ルカによる福音書1章は、聖霊に満たされた三人家族の物語です。バプテスマのヨハネと、その両親です。ヨハネは胎児の時から聖霊に満たされていました(15節)。母エリサベト(41節)と父ザカリア(67節)も、共に聖霊に満たされて、神を賛美します(47-55節、68-79節)。この二つの賛美歌は、バプテスマのヨハネの教団が保存していたものです。その後キリスト者である著者ルカにまで伝わったのでしょう。ヨハネ教団とキリスト教会には親密な関係があったからです(ヨハネ福音書1章参照)。
聖書の章節というものは、かなり後代に付けられたものです。元々の写本には章も節もありません。ルカ1章は80節に区分けされるほど、かなり長い章です。全体に24章しかないルカ福音書が実際はかなり長い理由は、80節もある1章(と52節もある2章)の区分にあります。全体の均衡を崩してでも、後代のキリスト者たちはどうしても一つの章にまとめたかったのでしょう。その気持ちは著者の意図にもかないます。ここに同じ主題が貫かれているからです。バプテスマのヨハネの誕生は、とある「聖霊に満たされた三人家族」に訪れた奇跡物語なのです。
聖霊という言葉で著者が表現していることは、不思議な神の導きが一貫しているということです。目に見えず・耳で聞こえず・手で触れない神がおられ、わたしたちの小さな人生の物語を確実に導いているという信仰。著者も読者もその霊である神を信じています。わたしたちもまた、この礼拝という交わりの只中におられる霊の神を信じる信仰に基づいて、今日の箇所を読み進めたいと思います。なぜなら、聖霊が歴史を導くという信仰は、ルカ福音書だけではなくその続編である使徒言行録にも一貫している著者の態度だからです(使徒言行録1章1-2・8節、2章4節、13章4節、16章6節等)。
聖霊はエリサベトを大いに慈しみました(58節)。その町でもっとも小さくされていた女性の名誉を、聖霊は回復しました。彼女は恵まれた環境にいました。自分自身も祭司貴族の家系であり、夫も上級祭司です。お金に不自由もなかったことでしょう。しかし、ただ子どもがいないというだけで神から呪われているとみなされ、人々の間で恥をかかされ続けていたのです(25節)。聖霊は、貶められている人に目を留め、その人の名誉を回復する愛の神です。
夫ザカリアは神の愛を歌詞にして歌い上げます。かつて「主は我らの先祖を憐れみ」、今も「その聖なる契約を覚えていてくださる」(72節)。同じ神が妻を憐れみ、救いの約束を覚え、妻に目を留め、子どもを与えてくれたのだという信仰告白がここにあります。
「ヨハネ」という名前は、ヘブライ語名「ヨハナン」のギリシャ語音写です(ヨーアンネース)。英語のJohnの語源です。ヘブライ語で「主は憐れむ」という意味です。夫婦がヨハネという名前にこだわる理由の一つが、この名前の意味にあります。もちろん天使の命令に従うという、もう一つの理由もあります(13節)。しかし、命令の言葉に従うということは、愛に根ざしていなければ実行しにくいものです。神の愛を知らなければ、神の言葉に従うことは難しいでしょう。実際にエリサベトが妊娠したので、ザカリアは感激して名付けの命令に従いたくなったのでしょう。しかも、その名前の意味は、夫婦に寄せられた神からのラブレターでした。神は愛です。あなたは愛されています。
神の愛は家父長制を打ち砕きます。家父長制とは、長男総取りの社会・長男だけが威張っている社会・そしてそれを周りのみんなも認めている社会です。名前を付ける権限を持っているのは父親であり(63節)、父親が話すことができない状況にあっては親類の中の権力者男性です(58-59節)。彼らがザカリアという名前にしようとすることそのものも家父長制から導き出されています。父親をたてておけば、また一族の前例にならっておけば、その場は丸くおさまるものだからです(61節)。
エリサベトが試みた母親による命名は、家父長制に対する勇敢な挑戦です(60節)。それはアダムの妻エバの道(創世記4章1節)、イサクの妻リベカの道(同25章24-26節)、ヤコブの妻レアとラケルの道(同29-30章)、モーセの養母であるエジプト王女の道(出エジプト記2章10節)をなぞるものでした。神の愛に応えるために、エリサベトは闘ったのです。
妻エリサベトの挑戦に応え、夫ザカリアも歩調を合わせます。「この子の名はヨハネ」(62節)。神の愛が信じることができなかったザカリアを変え、妻と共に家父長制を批判するように仕向けます。生まれた赤ん坊が、「預言者」となり、神の露払いをする存在、罪の赦しを知らせる者となることを信じます(76-77節)。そして、ザカリアは自分の祭司職をヨハネに継がせない決意をするのです。家父長制と、それに基づく身分制から飛び出て、自由に生きることを保障させます。エリヤのような預言者となってほしいからです(17節)。ヨハネが「イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた」(80節)ということは、おそらくエッセネ派という修道生活をする教派に傾倒することを、ザカリアも許したということでしょう。後にヨハネは、エッセネ派から独立して自分自身の教団を創始することになります。ヨルダン川でバプテスマを実施し、「罪(複数)の赦しによる救いを知らせる」(77節)ことをします。その実践が可能だったのは、父ザカリアがサドカイ派でありながら、息子を自由にさせたからでしょう。息子は両親に感謝し二人の歌を自らの教団に保存します。
