行為です。教会の場合、パンは一つの交わりである教会をも象徴しています。教会は「キリストの体」と喩えられるからです。平日の間、ばらばらに散っているわたしたちは、日曜日に一つに集まって、一つの皿のパンを食べます。パンを体内に入れる行為は、キリストが自分の内に生まれることを象徴します。パンをばらばらに分けることは、イエスの十字架を記念する行為です。そして、もう一度集まることは、イエスの復活を記念する行為です。平日わたしたちは苦難の多い日常生活に向かい、日曜日に集まって蘇生します。

有機体である活けるいのちは、このような新陳代謝を行い細胞の生き死にを繰り返します。単にばらばらにするだけの行為とは異なります。わたしたちがばらばらになるのは、ただキリストの苦難を身に帯びるためだけです。そして二度とキリストのような死刑囚を生まないという覚悟を得るためだけです。わたしたちは基本的に再生を願って結びつこうとするネットワークです。ただし、週に一度一時間だけというゆるやかな結びつきです。このようなゆるやかな結びつきである「礼拝を中心とした交わり」が教会という任意団体です。

ゆるやかな交わりは人を殺さないものです。内部においても外部においても、他のいのちをばらばらにすることに与しないでしょう。外部に対して、すべてのいのちの尊重を訴えるはずです。原則として「ばらばらにする行為」を否定的にとらえるからです。内部において、結束が強すぎる組織は「純化路線」を採りがちであり、上意下達が強いものです。だめな教会は内部の人を抑圧します。メンバーに厳しいことを課すときに教会も過ちを犯しえます。

今日の世界において求められている団体は、NPOやNGOのような形態であるように思えます。多くの非営利団体・非政府組織が、金儲けのためではなくしかも国家権力から離れて、ゆるやかな集団をつくっています。任意団体としての教会を創始した17世紀英国バプテストの精神が、20世紀に花開いた感があります。このような組織が平和を実現するために世界中で働いていることに注目すべきでしょう。

教会は一周回遅れになってしまいましたが、「世界の教会化」に追いつき、その一翼である宗教の分野でのゆるやかなネットワークをかたちづくるべきです。そして一見ばらばらな個々のNPO・NGOが、さらにゆるやかに国際的にも結びつきあって一つの地球生命体をつくっていくことが、報復の連鎖を止めていく力となります。なぜかといえば、結局のところ適度な紛争を必要としているのは、国際的な軍需産業だからです。巨大な資本が、個々の国家よりも上にあり、国家の従える軍隊の「新しい武器を使いたがる性質」を利用して金儲けをしているのです。

さて、ベツレヘムで生まれた神の子イエスは、第六戒をどのように解釈したのでしょうか。第六戒の字義だけではなく、イエスの解釈もまたわたしたちの指針となります。マタイ福音書5章21-22節には次のようなイエスの言葉があります。「・・・昔の人は、『あなたは殺さないだろう・・・』と言われている。しかし、わたしはあなたたちに言う。自分の兄弟に怒る者はだれでも裁きを受ける・・・」(直訳風私訳)。この後には「ばか」「愚か者」と言うことも許されないとイエスの発言が続いていきます。

イエスの言いたいことは明確です。殺人という暴力行為ももちろん、相手を罵倒する「言葉の暴力」も、さらには心の中で腹を立てることも、本質的には殺人と同じだということです。さきほど、第六戒が限定解釈を施され続けていることを申し上げました。どこまでの人を殺さない相手にすべきか、自分の尊重すべき隣人はどこまでの範囲なのかを、ユダヤ教徒もキリスト教徒も気にしていたのです。

イエスはその範囲設定という考えを否定します。すべての人は「自分の兄弟・姉妹」だからです(私訳参照)。抑圧者ユダヤ人のことを憎んでも憎みきれないサマリア人が、倒れているユダヤ人を助けることすらありえます(ルカ10章25-37節)。民族・宗教が異なっていても「自分の兄弟・姉妹」だからです。また、自分から隣人となるならば、どこまでが隣人なのかの範囲設定には意味がなくなるからです。

その上でイエスは第六戒を精神面にまで拡大解釈をします。イエスの教える倫理は刑法を超えています。「実行の着手」がなければ原則的には犯罪にならないのが、わたしたちの常識です。しかし、心の中で相手に腹を立てるだけで、殺人罪が成立してしまうからです。これを受け入れると、一日に何回の殺人を犯しているかわからないほどです。客観的事実ではなく主観を問題にしているという意味では、第八戒(盗む)に対する第十戒(欲しがる)と似た方向の解釈です。

さらにイエスの発言は、相手の主観にまで及びます。「兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら・・・仲直りしなさい」(23-24節)。途方もない気の使いようです。相手が心の中で腹を立てていると思ったら、まだ仲違いになっていない段階でも、その人と「仲直り」をしろと言うのですから。ここまで対人関係に気を使う人は、おそらく殺人を犯すことはないでしょう。素朴かつ単純に過ぎて、実行不可能な理想主義かもしれませんが、ここに真理があります。報復の連鎖を止める知恵があります。報復の原動力が憎悪という主観にあるからです。人々の持つ憎悪という自然な感情も操作され、金儲けに利用されています。

軍事大国による空爆を受け家族を木っ端微塵に殺された人が移民としてヨーロッパに移住し、貧しい環境の中で過激思想に触れ、憎悪を糧に無差別殺人を行うのを見聞きするときに、わたしたちはイエスの教えの正しさを知ります。そして自分たちに反感を持っている人に対して、何をすべきかを知ります。敵であっても尊重すべきであり、論敵であっても心の自由・表現の自由をはじめすべての基本的人権を認めるべきです。そして仲直りをし、ばらばらになった心と体と関係性をゆるやかに結び直すべきです。

クリスマスはこのような気遣いを神が世界になさったことを覚える日です。無用な怒りを神と人とに持つわたしたちに、神は爆弾ではなくいのちのパンを差し出しました。「この愛を知れば、あなたは殺さないだろう」と神は優しく促しておられます。毎週いのちのパンをいただく交わり、つまり泉教会という「パンの家」へとすべての人が招かれています。