ただ主に ルカによる福音書4章5-8節 2016年7月10日礼拝説教

先週の続きの話ですが、本論に入る前に、ひとつだけ小さな話題に触れます。それは三つの誘惑の順番です。ルカは、①パンの誘惑、②権力の誘惑、③神を試みる誘惑の順番ですが、マタイは、①パンの誘惑、②神を試みる誘惑、③権力の誘惑という順番を採ります。「共通の言い伝え」の時点でどちらだったのかはもはやわかりませんが、ルカの順番は合理的です。ことがらの小さい順から大きい順に並んでいるからです。パン<権力<神という大小関係があるでしょう。神を操作できるなら、地上の権力も得られるし、地上の権力を得られるなら、パンを食べることもできるでしょう。

この順番により、ルカは神を試す行為が最も重大な誘惑であると主張しています。マタイでもルカでも、三つ目の誘惑を斥けたところで悪魔は立ち去ります。悪魔がどこであきらめたかが要点です。だから三つ目がそれぞれの福音書記者にとって重要なのです。先週申し上げたとおり、ルカは神の前に個人として生きることを強調していました。そのルカにとって、神を試す行為が一番重大な誘惑/最大の罪となります。

悪魔からの誘惑が徐々に、より大きな話題になっているということを自覚しながら本日の箇所を読みすすめてみましょう。

先週は強欲(または所有欲)という罪についてお話をしました。悪魔からの誘惑は、わたしたちの内にある強欲との葛藤です。ユダは強欲についての反面教師でした。

今日の箇所は、支配欲という罪を教えています。悪魔からの誘惑は、世界中の国々の権力と繁栄を持つことです(6節)。支配欲もまたわたしたちの内に確かに有り、時々頭をもたげて登場します。今日も、ユダを通して支配欲について考えてみましょう。読解の鍵は「イスカリオテ」という単語にあります。

イエスを権力に引き渡したユダという弟子は、「イスカリオテのユダ」と呼ばれます(6章16節、22章3節)。この「イスカリオテ」が、①その人の特徴をあらわすあだ名なのか(たとえば「岩」「雷の子」「熱心党」「慰めの子」等)、②父親の名前なのか、③はたまた出身地名なのかは意見が分かれます。ただし、ヨハネ福音書13章2節の「イスカリオテのシモンの子ユダ」という言い方を重視すれば、②の可能性は低くなります。①の弱点は、イスカリオテという言葉の意味が分からないこと。③の弱点は、イスカリオテという地名が存在しないことにあります。

わたしの結論は③を採ることなのですが、①も興味深いので少し寄り道をします。①を採る人は、ユダが短剣を持った暗殺者集団だったと仮定します。紀元後70年頃に「シカリオイ」と呼ばれる、そのような集団が存在したからです。ユダの支配欲という意味では示唆深い仮説です。支配欲は暴力というかたちで現れがちだからです。ゼロタイ(熱心党)のシモンと、シカリオイのユダが十二弟子の中に居たという仮説は、イエスの弟子たちが政策的に多様であったことをも示します。この意味でも魅力がありますが、根拠は薄弱です。

③の地名説が最も説得力があります。イスカリオテは、「イシュ(男性/人という意味の普通名詞)」と「カリオテ(またはケリヨトという地名)」に分解できます。イシュ・ケリヨトは、ヘブライ語の語順で、「ケリヨトの男性/人」という意味になります。ヨハネ福音書6章71節を、「カリオテ出身のユダ」と記す写本があることも、③の説を補強しています。ケリヨトが付く地名は、ユダヤ地方にいくつかあります(ヨシュア記15章25節ケリヨト・ヘツロン、同54節キルヤト・アルバ等)。また、隣国モアブの地名でずばりケリヨトが紹介されています(エレミヤ書48章24節)。モアブは死海の東岸地域、イエス時代にはペレアという地方です。ユダは北部ガリラヤ地方の人ではなく、弟子の中では珍しくも南部ユダヤ地方の人か、ペレア地方の人だったということになります。

イエスの弟子集団は、仮に政策的に多様な考えの人が混じっていたとしても、出身地域については、著しく偏っていました。ガリラヤ地方出身者が圧倒的多数です。彼ら彼女らはガリラヤ訛りのアラム語で日常会話を交わしていました。このことはユダにとって毎日の圧迫です。ある集団の中で、常に少数派で居続けることは精神力を要します。ユダにも同情の余地があります。

多数派であるガリラヤ勢は、内部で権力争いをします。ペトロとヤコブ、ヨハネの三人が激しく競合します。カリオテ出身のユダにとっては、面白くない状況です。彼らが少数者であるユダを競合相手ともみなさず無視をしていることや、能力的には自分の方が優れている(会計担当)という自負があるからです。ユダは、「ガリラヤ人めが」という苦々しい蔑視を、ペトロ、ヤコブ、ヨハネたちに向けていたのではないでしょうか。ガリラヤ人たちを支配したい、上に立ちたいという欲求が、仲間に対するユダの支配欲です。

南部の人であるユダは、南部にある首都エルサレムでイエスがメシアとして即位することを願っていたように思えます。世界中を支配しているローマ帝国からの独立を果たし、ローマ帝国に取って代わってユダヤが権力と繁栄を手にするということを夢見ていたのでしょう。これが、世界に対するユダの支配欲です。イエスは、最後の晩餐で「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」(22章25-26節)と教えました。これはユダと他の弟子たちに向かって語られた言葉です。ルカ福音書においては、ユダは最後の晩餐のどの時点で出て行ったのかが明示されていません。だから、本人が直接聞いている可能性があります。