聖霊の神は人を悔い改めさせ、新しく生まれ変わらせる神です。不信のザカリアは沈黙の9ヶ月の中で生まれ変わりを経験しました。良い言葉を発する人となって生まれ変わりました(64節)。マリアとエリサベトのように変えられたのです。神の愛がザカリアにも及び、妻エリサベトの側に立つ良い言葉を発し、神に対する良い言葉を発する人になりました。そして息子の信教の自由・職業選択の自由を認める、「頭の柔らかいサドカイ派の祭司」となったのです。
「ザカリアの歌」(68-79節)の細かい分析は行いません。大まかにこの歌はおそらくヘブライ語で作成されたもののギリシャ語訳です。そして旧約聖書の単語を多く含んでいます。特に詩編18・105・106編やイザヤ書9章の単語を使っています。祭司ザカリアにとって、すらすらと出てくる言葉です。ザカリアはそのままの個性と外観を持っています。いつもの祭服を着てサドカイ派の貴族として仕事を続けたことでしょう。しかし、世界観が変わったのです。悔い改めとはそういうことです。その人はその人のままです。今までの人生経験が否定されることはまったくありません。しかし、中身が変わるのです。神の愛がはらわたに染み込んで、そこから新しく生きるガッツ、違う道を選ぶガッツ、隣人の道を尊重するガッツが湧くのです。
「神の憐れみの心」(78節)とあります。「憐れみのはらわた」が直訳です。これはヘブライ語話者の表現です。人間の感情を司るのは、腹・肚(はら)・gutsと考えられています。神は肚で憐れみ、その憐れみを聖霊によってわたしたちの肚に植え付けます。愛の神は、愛のないわたしたちを、愛することのできる者に変えます。それは神の肚から出ることで、わたしたちの肚によって実現します。ザカリアのように、外観は家父長制の中にありながら家父長制を内側から破る行いへと、外観は祭司制度という身分制の中にありながら祭司制度を内側から打ち破る行いへと、聖霊の神がわたしたちを作りかえます。聖霊に満たされるときに、わたしたちは自由を得ます。主の霊のあるところに自由があるからです(コリントの信徒への手紙二3章17節)。
聖霊の神が引き起こす悔い改めは、人々にも伝播していきます。そもそもエリサベトを虐げていた近所・親類の人々は、この物語の冒頭ですでに共に喜ぶ人へと変えられています(58節)。家父長制に縛られ、初めはザカリアという命名にこだわっていた人々は、夫婦が同じ意見を言うことに皆驚きました(63節)。おそらく家父長制どっぷりだったザカリアが劇的に変化しているのを見て驚いたのでしょう。ザカリアを若い時から知っている人々は、「息子ができたらザカリアと名付ける」や「息子に祭司職を継がせるのは当然」などの本人の言葉を覚えていたかもしれません。
人々は、そのザカリアが再び話すことができるようになったときに、「恐れ」すら覚えます(65節)。かつてザカリアに起こった悔い改めの道が、今や近所・親類の人々にも起こります。驚き、恐れ、沈黙し、よくよく考えてから人々も「良い言葉」を噂するようになります。「この赤ちゃんは只者ではない」「この子と共に主の力が有り続ける」(66節)。三人家族に悪い言葉を向ける人々が、世間に向かって良い言葉を語る者へと変えられています。無理解な腹黒い人々にも、隣人を愛するガッツが植えつけられ、言葉が変えられていくのです。聖霊が人々に福音(良い知らせ)を語らせます。
聖霊は小さくされた個人を愛する神であり、聖霊は人々を悔い改めさせる神です。神はわたしたちを愛し、神はわたしたちを愛する者へとつくりかえます。神の「憐れみによって、高いところからあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道へと導く」(78-79節)のです。エリサベトを神が愛したこと、ヨハネが光として誕生したこと、エリサベトを貶める人々の罪が露わにされたこと、ザカリアやその周辺の人々が悔い改め、互いに良い言葉を語る者たちへとつくりかえられたことが、ここに歌われています。
平和の道を歩むことこそ、わたしたちにとって「解放」(68節)であり、「救い」(69・71・74・77節)です。わたしたちには「敵」(71・74節)がいます。ザカリアと天使の対立、またザカリアとエリサベト、エリサベトと親類・近所、ザカリアと親類・近所などを対立させている仕組みがあります。お互いに不信感に満ちた言葉や悪い言葉を吐き合うような仕組みがあり、わたしたちは憎み合いの道を歩むように仕向けられています。この世は悪霊的仕組みによって個々人を「罪の歯車」にしてしまいます。
聖霊は憎み合いの悪循環からわたしたちを脱出させる神です。神が個々人の罪を赦し、無条件にわたしたちを愛しているのは、社会の仕組みとしての罪を、わたしたち罪赦された罪人が内側から打ち破るためなのです。マリアとエリサベトの交わりが平和の道を示しています。その延長線上に、ヨハネ・エリサベト・ザカリア一家の平和があります。神の憐れみを肚にしっかりと持ち、隣人を自由にする良い言葉を語り、個々人を縛り付けている悪霊的仕組みを批判するときに、平和が小さなわたしたちに実現します。
今日の小さな生き方の提案は悔い改めるということです。ザカリアのように新しく生まれ変わることです。息子ヨハネが誕生したことで、妻エリサベトとの関係が改まりました。子育て方針も変わりました。近所・親類・職場との関係性も新しくなりました。対立から平和へ。それが聖霊の導く歴史です。互いを自由にする平和を実現しましょう。その実践が平和の主の到来を準備することになります。