敵を愛せ ルカによる福音書6章27-36節 2016年11月6日礼拝説教

先週の話までで貧しい人と富んでいる人の間の亀裂が語られました。貧しい人は幸いであり、富んでいる人は不幸だとイエスは言います。イエス自身は貧しい人の側に立って発言しています。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」からです(Ⅱコリント8章9節)。しかし、イエスの目の前には富んでいる人もいたようです。同じように「あなたがた」と語りかけられているからです(24-26節)。

先週取り上げたイエスの言葉は人々の間の対立を助長する可能性を持っています。お互いが敵視することを促してしまう言い方です。もちろん、弟子たちが内部で分裂することをイエスは望んでいません。そこで、「しかし、わたしは言う」(27節)という形でイエスは、貧しい人と富んでいる人の不毛な対立が起こらない道を示します。それが、「あなたの敵を愛しなさい」と繰り返されている教えです(27・35節)。マタイでは一度しか言われていない「愛敵」が(マタイ5章44節)二度も語られているので、ルカ版の強調点です。

この二回の愛敵の教えを分ける形で、「黄金律」が真ん中に置かれます。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(ルカ6章31節)。「自分がされたくないことを他人にするな」という孔子の教えを「銀律」と呼び、イエスの教えを「黄金律」と呼び慣わします。マタイでは全く別の文脈に置かれているこの言葉を(マタイ7章12節)、ルカは愛敵の教えに入れ、愛敵の教えを前半と後半に分けています。

細かく見ると、前半と後半では「敵」として挙げられている人々の中身が違います。前半は自分にマイナスを与える人々のことです(27-30節)。それに比べて、後半の32-35節以降で例に挙げられている人々は、自分にプラスを与えない人々のことです。敵とまでは言えないけれども、打算的に考えた上での費用対効果で言えば、まったくプラスにならないその人に対しても、自分がしてもらいたいことをしなくてはいけません。黄金律は後半にしっくりと当てはまりますが、敵という言葉は後半にうまく当てはまりません。逆に、敵は前半に当てはまり、黄金律は前半に当てはまりません。前半を愛敵の教えの真骨頂と捉え、後半は黄金律を中心に読み解いていきます。

まずは前半。古代以来愛敵の教えは、さまざまに解釈されてきました。「敵を愛するという行為は果たして可能なのか」が熱心に論じられてきました。愛してしまった瞬間にその人は自分にとって敵ではなくなってしまいますから、ここに形容矛盾があるのです。「そうだとすれば、この教えは守ることが不可能ではないか。ではなぜイエスは不可能な命令を弟子たちにするのか」ということが好んで論じられてきました。

最も弟子たちを甘やかす解釈は、「人間は弱い」ということを教えるために、イエスは不可能な命令を課したというものです。不可能なのだから守らなくて良いという怠慢が引き起こされがちな解釈です。たとえば、キリスト教徒である十字軍はイスラム教徒を愛さなくて良いので侵略し殺すという蛮行を犯しました。殴られたら殴り返すことを正当化し、個別的自衛権が認められ、侵略をしました。「人間には不可能なのだから、敵を愛さなくて良い。神はその罪も無条件で赦している」という反対解釈を許してしまったのです。

それに対して最も弟子たちに厳しい解釈があります。敵を愛することは可能なことであり、この困難な教えを弟子は守るべきだというものです。バプテストの先輩である米国のMartin Luther King Jr.牧師はこの立場を採りました。そして、主に黒人たちに向かって白人暴徒たちをも愛すべきだと説きます。暴力を濫用する白人に対して暴力で報復をするのではなく、非暴力の方法で相手を粘り強く説得すること、つまり相手よりも高い倫理観を持つことを、キング牧師は勧めています。この路線が素直な読みです。イエスは愛敵の命令をするにあたって弟子にとってその命令が遂行可能かどうかを何も論じていないからです。そしてルカが、対立構造を乗り越える道を示そうとしているからです。

話の大前提として、イエスは敵の存在を認めています。あなたを貧しくさせ飢えさせ泣かせ誹謗中傷をする人は、あなたの敵です(20-22節)。あなたを憎み、悪口を言い、ひどい目に遭わせ、あなたを殴り、あなたの物を奪う人は、明確にあなたの敵です(27-30節)。現代社会のような複雑な仕組みを持っているとしばしば敵は見つけにくいものです。今日の課題として、「あなたの敵は誰か」ということも知らなくてはいけません。敵を確定するコツは、誰が得をしているのか、誰が力を濫用/悪用しているのかを見極めるところにあります。あなたを貧しくさせて得をしている人は誰なのかを見極めることです。いずれにせよイエスは、わたしたちの人生に敵としか言いようのない者が直接にも間接にもいることを、はっきりと認めています。

暴力を受ける被害者や戦争被害者にとって、加害者は敵です。その罪の重さを薄めてはいけません。正に罪の重大さがあるからこそ、逆説が生きるのです。罪が大きければ大きいほど恵みも大きくなります。自分に不利益を与え、損害を与え、生命すら脅かす者を愛することに、人類最高の倫理があります。

敵を愛するということが可能かどうかではなく、敵を愛するということが何であるのかを考えることが重要です。敵を愛するということは、報復をしないということです。憎まれた時に同じように憎まないことです。誹謗中傷・虐待を受けた時に、同じようにし返さないことです。殴られた時に殴り返さないことです。強奪された時に強奪し返さないことです。自分のところで憎悪の連鎖と報復の連鎖を止めることです。マイナスを被った時に、マイナスで返さないことです。「テロの拡散」の時代にあって実に実践的な教えです。

