古代の文書である旧約聖書にはおよそ受け容れられない内容が記されていることもあります。今日の箇所にある「先住民を排除すべし」という主張もその一つです(23・31節)。また、子どもを産まない女性・産めない女性に対する蔑視もいただけません(26節)。
2007年「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択され、世界の3億7000万人にのぼる先住民族の権利を保障することは世界の約束事となりました。ドナルド・トランプさんのような「米国への移民禁止」という主張を、本当は米国の先住民こそ言いたいだろうと思います。日本にもアイヌ民族という先住民族がいます。今までの差別と排除の歴史を省みるならば、当然にその文化が尊重されるべきです。
3月8日は「国際女性デー」と定められています。わたしが参加した集会では、日本の国会議員(下院)の女性占有率が世界190か国中の155位であること、国連から是正勧告を受けていることが報告されました。衆参合わせると717議員中、83議員です。女性への差別が深刻なのは、少数者への差別ではなく(それでも大問題ですが)、社会のほぼ半分の人(性的少数者を勘定に入れても比較多数)に対する差別というところにあります。
このような現代の視点から、今日の箇所などにある先住民や女性への差別・抑圧を是認した文章に対しては、批判的に読み解く必要があります。聖書に何が書いてあるかだけではなく、聖書をどう読むかが重要です。
たとえば、パレスチナ人を抑圧しているイスラエル国家のユダヤ人の中では、今日の箇所などを根拠に土地を奪うことを正当化する人々もいます。「葦の海からペリシテ人の海まで、また荒野から大河までをあなたの領地と定める」(31節)と、神が約束しているのだから、この土地は自分たちが住民を追い出してでも取得して良いのだという暴論が、まかり通っています(ちなみにパレスチナの語源はペリシテ)。
そして、ユダヤ人たちは「主の使い」(20・23節)を、モーセとヨシュアのことだと解釈します。ヨシュアはモーセの後継者です。軍人である彼の主導のもと、イスラエルの民はパレスチナ地域を侵略し、先住民を追い出したり滅ぼしたりしたと記されます(ヨシュア記1-12章)。ヨシュアとは「主は救う」という意味のヘブライ語名です。そしてその名前の中に「主」という神の名前が含まれています。それこそ、21節の「わたしの名を帯びる(わたしの名前は彼の真ん中に)」という事態の実現と考えるわけです。ヨシュアが行ったようにイスラエル国家が行うことこそ、神がイスラエルに与えた救いだという理解が推し進められます。
他方、パレスチナ人のキリスト者たちの中では、ヨシュア記を読まないということを決めている人もいます。ヨシュア記がイスラエル国家の暴力を是認するために悪用されているからです。こうして日本に住むキリスト者たちは、「あなたはどのようにこの箇所を読むのか」と問われています。これは重要な問いです。なぜなら、アジアの西の果てと東の果てに、戦争責任を認めたがらない米国の属国が一つずつあるからです。イスラエルと日本です。
わたしたちはこのような差別的聖句からも、差別と抑圧を乗り越える解釈を導かなくてはならないでしょう。その鍵は、「主の使い」を誰と考えるかにかかっています。ヨシュアか。なるほど。しかしキリスト者にとってはもう一人のヨシュアがありえます。軍人のヨシュアではなく、キリストと呼ばれるナザレのヨシュアです。ヘブライ語ヨシュアをギリシャ語風に読めばイエスです。
今までの出エジプト記の物語の中でも、「主の使い」は神自身のような扱いで登場していました(3章2節、14章19節)。そうであれば三位一体の教理をここにもちこんで、主の使いと神の子イエスを同一視しても悪くありません。
わたしたちはナザレのイエスを基準にしてすべての聖句を解釈すべきです。イエスはローマ帝国の軍隊に処刑された、植民地ユダヤの民でした。沖縄の人々が満足な裁判を受けられないのと同じように、乱暴な秘密裁判によって処刑されたイエスは、征服された民の苦しみを良く知っておられます。征服者・軍人のヨシュアではなく、被征服者・囚人のヨシュアです。
イエスは社会の片隅に追いやられ、共同体から追い出されている人々と共に食事をとる方でした。ティルス・フェニキアに住む女性、サマリア人女性、徴税人、娼婦、悪霊に憑かれた人、ハンセン病患者、盲人、ろう者、肢体不自由の人、女性特有の病気に苦しむ人、子どもなど排除されがちな人々の友として、ナザレのイエスは十字架へと歩みました。この「新しいヨシュア」は、新しい救いのかたちを示されました。強い者が弱い者をしぼりとることでもなく(ローマ帝国の支配)、弱い者がさらに弱い者をたたくことでもない(イスラエルのカナン人征服)。救いとは、最も弱い者と共に神が歩むことに、驚きながらも参加していくことです。
「最も弱い者」は自分の場合も、他人の場合もあります。力関係は流動的・相対的であり、複雑なものだからです。アイヌ民族を差別する和人もまた、欧米人にアジア人として差別されています。イエスはその場でもっとも小さくされている人の傍らに立って弁護するという仕方で、神の救いが何かを示されました。十字架の処刑はその弁護者としての生き方の結末です。
だから、イエスは侵略されたアモリ人、ヘト人、ペリジ人、カナン人、ヒビ人、エブス人と共に苦しんだ方であり、今も差別される先住民や女性たちと共におられる救い主です。エジプトの奴隷として苦しんだヘブライ人の神は、苦しむ者すべてと伴う神です。
