本日から新約聖書のルカによる福音書に入ります。初めにルカ福音書全体に関わる話をします。個々の聖句を理解するための助けになるからです。ルカ福音書には続編として使徒言行録があります。同じ著者が書いたことは、ルカ福音書と使徒言行録双方の「序言(献呈の辞)」の共通性から明らかです(ルカ福音書1:1-4、使徒言行録1:1-2)。両書の宛先は同じテオフィロ(神と愛の融合語:本田哲郎訳「神の友」)という人物(ローマ帝国高官)です。
著者ルカはどのような人なのでしょうか。学者の中には著者がルカだったことに否定的な人が多いのですが、わたしはルカが書いたという教会の言い伝えを踏襲します。パウロ真筆の手紙には、ルカが獄中のパウロを支えた同労者であることが記されています(フィレモンへの手紙25節)。そして他ならない使徒言行録に著者自身が登場します。少なくとも「われわれ章句」と呼ばれる期間、著者はパウロに同行しています(使徒言行録16章10-18節、同20章5節-21章18節、同27章1節-28章16節)。特に後半の二箇所は、「獄中のパウロを支えたルカ」という像に重なります。おそらくルカは、フィリピかトロアスの非ユダヤ人キリスト者(ギリシャ語話者)です。医者であったかもしれません(コロサイ4章14節)。
ルカはパウロと深い友情を持っていました。しかしパウロの複雑な思想を無批判に受け入れるのではなく、自分なりに噛み砕いて単純化します。「人間が罪人のままで赦されて義人となるという贖い」(パウロ)を重視しません。もっと単純に「人間は罪を悔い改めて義人になるべきだ」という教えを重視します。特に富んでいる人に向けて悔い改めを求めます。
またルカは最初の福音書であるマルコに対抗意識を持っています。1章1-3節にもそれが垣間見えます。ルカはマルコの持っていなかった別の伝承をたくさん持っています。自慢すらしています。たとえば、バプテスマのヨハネについての言い伝えです(ルカ1章5-25節、47-80節)。おそらく彼はヨハネの弟子たちからこの言い伝えを教わっています(使徒言行録18章24節以下)。
ルカは「福音」という名詞を使いません。マルコへの対抗意識でもあり、またルカの自意識に関わる問題でしょう。ルカは「福音書」ではなく全2巻の歴史書、「キリスト教史」を書きたかったのです。クリスマス物語・復活物語・教会の創立・友人パウロの伝道を書かないマルコ福音書は、ルカにとっては不十分な歴史書でした。わたしたちは新約聖書に収められた唯一のキリスト教史として、ルカ福音書・使徒言行録という「一冊の本」(「ルカ文書」と呼ばれる)を読むべきです。マルコ、パウロ、ルカの三角形を意識しましょう。
バプテスマのヨハネが、アロンの末裔である「祭司の家系」だったということを、ルカだけが伝えています。両親の名前はザカリアとエリサベトです(5節)。それぞれの名前をヘブライ語表記に直すと、ゼカリヤ、エリシェバとなります。それぞれの意味は、「ヤハウェは覚えている/思い出す」、「わたしの神の誓い」です。この名前の意味はエリサベトの発言と共鳴しています(25節)。「主なる神は救いの約束を必ず思い出す方である」という主題が透けて見えます。
ザカリア・エリサベト夫妻は二人とも正義を行う義人でした(6節)。しかし義人にもかかわらず二人には子どもがいません。当時の人々は「子どもは神からの祝福の結果であり、特に義人に多く与えられる」と信じていました。現代において通用しない考えが当時は常識だったのです。二人ともに老人だったという情報は、死ぬまで「恥」の中で生きる絶望的な状況を表しています(7節)。「あなたたちは神に罪を犯したから子どもが与えられないのではないか」という二次被害を、特にエリサベトは被っていました。
このエリサベトの無念の思いは、旧約聖書の先駆者女性たち、サラ(創世記16章1節)、リベカ(同25章21節)、ラケル(同29章31節)、マノアの妻(士師記13章2節)、ハンナ(サムエル記上1章2節)、ミカル(同下6章23節)を引き継ぐものです。子どもがいないことは不幸ではありませんが、それを不幸とみなす社会通念によって被害がつくりだされます。
夫妻はユダ地方に住んでいたようです(39節)。祭司たちには当番があり、24の家系で仕事を2週間ずつ回り番にしていました。アビヤ家はその8番目にあたります(歴代誌上24章10節)。ザカリアは2週間単身赴任でエルサレム神殿勤務(23節)、しかも「聖所」での任務が当てられました。そこで民の代表として毎朝・毎夕決められた通りの香をたくのです(8-9節。出エジプト記30章1-10節、34-38節)。良い香りが天に立ち上ると、その匂いを嗅いで正義の神の憤りが宥められると信じられていたので、このような礼拝儀式が行われていました。
礼拝の只中で、奉仕をするザカリアに天使ガブリエルが現れます。おそらく香をたいている最中です。ザカリアの右に天使は立ちました(11節)。右の方が上座です。おもむろに天使は、恐れるザカリアに語りかけます(12-17節)。大まかな内容は、①夫妻に子どもが与えられるという約束、②その子の名前をヨハネとせよという命令、③ヨハネは救い主イエスのための先駆者となるという予告です(30-33節参照)。
当時の人々は救い主(メシア/キリスト)が登場する前に、偉人エリヤになぞらえる宗教者が登場すると信じていました(マラキ書3章23-24節)。ザカリアも信じていました。しかし、まさか自分に息子が生まれ、その息子が救い主の先駆者になるということは、考えたこともなかったのです。