ただし愛敵の教えは、泣き寝入りの論法に悪用されることがあります。加害者が被害者に対して、「あなたの敵を愛せ」「無抵抗で殴られよ」というのはいかにも欺瞞であり詭弁です。富んでいる人の搾取のために、貧しい人が富んでいる人を愛さなくてはいけないのではありません。それは非暴力・無抵抗・沈黙の押し付けです。

愛敵の教えは、加害者に対する抵抗と、加害者への説得を含むものです。暴力に対して暴力では返さない。それと同時に、「あなたの行為は悪い」と教え諭すことです。沖縄のガンジーと呼ばれた阿波根昌鴻さんは、非暴力抵抗運動で伊江島の米軍基地を7割ほど農民に返還させた運動家です。阿波根さんの方法は、「立たない・大声を上げない・耳より上に手をあげない」という「三ない運動」と、米兵に対しては子どもに教えるように諭すことにありました。上から目線が重要です。自分の方がより高い倫理観を持っているということを示すからです。この自尊感情なしに、非暴力抵抗運動は続けられません。

これならばわたしたちにも敵を愛することは可能となるのではないでしょうか。相手の悪さを教えることは、ある意味で相手に親切をし、その人の将来のために祝福を祈ることです。「あなたの新しい生き方に祝福あれ」というわけです。殴り返さないという意味ではもう一方の頬を差し出しているし、奪い返さないという意味では奪われるがままです。しかし一言、「あなたのしている暴行と強奪は悪です」と付け加えて教えることによって、無抵抗・沈黙と異なる道を選ぶことになります。こうして敵を愛するという行為が完成します。対立と分断が乗り越えられ、やり返さない愛と、悪を認めない正義が実現します。

十字架で頬を打たれ侮辱され暴行・強奪を受けて虐殺されたイエスは、加害者に何を教えたでしょうか。「わたしは渇く」「ここにあなたの母/あなたの息子が居る」「我が神、なぜわたしを棄てたのか」「成し遂げられた」「アッバ、彼らをおゆるしください。何をしているのか分からないのだから」。これらはすべて、暴力を是認していません。しかしやり返さないで、悪とは何かを加害者に教え、悪から救い出される道を示しています。

30節の「求める者には、だれにでも与えなさい」が、後半の導入となっています。自分にとってプラスにならない人との付き合い方です。後半、「罪人」という言葉が何回も用いられています(32-34節)。この言葉はこの文脈では「打算的な人」という意味です。そして全ての人はこの意味の罪人です。どんな人も打算で人間関係を作るものです。自分にとって都合の良い人・付き合いやすい人・益になる人と積極的に交わろうとします。その亜流として、自分の子どもにとって益になるかどうかも、親ならばつい考えてしまうでしょう。

後半に出てくる人は敵とまでは言えないけれども、付き合うと面倒な人です。貸してくれと頼むけれども、どう見ても返してくれなさそうな人です(34・35節)。「恩を知らない者」「悪人」(35節)とも言い換えることができます。関わると自分のプラスにならないばかりかマイナスになる可能性が高い人です。

このような人には情け深く憐れみ深くあれとイエスは説きます(36節)。これは「打算を捨てて気前良くしろ」「人間に対してはとことん寛容であれ」という教えです。「いと高き方」「あなたがたのアッバ(お父ちゃん)」、つまり神が気前よく寛容であるように、神の子であるあなたがたも気前よく寛容であれという教えです。ここには人間に対する徹底した信頼があります。「何も当てにしないで」(35節)は、「何も失望しないで」と翻訳したほうが良い言葉です。誰が真に自分のためになる人かということは、結局分からないのだから、すべての人への信頼を持ち続けることがここで勧められています。わたしたちは人間に希望を持つべきなのです。

なぜかと言えば、自分も含め打算的で、自分のことばかりを考える罪人を、憐れみ深い神は愛してくださっているからです。2000年前にナザレのイエスが十字架で殺されました。わたしたち信者は、その出来事を神が全世界分の人間の借金を、全部帳消しにしてくれたことと信じています。気前の良い神は借金を踏み倒し続ける人間に失望せずに、自分の子どもを借金の肩代わりにして、人間たちに借金返済をしなくて良いと語りました。十字架の殺害と復活の信仰的な意味です。この神に倣う時に打算的な生き方から、少しでも解放されていくのです。自分は神から多くの借金を赦されていながら、他人の負う自分への小さな借金に寛容になれないという倫理観は、やはり問題です。キリスト者になることは寛容さを身に着けることでもあります。それは徹底した人間への信頼を持ち続ける、高い理想によって初めて成り立ちます。

こうして貧しい弟子と富んでいる弟子のどちらにも当てはまる愛敵の教えがイエスによって語られます。貧しいほど気前よく貸せない場合もあるでしょう。富んでいる人も名誉毀損はされたくないでしょう。

今日の小さな生き方の提案は、敵を愛するということの実践と、自分のしてもらいたいことを他人にするということの実践です。自分の敵に対して「自分に対する悪行をやめてほしい」と語り、相手の悪さを丁寧に教えることです。また、自分も気前よくしてもらいたいのだから、実際神に気前よくされたのだから、どんな人にも寛容になることです。高い倫理観・高い理想・高い技術が求められます。それを、信・望・愛と呼びます。憎悪と報復の連鎖が止まないわたしたちの世界に必要なのは、信・望・愛です。