預言者と故郷 ルカによる福音書4章22-30節 2016年7月31日礼拝説教

今日の箇所は、マルコ福音書6章1-6節を基にしています(71ページ)。マルコ福音書においてはカファルナウムという町にイエスがすでに行ったことがあるので(マルコ1章21節、2章1節)、ルカはうっかり「カファルナウムでいろいろなことをした」(ルカ4章23節)と書いてしまいました。しかし、ルカ福音書の物語順序で言えば、来週の箇所である4章31節で、イエスは初めてカファルナウムに行くことになります。

だから、今日の箇所の「カファルナウム」に特別な意味はありません。「他所でできたことを自慢するなら地元でもしてみろ」という意地悪な態度を批判することに大意があります。それが、「医者よ、自分自身を治せ」ということわざとぴったり重なります。「他人を治すことができるなら、自分をも治せるだろ。自分自身を救いうるなら、救い主と信じてやる」という態度が問題です。故郷ナザレの人々の冷たい態度は十字架と通じるという全体の構図があります。

そうなると、ナザレの会堂で礼拝している全員が、イエスをほめていることは奇妙であり不自然です(22節)。ここは、田川建三のように、「証言する」と直訳すべきです。イエスを赤ん坊の時から知っている近所の人々が、この人はヨセフとマリアの長男だ、そこに弟がいる、自分は妹を知っている、大工の倅だ、などと証言し合ったということでしょう。また「驚く」(22節)という動詞をルカは、ほめるという意味合いではなく、「いぶかる/不思議に思う」という意味で使うことを好みます(1章21・63節、2章18・33節等参照)。「大工のヨセフの小倅が、何を言うのか」という蔑み・皮肉・冷笑が、「この人はヨセフの子ではないか」に込められた意味です。

「ほめる」ではなく「証言する」、「驚く」ではなく「いぶかる」と翻訳することで、イエスの厳しい答え(23-27節)と、そのイエスに対する会堂内の人々の暴力的な対応(28-29節)とが一貫します。両者は一貫して鋭く対立していると考えるのが自然です。故郷ナザレの会堂に集まる人々は、イエスに好意をもったり嫌悪感を持ったりと、揺れてはいないのです。良いことを言う場合には聞き入れ、都合の悪いことを言う場合には排除するというわけでもありません。親と職業だけがその人に対する判断の基準です。さらに、「人々はイエスの父親が誰なのか本当はわからない」ということまで、判断の基準に含めていたかもしれません。

イエスはこのナザレが無性に嫌であり、ナザレの人々の体質に批判を持っていたことでしょう。ルカは、イエスの活動の最初をナザレの安息日礼拝に設定し、二度とナザレに戻らないという物語に仕立てています。ナザレでの喧嘩別れが「神の国運動」の最初だったと、大胆に組み替えています。マルコ福音書では、ガリラヤの町をめぐり歩いている最中に、故郷ナザレに弟子たちと立ち寄るという設定でした(マルコ6章//マタイ13章)。ルカ福音書のイエスだけは、ただ一人いつもの安息日礼拝でナザレの人々と対立し故郷を出奔します。

「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」(24節)という言葉をルカはマルコ6章4節を変えつつ引用しています。そして、その言葉に旧約聖書の二人の預言者の逸話を付け加えています(25-27節)。預言者エリヤと、エリヤの弟子の預言者エリシャです。この二人の預言者が非イスラエル人のために派遣されたことがあると言いたいための引用でしょう。「シドン地方」に住むフェニキア人のやもめや、シリア人ナアマンのために、エリヤとエリシャは働いたことがありました。彼らは故郷に派遣されていません。

「歓迎されていないということ」と「派遣されていないということ」は、同じではありません。誰からも喜ばれなくても、その場所に遣わされることはありうるからです。マルコ福音書の段階では、「イエスはナザレでは歓迎されていない」という程度でした。ルカ福音書は、そこから先に踏み込んでいます。「イエスはナザレに派遣されていない。むしろ別の土地に派遣されている。エリヤやエリシャのように。活動の最初に故郷を後にして、二度と戻らない」という立場をとっているのです。「ナザレ」に象徴されるものが、いかにイエスの福音と反するか。ルカ福音書は最も強い筆致で描いています。

福音という良い知らせは、「大いなる然り」です。神はあなたを受け入れているという使信です。ナザレの人々の態度は、この福音に反しています。相手を個人として尊重せずに、親が誰であるのか、嫡出子であるのか、職業が何であるのかということで判断します。「やれるものならやってみろ」という意地悪な態度を貫きます。批判をされると逆上して立ち上がり、実力行使で会堂から追い出します。さらには、その場で私刑に処して殺そうとまでします。

一言で言えば「集団による排除」です。しかもここには権力者は登場しません。普通の人々による、匿名の集団心理と熱狂的な行動によって、個人が圧殺されようとする場面です。ルカが、「群衆対個人」という図式を持ち出す意図は、読者が「罪対福音」という図式を意識するためです。ひとりの人の奇矯な行動(安息日礼拝で定められた箇所を朗読しないで、好きな箇所を読んだこと)や、風変わりな聖書解釈、地域共同体への批判に対して、偏見に満ちた差別的発言をし、集団で殺そうとすることに、「罪」というものが現れています。

罪というものは組織の論理で、異論に対して「耳を塞ぎ」、不都合な事実に「目をつむり」、正当な批判をする者を封殺することです。しかも自分個人には責任が問われないようなかたちで。そのような暴力を補助するのは、熱狂という感情です。さらに熱狂を補助するのは民族主義に代表される差別感情です。