ザカリアはこの言葉を信じることができません(18節)。彼の率直な反応はサラの夫アブラハムと同じです(創世記17章17節)。自分も妻も老人なので子どもは生めないというのです。至極まっとうな意見なのですが、ガブリエルはなぜか激怒します。罰として、「信じないザカリア」の口を利けなくします(19-20節)。34-38節のマリア・ガブリエル対話と比較をすると、ザカリアにのみ厳しい対応であることがわかります。同じガブリエルは同じく「信じないマリア」には妙に優しいのです。おそらくその理由は、ザカリアが地位も名誉もある高齢者男性であることにあるのでしょう。富める者に厳しいわけです。そして何も知らないエリサベトに対してはもちろん何のお咎めもありません。もっとも辛い思いをしていた彼女への肩入れもあるのでしょう。
民は事情をすぐに察知しました(21-22節)。あまりにも長い時間が経っており、しかも出てきたザカリアがしゃべることができないのですから、何事か尋常ならざる出来事があったということは分かります。それを、「ザカリアは礼拝の途中で神と出会ったのだ」と見抜いたわけです。理解することに鈍い祭司貴族のザカリアと、鋭い洞察を持つ普通の人々がここで対比させられています。貧しい者に肩入れしています。
ザカリアは聞こえることはできたようなので、実務的に何も問題なく、2週間の出張を勤め上げて自宅に帰ります(23節)。口の利けない夫ザカリアは、筆談などをして妻エリサベトに事情を説明したことでしょう。
エリサベトの妊娠を知った時に、ザカリアは、①子どもが与えられるという約束は真実だったと知ります。そこで、②その子の名前をヨハネとせよという命令を果たす決意と、③その子が救い主の先駆者となることの確信を得ました。家系に縛りつけて神殿に奉職する祭司貴族(サドカイ派)の自分の後継にするのではなく、異なる仕事を自由に息子に選ばせることを決めたのです。神さまからただで与えられたものは、神さまの思うままに用いてもらうことが、理に適っています。「エリヤのように自由奔放に走りまわれ」と踏ん切りをつけたのでしょう。後年、息子ヨハネはエッセネ派の一支流である「バプテスマのヨハネ宗団」の創始者となります。政治的宗教的にサドカイ派と最も遠い位置にある立場です。そしてイエスは先駆者ヨハネからバプテスマを受けます。
妊娠後のエリサベトの行動は奇妙です。五ヶ月の間、人前に出なかったというのです(24節)。ということは、喋れない夫とのみ五ヶ月家の中で過ごしたということです。それはどのような時間だったのでしょうか。「主は、この日々の間、私にこのようにして下さり、人々の中での私の恥を取り去るよう配慮して下さいました」(25節、田川建三訳)。エリサベトが隠れた五ヶ月は、人々に興味本位で適当な言葉を言わせるための期間、そしてその無責任な発言から彼女を守るための配慮の期間です。また、恥を彼女にかかせていた人々こそが、本当は真に恥ずかしい存在であることを省みさせる期間です。町の人々が言葉を浪費する中で悔い改める期間。夫ザカリアが沈黙の中で悔い改める期間。エリサベトにとっては静かに喜びをかみしめる期間です。個人の名誉の回復がなされるとき、人は一人になりたくなるのではないでしょうか。神の前でのみ、じわじわと喜びをかみしめるものではないでしょうか。
「わたしの主なる神は、救いの約束を契り、わたしを覚え・思い出し・配慮してくださる」と、エリサベトは何回も独り言を言っていたのでしょう。誰からも理解されない苦しみから解放された一人の信仰者の信仰告白がここに記されています。この品位ある態度が、夫ザカリアの「ありえない」と叫んで取り乱す態度と鮮やかに対比されています。宗教的社会的地位は高くなるにつれて、逆に霊性の深まりがなくなっていく場合があります。儀式を上手にできても、自分の魂の飢え渇きや魂の満足に鈍感となってしまうことがあります。神の意思や、神の救いの約束が何であるのかを探ることを止めてしまうことがあります。今持っているものでほどほどに十分だからです。
不思議な出来事が起こったときに、「ありえない」と恐怖し大騒ぎするか、それとも、「心の奥底で待ち望んでいた神の救いの実現」と静まるか、ザカリアとエリサベトは対照的な態度を示しました。エリサベトを倣うべきだと物語は読者に教えています。なぜならザカリアは強制的に静まらされたからです。恐れるな・騒ぐな・静まれ、そして本心に立ち帰れ。ここに教えがあります。
著者ルカはキリスト教史の初めを、バプテスマのヨハネの誕生秘話から書き起しました。その意図は、「前史」「先駆者」というものの大切さを強調することにあります。先駆者なしに今の状況はありえません。誰かが踏んで草むらに道ができるものです。ザカリアなしにマリアはなく、エリサベトなしにヨハネはなく、ヨハネ宗団なしに神の国運動はありえません。言い換えれば、現在を生きている者は、未来に対して先駆者としての責任を負うのです。埋もれがちであるけれども、優れた先駆者は深い霊性をたくわえた者たちです。神の前で自分の本心に立ち帰ることができる人々です。キング牧師の前任者ヴァーノン・ジョンズ牧師も、ルターの前に火炙りにされた改革者ヤン・フスも。泉教会の独特な先駆的歩みは「前史」として重要です。
その上で未来に属する子どもたちにとって、より良い先駆者たちになり「前史」を刻みたいと願います。新年度の開始に当たり、「静まる五ヶ月」に倣いたいものです。神の天使は香壇の右に立ち今も語りかけています。礼拝の中でも起こる、さまざまな出来事に際して、恐れず・騒がず・静まり、魂の求め・良心の叫びに耳をすませましょう。そこから新しい歴史が始まります。