「中風の人の癒し物語」と呼ばれる箇所です。「中風」は脳血管障害(脳梗塞や脳出血)の後遺症として起こる体の麻痺を指します。聖書の世界では、脳血管障害以外の原因で起こる麻痺をすべてパラリュティコスという言葉で表しています。ですから、「中風」は少し狭い翻訳です。いずれにせよ、何らかの原因で麻痺をして体が不自由な男性が居ました。この人には気の良い友人たちがいました。イエスならば麻痺を治してくれると考え、友人たちは担架のような仕方で、寝床ごと患者を運び込もうとしたのです。おそらく麻痺は下半身に及んでいて、本人は歩けなかったのでしょう(18節)。
ところがイエスが居る住宅には運び込むことができませんでした。人びとが蟻のように群がっていたからです。そこで友人たちは思い切ったことを考えます。屋根に上り、屋根瓦を剥がして、そこから寝床ごと吊り下ろしたのです。家主としては良い迷惑です。マルコ福音書によれば、この町はカファルナウムでした(マルコ福音書2章1節)。ですから、シモンの姑の自宅であった可能性があります。人々は家主が叱りつけると思ったかもしれませんが、不思議にもお咎めなしです(19節)。
イエスもまた迷惑がらずに、友人たちの機転を喜び、そこまでして治りたい・治したいという信を大いに評価します。そして、「あなたの諸々の罪は赦された(現在完了)。あなたは清い」と言います(20節)。それを聞いていた律法学者たちやファリサイ派の人々は批判します。「諸々の罪の赦しを宣言することは、神の代理人である祭司しかできないはず(5章14節参照)。これは神への冒涜だ。自分が神の立場/祭司の立場に成り代わっている」(21節)。
イエスは反論します。「あなたの罪は赦されたと言うのと、起きて歩けと言うのとどちらが簡単か。口だけの方が簡単だ。その簡単な方ですらしたがらない祭司こそ問題だ。では難しい方をこれから行おう。全ての人は生まれながらに清いということが分かるために麻痺した人を歩かせよう。」(22-24節)。
イエスは麻痺した人に「起きて家に帰れ」と言います。するとその人は起き上がり自分の寝床を持って自宅に帰って行きます。人々はあまりの出来事に仰天しました(25-26節)。以上のあらすじは、マルコ福音書2章1-12節とほとんど変わりません。ついでに言えば、ルカ5章12-6章11節のひとつながりは、マルコ1章40-3章6節のひとつながりと完全に一致しています。
ルカはこのあらすじを変えずに、ただ少量の自分の色や味をふりかけています。ルカ風の味わいは、①ルカ版のクリスマス物語との関係付けと、②ギリシャ人であるルカの国際的・普遍的な視点です。
麻痺のため体が不自由である人は、飼葉桶に寝かされた赤ん坊のイエスと重ね合わされています。「運び込む方法が見つからなかった」(19節)とありますが、ここは「運び込む場所が見つからなかった」と訳した方が良いでしょう(田川建三訳参照)。ルカ2章6-7節にイエスの出産時の様子が描かれています。マリアは、赤ん坊を布にくるんで飼い葉桶に寝かせました。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(同7節)。人間扱いされる場所を見いだせない人という意味で、麻痺した人と赤ん坊のイエスは共通しています。社会で弱い立場に立たされている人が、さらに居場所を狭められている現実。この現実を聖書は平和の無い状態と考えます。
イエスによって起こされ、「神を賛美しながら家に帰って行った」(25節)人を見て、「人々は・・・神を賛美し始めた」(26節)とあります。「神を賛美する」は、「神に栄光を帰す(ドクサゾー)」という意味合いです。ここにもクリスマス物語との共鳴があります。天使たちは羊飼いの前で「いと高きところには栄光(ドクサ)、神にあれ、地には平和、御心にかなう人々にあれ」と歌いました。羊飼いは、飼い葉桶に眠るキリスト・イエスを見て、「神をあがめ、賛美しながら(ドクサゾー)帰って行った」(2章20節)のでした。
ここには逆説paradoxがあります。飼い葉桶の赤ん坊は大切にされるべきでない存在と考えられがちですが、その小さな存在を大切にすることによって平和が実現するという逆説です。大きな事・大きな人・大きな物を大切にすることが社会にとって大事であり、平和の実現は大義にかかっていると思われがちです。たとえば「安全保障」という大きな言葉は、その象徴です。しかし、地上の平和というのは、小さな存在を大切にすることによって起こるのです。
罪の結果として体が不自由になったというように貶められていた人が大事(だいじ)に尊重された時に平和が実現し、屋根を壊した大事(おおごと)が不問に付されます。その時、人々は天使に倣って、天の神に栄光を帰すのです。「今日、驚くべきこと(パラドクサ)を見た」。ルカはここで新約聖書の中でただ一度しか用いられない言葉を使っています。英語のparadoxの語源、パラドクサの意味は、「普通想定することとは逆のこと」です。
首都エルサレムから来た大学者の意見がここでは軽んじられます(17節)。大勢の人ではなく、患者を助けた少数の人が褒められ、住居損壊の大罪は問われません(20節)。聖なる人・祭司だけができるとされた罪の赦しの宣言を、ただの人であるイエスがしてしまいます。普通想定していることと逆の事態が起こり、小さなものこそ大きいという逆説の真理が明らかにされています。
