報復の連鎖 出エジプト記21章18-32節 2016年2月7日礼拝説教

今日の箇所は、三つに分類できます。①自由人が自由人に傷害を負わせた場合(18-19節・22-25節)、②自由人が自分の所有する奴隷に傷害を負わせた場合(20-21節・26-27節)、③自由人の所有する牛が自由人・その子・その奴隷に傷害を負わせた場合(28-32節)です。それぞれの条文を、現代の状況に重ね合わせて考えていきます。その際の物差しはイエス・キリストです。先週、「契約の書」という古代の法律が現代の法律に比べて劣っていることを申し上げました。しかし、今週は、わたしたち現代人が契約の書を決して嘲笑う立場にいないということを申し上げます。

社会科の教科書にも紹介されている「同害報復」が、22-24節に記されています。この文脈では、妊娠している女性に対する傷害(しかも彼女は男性同士の喧嘩に巻き込まれたとばっちりで怪我を負うという場面設定)に対して、命には命、目には目、歯には歯という代償が要求されます。ヘブライ語は、名詞の単数・双数・複数に厳密です。双数形を持つ「目」という名詞が単数形で記されているので、「一つの目に対して一つの目」という意味です。ここには報復合戦が拡大しないようにする知恵が込められています。誰もが一発殴られたならば、二発以上殴り返したくなるところを、一発だけに留める抑制が要求されています。

また、妊娠している女性を流産させた場合は、その他の損傷がなくても、その女性の夫が要求する賠償を、全くの言い値で支払わなければなりません。なぜかと言えば、流産は同害報復になじまないからです。お互いが妊娠中でないと、「流産に流産」という仕返しはできません。事柄によっては、被害者の言い分を丸呑みするという柔軟性は、優れた考え方です。

18-19節もグレーゾーンに対する、ある程度バランスのとれた条文です。殺した場合は死刑となります(12節)。回復不能の傷害を負わせた場合は、同じ障害を負わせるのでしょう。回復可能な怪我を負わせた場合は、治療に責任を負い、見込まれる収入を賠償しなくてはいけないというのです。治ると傷害罪とはならないというのは解せませんが、実質的には被害者も納得するし、何より私刑を抑制し「法治」しようとする姿は立派でしょう。

今日、「報復の連鎖」による殺し合いが世界を覆っています。憎しみの連鎖とも言います。その原因には「非対称の戦争」があります。ブッシュ大統領は「テロとの戦争」というスローガンを打ち出し、アフガン戦争・イラク戦争を開始しました。しかし、これは形容矛盾です。戦争というものは、国家と国家でしかなしえないものだからです。「テロリズムへの批判」や「テロリストの撲滅」ということはできますが、「テロとの戦争」はできません。にもかかわらず、米国とその連合軍(日本の自衛隊含む)は「テロとの戦争」と称して、「テロリストかどうかもわからない武装している人」と、一般の人々を最新の兵器を用いて殺戮しました。

建前上、国ではない武装勢力を攻撃するという点で、釣り合いが取れていない非対称がここにあります。そして圧倒的な軍事力を小国に行使するという点でも非対称です。つまり同害報復にすら成っていないのです。わたしたちが古代の人を笑えないゆえんです。

さてテロリストは撲滅したのでしょうか。逆の事態が起こっています。テロ行為は拡大再生産されています。空爆によって親を失った子どもたちが移民として欧米諸国に住み、貧困・教育格差から犯罪に手を染め、刑務所の中で過激思想と出会い、「自爆テロ」をも辞さない若者となるという事例が、すでに報告されています。非対称の戦争は、それによって金儲けする人を潤すだけです。

遡れば、冷戦の時代に米ソ両大国は、似たような謀略をベトナムでもアフガニスタンでも行っていました。傀儡政権を作るために、反政府武装組織に武器を売りつけ支援していたのです。オサマ・ビン・ラディンは、米国から支援を受けたアフガニスタン反政府ゲリラでした。この類の陰謀よりも、同害報復の方がまだましではないでしょうか。

イエス・キリストは同害報復をも乗り越えました(マタイ5章38-42節)。同害報復でもなお憎しみは残るということがイエスの問題意識です(同43-44節)。同害報復も敵への憎しみを撲滅できません。ただ「敵を愛する」ことだけが、憎しみと報復の連鎖を止めるのです。

さて、被害者の言い分を丸呑みすべき場合があるということは、性暴力被害についてもあてはまります。同害報復になじまないからです。「従軍慰安婦」とされた女性たちに対する償いについて、彼女たちが何を求めているのかを誠実に聞くべきでしょう。「名誉の回復」「加害者の誠実な謝罪」「しかるべき賠償」が彼女たちの訴えです。韓国と日本という国家同士で「不可逆的な解決」がなされる前に、彼女たちの言い分が反映されなくてはいけません。

「あの人たちは自分の意思で汚れ仕事についた」という性産業従事者差別を含む認識の間違えを正すこと、組織ぐるみの犯罪行為であったことを認めて謝ること、一生を棒に振った人もいることを認めて、治療費・見込まれる収入総計など個別に損害賠償を行うことが、可逆的になされるべきです。

二番目に奴隷に対する傷害規定です。奴隷の所有者は、奴隷を棒で打っても良いけれども、即日殺した場合は「復讐される(殺される)」(20節直訳)。ただし、一日二日生き延びた後死んだ場合は「復讐されない。なぜなら彼は彼の銀だから」(21節直訳)。打ちどころが悪く、目や歯を損傷した場合は、奴隷を自由にしなくてはいけない(26-27節)。

