第一のエルサレム訪問 ヨハネによる福音書2章13-25節 2013年6月2日礼拝説教

今日は「大きく生きるな、小さく生きよ」ということを申し上げます。

ヨハネ福音書のイエスは何回もエルサレムを訪れます。他の福音書ではエルサレム訪問は生涯の最後の一週間だけに限られ(ルカは例外)、イエスの主な活動場所はガリラヤです。ということは、ヨハネ福音書にとってエルサレム訪問はとても大事なものとして位置づけられているということになります。

たとえばユダヤ人の大きな祭がある時に、イエスはエルサレムに行きます。今日も「ユダヤ人の過越祭」(13節、23節)に合わせての訪問です。二度目のエルサレム訪問は「仮庵祭」(7章)に合わせたものでした。三度目のエルサレム訪問は再び「過越祭」(12章)に合わせたものです。

ヨハネ福音書は祭のたびごとに大勢の人の前でユダヤ人指導者層と論争するイエスを描きます。わたしたちは主イエスが何回も訴えたかったこと、特に命をかけて公に抗議したことが何かを知らなくてはいけません。今日の要点はその一つです。どのような考え方・生き方が批判され、逆にどのように考え生きるべきかということです。

大雑把にまとめるとイエスは、「しるしを見て信じるという考え方・生き方」を批判しています。鍵となるのは18節と23-24節です。「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」(18節)というユダヤ人の言葉、そして、イエスの「なさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった」(23-24節)。ユダヤ人指導者層も、イエスを信じて従う者も同じ過ちを犯しています。それは「目に見えるしるし」を頼るという点です。

先週の箇所でも水がぶどう酒に変わる奇跡を「しるし」と呼んでいたように(11節)、今日の箇所でもしるしとは目に見える奇跡のことを指します。目に見える根拠が人々を説得する力になるという考え方や生き方が、イエスによって批判されています。なぜかと言えば、目に見える大きなものへの信頼は、目に見えない(気にもとめられない)小さなことがらへの無関心を呼ぶからです。何に注目して生活するかに、その人の考え方や生き方が現れます。

もう少し具体的に見ていきましょう。ユダヤ人が信頼を寄せていたしるしというものは大きな社会の制度・仕組みでした。それを「神殿支配体制」と、今日は呼んでおきます。神殿支配体制の象徴は目に見える巨大な建造物であるエルサレム神殿です。ヘロデ大王が建築を始め、イエスの時代にはまだ建築途中だったローマ風の巨大建造物です(20節)。ヘロデはローマ帝国の臣下となることによってユダヤ人の王となり、ローマ風の建築物をたくさん立てた人です。巨大な建物を造るためには、技術だけではなく権力が必要です。大勢の人を集める政治的な力や経済的な力です。今でも大手ゼネコンと時の政権は結びつきやすいでしょう。それと同じです。

ローマ帝国は土木事業が大好きです。「すべての道はローマに通ず」と言われるように、道路の舗装が好きです。それによって多くの資材を地中海周辺一帯に配ることができます。その材料が巨大建築物に用いられるのです。これは大きな金儲けのサイクルです。道を造れば造るほど石材・木材を流通させることができるのです。そこで交通税を取れば帝国の増収にもなります。古代世界にも銀行があり貨幣経済が発達していました。古代資本主義は現在のものと似たような貧富差を生んでいました。大きな商売ができる貴族たちが金持ちになり、それ以外の大勢が貧しいという社会です。

ローマ帝国の貴族たちは属州と呼ばれる植民地の支配者になります。地中海沿岸に広がる多くの属州の総督ポストは、ローマの貴族たちには魅力的な出向先だったようです。お金儲けもでき、その後の出世もでき、皇帝にまで登りつめた人がいたぐらいです。

ユダヤ地方もヘロデ大王が死んだ後は属州としてローマ総督によって支配されていました。ローマ総督ピラトは属州ユダヤの総督です。そして総督は金儲けのために属州の貴族(サドカイ派を中心に構成された最高法院議員たち)と組むわけです。エルサレム神殿の工事が巨大であり長期間であればあるほど、建築業者でもあるユダヤ人の貴族も儲かりますし、建築資材を運ぶ業者でもあるローマ総督も儲かり続けるのです。

ローマ軍という世界最強の軍隊が、この金儲けのサイクルを守ります。属州の独立を軍事力で阻み、外敵からローマ帝国を守るためにローマ軍は至るところに配備されていました。エルサレム神殿の隣にも駐屯していたのです。現在世界中に存在する米軍基地と似たような構造がここにあります。

ユダヤ人貴族サドカイ派はエルサレム神殿をさらに利用します。「神殿建築継続のための神殿税」というものを設けます。そして律法学者たちを用いて「ローマ人の貨幣は汚れている」と宗教的に意味づけします。それによって「神殿への献金には清いお金を使うべき」と主張し、エルサレム神殿で両替商を営みます。ローマの貨幣からユダヤの貨幣に両替する際に手数料を巻き上げ、善良な市民からさらにお金を搾り取るからです。人々が持つ、大きく立派な神殿への素朴な畏敬の念が金儲けのために悪用されています。