ギリシャ人であり使徒言行録の著者でもあるルカは、国際的・普遍的視点を持っています。マルコのイエスが患者に向かって「子よ」と呼びかけたところを(マルコ2章5節)、ルカのイエスは「人よ」と呼びかけます(20節)。イエスはアラム語で普通に「子よ」と言いました。しかしルカは上から目線の言い方を、平等な言い方に改めます。この改変は、ブーメランのように戻って、イエスの平等思想に合致します。イエスが「わたしは」という意味で「人の子は」(24節)と言う口癖を持っていたからです。
当時のアラム語の用法から言えば、「人の子」の意味は「人類」という意味です(上村静)。「同じ人間同士である」という意味で、イエスは自分のことを「人の子」と呼びます。ルカはこのイエスの思想を正確に読み取っています。「イエス・キリストにあって、もはやギリシャ人もユダヤ人もない、奴隷も自由人もない、男と女もない」(ガラテヤ3章28節)と言い切るパウロに、ギリシャ人であるルカは深く同意しているのです。安息日の会堂礼拝で排除されていた女性たちもシモンの姑の家には集まることができます。
ルカにとって寝床ごと吊り下ろされた人物は、使徒言行録10章に描かれるペトロの見た幻と重なり合います。シモン・ペトロは、ローマ人に対する嫌悪感、差別意識を持っていました。その民族主義を正すために神は幻を見せます。「天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た」(使徒言行録10章11節)。その中にはユダヤ人が汚れているとして食べなかった動物が入っていたのですが、神はペトロにこれを食べよと命じます。「神が清めた物を清くないなどと言ってはならない」(同15節)。これは罪有りとされたローマ人と平等の交わりをせよという意味です。
体の不自由な人も同じ「人」であり「人の子」です。それなのに、「あの人が麻痺しているのはあの人の罪の結果だ」とか、「あの人の両親の罪の結果だ」とか、諸々に罪というラベルを貼り付けることは良くないことです(ヨハネ9章2節)。神が「清い・極めて良い」と認めている個人に、「汚れている・罪がある」と言ってはいけません。イエスはすべての人に「人よ、あなたが後ろ指さされ罪有りとされている複数のことがらは、放っておけ。そのような罪と呼ばれるようなものは、元々存在しないのだから」と宣言しているのです。イエス・キリストにあって、健常者も障害者も無い、ただの人だけがあるのです。
だから、「人の子が地上で複数の罪を赦す権威(エクスーシア)を持っている」(24節)という言葉は、人類一般が人の子仲間同士で、「罪」というレッテルを複数べたべたと貼り合うことを禁じていると考えることができます。お互いは主権(エクスーシア)を持つ者であり、尊重されるべき個人であるので、わたしたちは他人からの駄目出しを気にしなくて良いし、他人に駄目出しをするべきではないのです。
むしろわたしたちが真剣に向き合わなくてはいけないのは自分です。自分の持つ「単数の罪」・根源的な倒錯です。自分が絶対に正しいと考える自己絶対化(己を神とする傲慢)や、正しいと信じ込んで悪を行う錯誤(己を神の代理人とみなす錯覚)、仲間を支配しても良いと考える自己中心(王となりたがること)、支配されたがる自己卑下(奴隷となりたがること)、他人と比較すること(競争主義、能力主義、民族主義、各種の差別)等々。祭司や律法学者たちは、自分の持つ「単数の罪」に向き合わずに、「複数の罪」を大量に発行・製造して、他人に罪のラベルを貼るので、かえって罪深いわけです。
単数の罪をすべての人は持っています。この意味でも、ギリシャ人もユダヤ人もなく、健常者も障害者もありません。普遍的です。キリスト教が持つ宗教的な救いは、単数の罪から救われることです。聖書が示す救い主は単数の罪を持つ全員を贖うことができます。イエス・キリストを信じるということは、単数の罪に向き合い、死に値する罪とまで思いつめ、自分の死をイエスが十字架で代わりに死んだと信じることです。全ての人は逆立ちしながら歩いているようなものです。しかし、キリストが逆立ちしたことによって、自分の逆立ちが直るのです。それを「悔い改め」(生き方の方向転換)と呼びます。
贖われ悔い改めた人の模範例は、この麻痺の人を運んだ友人たちです。彼らは自分を神としていません。イエスに頼ります。匿名であり控えめです。友人に深い共感を示し、王にも奴隷にもならず、隣人となっています。根源的な倒錯から解放されています。マルコは「四人」と人数を限定していますが(マルコ2章3節)、ルカは人数を記しません。そのことは、彼らを手伝う匿名の人がどんどん増えていった可能性を示します。家主のシモンの姑も屋根を剥がすことを許可し手伝ったかもしれません。この彼ら彼女らの広がりつつある「信の輪」と、イエスへの愚直な信頼こそ、「単数の罪」から解放され、逆立ちが直った姿です。匿名の人々は神を賛美します。自分への名誉を求めずに神だけに栄光を帰す、謙虚な人々の姿にわたしたちの模範があります。
十字架のイエスは「全ての人よ、あなたたちの単数の罪は贖われた」と言っておられます。祭司たちと異なり、ただ一度全世界分の根源的な倒錯の代わりにイエスが利他的に命を与えたからです。このイエスをキリストと信じる時に、わたしたちは悔い改めの利他的な道を諦めず地道に続けることができます。
今日の小さな生き方の提案は、自分では解決できない、先天的な「単数の罪」を直してもらうために、イエスをキリストと信じることです。自分と神との平和が打ち立てられます。そして、たった一人の体が動かない人のために汗をかいた匿名の人々に倣い、利他的に生きることです。後天的な「複数の罪」に苦しめられている人のために生き、自分と他の命との平和を打ち立てるのです。死ぬ必要も殺す必要もありません。共に神を賛美しつつ生きましょう。