ローマ帝国が植民地ユダヤを支配しているように逆に支配し返したいというのがユダの本音です。能力のある者が能力のない者を支配しても良いと考えているからです。南部のユダヤ人こそが世界の中心であると考えているからです。優れているイエスが劣っているローマを支配するメシアであってほしいユダは、「仕えよ」という愛の命令に納得がゆきません。ユダは悪魔にひれ伏しました。誘惑に負けて、イエスを支配しようとしました。

ユダはローマ帝国への支配欲を満たすためにイエスの弟子となり、弟子仲間の間でも支配欲を持ち続けていました。それが悪魔からの誘惑に屈している姿勢・生き方だったのです。強欲な所有欲は、この支配欲から生み出された産物です。権力が繁栄を生むからです。

支配をすることは罪の典型例です。相手をひれ伏させることに快感を覚えること、自分が力を持っていることを見せびらかすこと(これと思う人に力を分与することもできる)、今日ではハラスメントと呼ばれる現象が、支配というものの本質を言い当てています。上下関係による力の濫用です。自分は相手の言い分を聞かないけれども、自分の言い分だけは相手に聞き従わせるという異常な一方通行の関係が「支配する」という行為です。

このような一方的な関係は実に醜く、よく考えてみれば悪魔にひれ伏している、悪魔を拝んでいるに過ぎないと聖書は教えています。悪魔にひれ伏す行為は体育会系の上下関係に似ています。先輩に絶対服従する後輩は、ほんの一学年下の後輩に対しても絶対服従を要求します。そして同輩間でも激しく能力主義に基づく順位付け・競合が起こります。間違えた者にひれ伏しているから、隣人を間違えてひれ伏させようとするのです。自分が力を与えられているか、あるいは自分が力を持っていると勘違いしている人が、勘違いして力を濫用してしまうのでしょう。

現代においても世界征服という悪夢に浮かされて、本当にそれを目指した国々がいました。日独伊三国同盟です。この支配欲は悪魔から出るもので、この国々の人々は誘惑に負けてしまったのです。

1945年に第二次世界大戦が終結すると、戦勝五カ国を頂点とする国際連合ができました。米ソ英仏中の五大国です。現在はソ連からロシアへ、中華民国から中華人民共和国になりましたが、枠組みはほぼ同じです。この五カ国はわがまま放題で国連を支配しています。安全保障理事会の常任理事国を占め、誰にもその特権をゆずらないからです。すなわち拒否権です。米ロ英仏中の五国だけが、他の非常任理事国や加盟国の圧倒的多数で決めたことを無視したり覆したりして良いのです。この支配欲は悪魔から出るもので、この国々の人々は誘惑に負けております。

日本が同じ敗戦国だったドイツと一緒に常任理事国になろうとすることは方向として間違えです。支配者の仲間入りをするのではなく、このような不公正な関係を解消させて、拒否権を廃止し、常任理事国という制度を廃止し、理事国を持ち回り輪番にする方が良いでしょう。それこそ、互いに仕え合うということです。

グローバリゼーションという言葉があります。国境をまたぐ地球規模の現象というような意味です。支配欲は国家という仕組みをすでに超えています。20世紀以降世界の大金持ちは、大国の最高権力者の首をすげかえる力さえ持っているからです。戦争は国家と国家の威信をかけてするのではなく、軍需産業の金儲けのためにさせられています。当然に大金持ちは自分の国のために真面目に税金を納める気持ちはありません。彼らは、一瞬のうちに世界のすべての国々を見ることができ、この国々の一切の権力と繁栄を得ることができます。

現代を生きるわたしたちへの悪魔からの誘惑は、「この支配のピラミッドの中に入りなさい」ということです。あなたも悪魔にひれ伏し、「自分より下の者」をひれ伏させる生き方をしませんかという誘いです。下を支配する快感で、上に支配されることを忘れなさいという誘導です。極めて欺瞞に満ちたやり方で底辺に喘ぐ人々にも、「さらに下の人」を作り出して差し出し、同じ誘惑を語ります。巧妙な分断の仕組みがここにあります。

わたしたちはどうすれば「支配の序列階段」から抜け出せるのでしょうか。自分が支配の頂点に立つことでしょうか。ユダの例は、そのやり方のまずさを教えています。やり返しても同じ土俵にいるだけです。結局悪魔にひれ伏しているのです。そうではなくもっと高い志を持つことが必要です。

支配欲という罪にひれ伏してはいけません。そうではなく、神だけにひれ伏し、ただ主を拝み、ただ主に仕え、神のみを礼拝するべきです。そうすれば、神がわたしたちの支配欲を少しずつ減らしてくれるでしょう。礼拝は、わたしたちを悪から救い出す、神の奉仕です。なぜかと言えば、十字架と復活の神はわたしたちに仕える姿勢を礼拝において受け継がせるからです。

わたしたちは晩餐の給仕において相手の下に立ち、祈りにおいて共に頭を垂れ、平和の挨拶において対等の握手を交わします。これらはイエス・キリストの霊が導いてなされる行為です。これらの行為において隣人を支配することは不可能です。支配されるのではなく相手に仕えながら、あなたも仕え合う生き方に招かれていると告げるのです。こうして支配の階段を打ち壊しましょう。