イエスはこの見える「しるし」(巨大な権力)を濫用する者たちを批判します。「この神殿を壊してみよ」(19節)という言葉は、神殿支配体制への挑戦です。エルサレム神殿の建築工事に群がる一切の金儲けを、「わたしの父の家(神殿)を商売の家・強盗の巣」としていると、イエスは批判しています。それがどんなに敬虔な思いから出ていても、敬虔な行為の手助けになっているように見えてもだめなのです(14-17節)。商売を許さないことが両替商などの商売人たちの生活を脅かすことになったとしても、だめなものはだめとイエスは実力行使します。なぜかと言えば、貧しい一人暮らしの女性から献金のための両替手数料をむしり取るような行為は強盗と同じだからです。両替手数料によって、銅貨2レプトンを彼女の全財産にしてしまった人は誰なのかが問われています(マコ12:41-44)。本当に大切なことはこの小さくされた一人の女性の苦労なのです。

また、イエスは目に見える「しるし」を頼りがちな人々、それによってかえって利用されてしまう善良な人々を同時に批判します。神殿支配体制は支配者のみによってできあがるものではなく、皮肉なことに支配されたがる人々がいて、言わばコラボレーションのような形で完成するものです。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのです(25節)。

ただし、イエスが縄で鞭を作り、それを用いて、羊や牛を追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒す行為は、今日暴力の一種として批判されるべきです(15-16節)。わたしたちはこの行為を真似する必要はありません。その他の非暴力的な方法、話し合いによる解決こそ優れているからです。

実際イエスは論争という話し合いによる解決を重視しています。今回も、見えるしるしを利用しないし、見えるしるしに利用されない生き方を説明しています。それは、十字架と復活です(21-22節)。神殿支配体制の破壊を求め、そのために神殿貴族・ローマ帝国から十字架で殺され、三日目によみがえらされた方が、新しい生き方と考え方をわたしたちに示されたのです。それは大きな見えるしるしに頼る生き方を止めることです。そして一所懸命に見ようとしなくては見えない小さな出来事である十字架と復活という「見えないしるし」に頼る生き方です。

今日の世界にあてはめると、「原子力体制」というものは神殿支配体制に似ています。科学技術力というものを拝むこと、巨大な建造物である原子力発電所や核兵器を崇めることは見えるしるしと言えます。そして、原子力体制は金儲けのサイクルです。電力会社は多額の政治献金をして、都合の良い法律を国会議員に作らせています。地方自治体は法律によって交付金を受け取り、固定資産税をも受取ります。都会に人を奪われた貧しい地方自治体にとってはしょうがない選択です。原子力産業が町をにぎわせますが過疎化は止まっていないので結局新たな原発建設などに飛びつかざるを得ません。

電力会社は任意に電気料金を設定し不当な金儲けをします。法律が競争を許さないので高値に設定できます。その富を労働者たちに正しく分配しないので不当です。最も危険な被ばく労働に従事する者たちは(国内だけで40万人以上)第七次まである下請けによってピンハネされています。

電力会社に多額の報酬をもらった御用学者たちは原発が安全であると宗教のようにお墨付きを与え、マスコミも安全神話を撒き散らし、電力は足りないと必要神話を撒き散らしています。監督官庁が推進係という図もありました。また法律の実際の作成者は行政官僚でもありました。行政もだめ、そして最高裁判例もひとつも住民側が勝ったものはありません。司法もだめです。

さらにはこんなに深刻な事故を起こした原発を積極的に国外に輸出しようと言うのです。ベトナム、トルコ、サウジアラビアなどに。国内で儲けられないから外国でということです。それを可能にするのは全世界に駐屯する米軍と、アフガンでもイラクでもお供をした自衛隊の護衛です。グローバリゼーションとは国際的金儲けであり、それを目的としてTOEFLなんぞが学校教育の必修になるのはどうにも胡散臭いものです。

イエスが今ここにいたら、何回も足を運んで国会や首相官邸前や経産省や最高裁判所に論争をしかけて抗議をするのだろうと思います。そして素朴な善意を逆手に取られて大きな力に騙されていくわたしたちに、「目を覚ましなさい」と言うのだろうと思います。「見えるしるしに惑わされずに、小さなことに目を向け、小さくされた人々と連帯して、小さく生きよ」と言うのだと思います。

見えない神のみを礼拝すること、小さく生きるこそ、わたしたちに求められていることです。大きいものに憧れるから騙されたり利用されたりするのです。ナザレのイエスという一人の死刑囚に目を留め、そしてこの人がわたしの救い主・世界の救い主と信じる。目には見えないけれども(見えるしるしはないけれども)、よみがえらされて今わたしたちのうちに宿っていると信じること、これが小さな生き方です。

見えない神を「見えるしるし」なしに信じて毎週礼拝することは、小さな生き方の積み重ねです。この小さなわたしたちを自らの神殿とし大いなる神が宿ってくださる、こんなに小さなわたしに命が与えられ朝を迎えることが今日もできた、こんなに小さな交わりの真ん中に復活のイエスがおられ平和を与えてくださる、小さな子どもたちが連なっている、世界で小さくされた人が連なってくださる、こういった小さなことがらに目を向け、小さくされた人と連帯し、小さな喜びを大きく喜ぶことが大切です。そうすれば、小さな幸せを奪われることへの憤りが生まれるでしょう。そのような小さな人々の祈りと行動は必ず世界を変えます。大きなエルサレム神殿も大きなローマ帝国も今はありません。逆に目に見えない復活のイエスは今もここにおられます。

謙虚に誠実に地道に力を脱ぎ捨て、神の前で神と共に小さく生きる者となりましょう。そのような人が一人ずつ増えていくように、共に祈りましょう。