ぴんと来ない条文ですが、企業と労働者に置き換えてみてはどうでしょうか。たちの悪い会社ならば、この規定を悪用できます。いわゆる生殺しです。その日に影響の出ない程度にこき使えば、企業は罰されません。また、目や歯にあたるような重大な痛みを負わせない程度に、労働者を痛めつけることも可能です。労働者を自由にしないで済むような、つまり、いつまでも「自分の銀」として用い続けることができるような、違法ぎりぎりの労働条件を飲ませ続けることができます。ここにおいても現代人は、古代の法律を笑えないレベルに留まっているように思えます。

第三番目は、牛が傷害を負わせた場合です(28-32節)。人を殺した牛も同害報復の対象となります。牛の所有者の責任の軽重は、「その牛に以前から突く癖があり、所有者に警告がなされていたかどうか」によって決まります(28-29節)。先週は、故意の殺人かどうかが、罰の軽重に関わっていました(12-13節)。それと似ています。所有者が牛の危険性を知っていて放置していたかどうかが問題です。ここでも被害者の要求を最大限尊重する姿勢は貫かれています(30節)。

被害者が未成年であっても同じ重さの罰となります。古代に珍しく子どもの人権への配慮があります(31節)。しかし奴隷に対しては配慮がありません(32節)。奴隷が所有者の銀であるから(21節)銀貨30枚が賠償金額となります。

家畜としての牛がわたしたちの日常にあまり見かけられないので、この規定もぴんと来ません。それでは、公害の問題と重ね合わせてはどうでしょうか。足尾鉱毒事件やカネミ油症事件、水俣病、イタイイタイ病でも構いません。東京電力福島第一原子力発電所事故についても同じ仕組みがあります。

1973年のスリーマイル島事故、1986年のチェルノブイリ事故を受けて、日本でも反原発の運動は盛り上がりました。日本キリスト教協議会も、日本バプテスト連盟も原子力行政の危険性について警告を発していました。原子力発電という牛は、人間のみならず生態系に重大な影響を及ぼす、「いのちを突く癖を持っている」という警告は、牛の所有者たる電力会社・国にさんざんなされていました。にもかかわらず、政・官・財・学・報・曹の「鉄の六角形」によって、良心的な警告は無視され続け国策として危険な牛は放置されてきました。

2011年3月11日時点で、大人であった者たちはすべてこの罪を負っています。なるほど鉄の六角形の罪もあります。しかし、それを黙認していたのはすべての大人です。わたしたちは危険な国策を知っていながら放置した責任を負っています。福島県を中心とする被ばく地域の人々への誠実な賠償を、東京電力を始め鉄の六角形の者たちも、また、わたしたちも行わなくてはいけないでしょう。そこには原発立地自治体に対する地方交付金を受け取らざるをえないように仕組まれた、「都会と田舎」の格差問題もあります。東京に住むわたしたちの罪責です。ましてやフクイチの事故が収束していないにもかかわらず他の原発を再稼働させることは「同じ牛の放置」です。

さて、奴隷に対する銀貨30枚という賠償金は、イエス・キリストの十字架を思い出させます(マタイ27章3-5節)。ユダという弟子がイエスの身柄を祭司長たち権力者に売り渡した時の報酬が銀貨30枚でした。一旦受け取ったユダは、その後イエスの死刑判決を知って後悔し、銀貨を神殿に投げ捨て、首を吊って自らの生命を断ちます。これを「牛の傷害規定」にあてはめてみましょう。

「牛」はローマ帝国軍です。「牛の所有者」はローマ帝国総督府を操る祭司長たちユダヤ植民地政府の権力者です。祭司長たちは、ローマ軍が人を突く癖を持つことを知っています。牛に突かれて殺された「奴隷」はイエス、「奴隷の所有者」は裏切り者のユダです。祭司長たちはローマ軍を利用して十字架でイエスを刺し貫き殺しました。彼らはイエスの弟子ユダをイエスの所有者であると見立てて、奴隷の賠償金である銀貨30枚を支払ったのです。イエスとユダ、師と弟子、主人と僕の関係を逆転させていることに、皮肉が効いています。

イエスがローマ軍によって十字架刑に処されることを知ったユダは、銀貨30枚の持つ嫌らしい暗示を知りました。彼は自分の師匠を奴隷扱いにした祭司長たちに憤りつつ、絶望して自ら死にました。

しかし、本当は死ぬ必要はありませんでした。なぜかといえば、十字架刑死は敵を愛することだったからです。暴走した牛に殺された僕イエスが神の子であり、報復を止める道を示したからです。十字架のイエスは自分を殺す者たちの存在をも肯定しました。彼らに罪を教え、彼らの行為を裁きながら、彼らの存在を赦しました。イエスは同害報復を超えています。だから自分の罪を認め・イエスの赦しを受け入れる者に、復活させられたイエスの永遠の命が配られます。裏切った弟子たちも、ローマ軍も、祭司長たちも、扇動された群衆も、みなこの新生の道に招かれています。新生の道・悔い改めた人の生き方は、敵に報復をしないことと、弱い人々を搾取しないことと、罪を知っている人の責任を果たすことです。

今日の小さな生き方の提案は、裁きながら赦すイエスをキリストと信じて、新しく生まれ変わることです。根源的に倒錯しているわたしの存在を肯定している方がいると信じ、元気をいただき、少しでも罪を犯さないで生きることです。同害報復を超えた方と共に生きるときに、わたしたちは悪を見抜き・悪に手を染めず・悪に対して悪を報いないで、より善い人生を生きることができます。そのような「悪から救い出された」人々をキリスト者と呼びます。