罪に対して福音とは、すべての個人がその人のままで受け入れられるという言葉です。イエスのような意見があっても良い、異論もまた尊重されるべき、たとえ少数意見であっても、いや正に少数意見であるからこそ保護されなくてはいけない。「内心の自由」「思想信条の自由」「言論の自由」「表現の自由」は、福音によって基礎づけられます。

ナザレの人々は、イエスに対して、イザヤ書61章1-2節について、言論で立ち向かうべきだったのです。別の解釈があっても構いません。また、列王記上17章のエリヤの物語や、列王記下5章のエリシャの物語についても、自分たちの読み方を言葉で示せば良かったのです。「大工の小倅のくせに自分を預言者だと思っている」というように極めて感情的に反応しているので、冷静に他人の意見を聞くこと・堂々と自分の意見を語ることができません。

イエスは少年の頃から、エルサレム神殿の境内で聖書の解釈について論じ合っていました(2章46節)。ナザレの人々がエルサレムの人々よりも偏狭であることがイエスの不満です。イエスはこの偏狭さの原因が、ナザレ(またはガリラヤ地方全般)特有の強い民族主義にあることを知っています。

ガリラヤ地方はユダヤに後から編入された地域でした。そのような地域ほどかえって「愛国心」が強くなる傾向があります。エリヤとエリシャの逸話の肝は、二人とも非イスラエル人に遣わされたという点にあります。特にエリシャが敵国軍人ナアマンを救った出来事は、イスラエル優越主義のナザレの人々に効きました。目の前に重病で悩み苦しんでいる人が登場するとき、国家という壁は取り壊されます。すべての命を創った神は、シリア人ナアマンの命も惜しむ神です。ナザレの人々は「外国人を使った当てこすり」が感情的に耐えられなかったのです。異邦人伝道を是とするルカ版イエスの言葉は罪を暴きました。

さらに、単なる当てこすり以上のものが預言者エリヤの逸話にあるようにも読めます。民族主義という罪だけが問題ではなく、福音というものの内容を説明するためにエリヤの物語は用いられています。福音は、人が個人として尊重されるという知らせです。それは真っ先に貧しい人に告げられるべきものであり、捕らわれている人・目の見えない人・圧迫されている人の解放を告げ知らせる言葉です(18-19節)。

預言者は、この良い知らせを言葉で告げ知らせて、正義と愛の神の意思を地上に語る人です。また、預言者は時に体ごと、この良い知らせを表現して、正義と愛の神の意思を地上に実現する人です。

エリヤの物語で、貧しい人・圧迫されている人は、やもめだけではありません。実はエリヤが国家から指名手配されており、神はエリヤを養うためにサレプタに亡命させ、やもめの家に匿わせたのです。預言者は自分の体で神の愛を表現しています。エリヤは、自分が神から受け入れられている存在であることを、苦しい亡命体験によって告げ知らせています。

貧しいやもめは外国人エリヤのために自分と息子の最後の食事を差し出します。その結果、不思議なことに尽きない小麦と油を得て、三人の命が救われます。また、息子が重病で死んだ後もエリヤによって蘇生してもらいます。美しい助け合いがこの小さな物語の底に流れています。

罪は国家レベルの大きな物語を好みます。国家のために「危険思想」は封殺され、個人には犠牲が負わされても、国家体制の維持のために正義とされます。そのために人々は集団心理だけを持ち合わせている「匿名の群れ」へと飼い慣らされています。

しかし、福音は、そのような罪の支配を打ち破る一本の光です。「神がわたしを受け入れている/救い出す/養う/癒す」と信じる二人・三人は、その信によって救われます。福音が福音であるがゆえに、決して封殺されずに生き延びます。しかも互いに助け合って生き抜きます。外国人への偏見を持たないエリヤ、亡命者エリヤに全食事を差し出した女性、母子の食卓を満たしたエリヤ、エリヤを匿う母子、病死した息子を助けるエリヤ。

それは小さな物語です。しかし正に小さな物語であるからこそ、小さなわたしたちを慰め励ます良い知らせです。神に尊重された個人は、互いに尊重しあうことができるようになります。ここに罪から解放された者たちの交わりの模範・光があります。国家レベルの罪を乗り越えるのは、国家に殺された方イエスの復活という福音に根ざす二・三人の交わりです。恐れるな、小さな群れよ。

暴徒に取り囲まれたイエスは預言者エリヤのように奇跡的に抜け出し、「生まれ故郷・父の家」を棄てて、神の国運動へと駆け抜けます(30節)。十字架までは完全に守られて生きます。イエスの存在そのものが福音なのです。神は、「あなたはわたしの愛する子」と呼んだ、ご自分の子どもたちを喜び受け入れ、それぞれの人生へ押し出します。イエスの霊を宿すわたしたち一人一人の日常生活にも、この突破が起こります。

今日の小さな生き方の提案は、「罪を知り・福音に生きる」ということです。罪は驚くべき大きな力で同調圧力をかけ、操作し、わたしたちを匿名の群衆にしつつあります。無自覚のままに/正義と信じ込んで他者を抹殺することが十字架で暴かれた罪の実相です。個人として尊重されていることを信じ、自分の中にある罪が贖われたことを信じ、たった一人でも歩み出しましょう。二・三人でも助け合いましょう。異なる他者の存在を喜びましょう。