さて、これらの先住民族が完全に根絶やしにされたと言われているのと正反対の記事が、同じ旧約聖書に記されています。士師記1章です(380ページ)。士師記はヨシュア記の次の書です。「カナンの征服」という小見出しの割には、征服できなかった先住民のことが赤裸々に書かれています。たとえばエブス人(士師記1章21節)、カナン人(同27-33節)、アモリ人(34-36節)とイスラエルは共存しています。
ヨシュア記はヨシュアの時代にイスラエルが先住民を殲滅させたという歴史観で描かれています。それは出エジプト記23章27節と近い考えです。それに対して士師記はイスラエルと先住民の共存が長期間あったという歴史観で描かれています。それは同28-30節と近い考えです。どちらの歴史観を採るかが問われています。歴史は観方によってかなり異なった再構成となるものです。
ナザレのイエスを基準にするならば、士師記の考え方に近づけて再構成すべきです。士師記寄りの姿勢は、カナン人たちの農業に基づく暦を採用した、土着化の精神とつながります(14-19節)。そしてさらに、現代に生きるわたしたちは、先住民たちと共存する道を、この箇所からも読み込んでいかなくてはいけません。異なる他者とどのようにわたしたちは共存できるのでしょうか。先住民を追い出さないとすれば、一体何を追い出せということなのでしょうか。わたしたちの信じている神は確かに、わたしたちの「敵に敵対」するでしょう(22節)。その場合の「敵」とは何なのでしょうか。
「敵」は、妥協できないところを妥協させようとする力です。妥協できないところとは、わたしたちの心の自由です。主なる神を礼拝するという良心の自由は、誰からも侵されてはいけません(25節)。誰かから強制されて、自分の信じていない神々を礼拝させられることは、この上ない苦痛です(24節)。「彼らの神々にひれ伏し仕えてはならない」の直訳は、「彼らの神々を礼拝してはならない。そして仕えさせられてはならない」です。ここには個人の心を支配しようとする強制力が問題視されています。
カナン人らは最初多数であり、軍事的・経済的・政治的に新参者のイスラエルよりも強い立場にいました。彼らの方に力があったのです。彼らの神々を拝ませ、石柱に向かって拝礼させ、彼らの神々と契約を結ばせる強制力は(32-33節)、カナン人らのものでした。権力の濫用こそわたしたちの敵です。
神はカナン人らに「恐れ」を送ります(27節)。「恐れ(エーマー)」は、「聖戦」に由来する、元来宗教的な意味を持つ言葉です。「主なる神への畏敬の念」というような意味です。「新参者であり弱小のイスラエルの信仰にも敬意を払うように」という働きかけを、神が先住民族たちに行っていたということです。先立つ神の働きがあって、初めて力を濫用しようという敵が敗走し、徐々にイスラエルがカナンの地に住むことが許されていくのです(29-30節)。
問題は社会的強者となったときのイスラエルの振る舞いです。ホロコーストでユダヤ人が殺されたからといって、イスラエル国家がパレスチナ人を殺すことは認められません。ヨーロッパでバプテストが迫害されたからといって、米大陸で先住民をバプテストが迫害してはいけません(ロジャー・ウイリアムズこそ模範例)。力を濫用し、相手の心に敬意を払わずに抑圧するという敵は、わたしたちの中にも巣くっており、それは「罠」となり(33節)、日々の「誘惑」となっています。それを罪と呼びます。
先住民族らを追い出すのではなく、罪をこそ追い出さなくてはならないのです。彼らと彼らの神々との契約(信教の自由)にも敬意を払い、その一方で自分の信仰を貫き通す、ほどよい距離感で共存することこそが理想だったのだと思います。イスラエルの間違えは、自分の信仰を先住民族らに押し付けて画一化しようとしたり(相手の大切にしていることを軽くする)、さらに言えば、彼らの神々の一つに主なる神を混ぜたりしたことなのでしょう(自分の大切にしていることを軽くする)。
日本においてキリスト教会は少数者です。その限りにおいて、わたしたちは宗教的多数者たちに向かって、「わたしたちの心の自由を最大限尊重してください」と訴えることはできます。わたしたちの神が、すでに多数者に「敬意の念」を送っていることも信じることができます。教会が仮に多数者となり(米国のように)力を持った場合には、逆の注意が必要です。寛容は多数者が身に着けるべき態度なのです。その時わたしたちは罪を追い出しています。
五回目の3月11日が過ぎました。原子力行政という巨大な仕組みはわたしたちの「敵」なのだと思います。力を持たない住民の心を原発推進へと捻じ曲げ、一部の人々に莫大な利益をもたらします。多くの人々は経済的・軍事的効果という「神々」と契約を結ぶ罠にいまだに陥っています。わたしたちは老朽原発という石柱を打ち砕くことすらできていません。過酷事故の検証が終わっていないのに再稼働です。
イエスは福島の小児白血病患者と共にいます。いや十字架のイエスは、最も小さくされているその人そのものでもあります(マタイ25章)。そこでわたしたちの罪が暴かれ、罪を追い出す勇気が与えられます。罪からの救いは、わたしたちよりも先立って神に遣わされ、小さくされた者と共に歩むイエスに、驚きと喜びをもって聞き従う歩みです。人生で妥協すべきでないものが何であるのか、その道を示すキリスト信仰にすべての人が招かれています。