人を裁くな ルカによる福音書6章37-42節 2016年11月13日礼拝説教

今日の箇所は三つの部分に分かれます。第一に、「裁くよりも赦せ、そうすれば、裁かれないし赦される」という教えです(37-38節)。第二に、「人には導き手が必要だ」という教え(39-40節)。第三に、「自分のことを棚に上げて隣人を批判してはいけない」という教えです(41-42節)。全体はマタイ福音書7章1-5節と並行していますが、細かく見ると事情は複雑です。

短い中に三つの部分を半ば強引に混在させていることが、主語がまちまちなことからも分かります。便宜的に三つの部分を第一部・第二部・第三部と呼びます。第一部では、「あなたがたは・・・」(37節)という主語の命令です。第二部では、「盲人」(39節)や「弟子」(40節)など第三者を主語にして一般論を述べています。第三部では、「あなたは・・・」(41節)という主語の命令です。これらの言葉の核となる内容は(たとえば、「裁くな、裁かれないために」「自分の秤で量り返される」「自分の目の丸太をまず取り除け」が核)おそらくすべて生前のイエスにさかのぼります。

第一部のうち「人を罪人だと決めるな・・・ふところに入れてもらえる」(37節後半-38節前半)は、マタイにありませんからルカの付け加えです。「あなたがたは自分の量る秤で量り返される」(38節後半)は、マルコ4章24節からの切り貼りです。マタイもルカも「裁くな。裁かれないために」を、似た内容を持つマルコ4章24節と結びつけたのでしょう。

第二部のうち「盲人のたとえ」はマタイ15章14節にも保存され、「弟子は師に優らない」はマタイ10章24-25節や、ヨハネ13章16節にも保存されています。第二部は、口伝えの伝承としてルカが聞いたことのあるイエスの言葉だったのでしょう。

第三部は、ほぼ完全に単語レベルでマタイ福音書7章3-5節に合致しています。「裁くな。裁かれないために」(同1節)を含めて、この部分は文書化されていたことが確実です。

福音書記者ルカの作業机は、結構散らかっています。マルコ福音書とマタイ・ルカ共通文書・ルカ独自の文書などの素材が溢れかえっています。さらにルカが教会で聞いた言い伝えもルカの頭を悩ませています。ある言い伝えをどの文書に結びつけるかは、ルカとルカの教会の意思によります。

全体の真ん中に位置して、ある意味では全体の文脈を乱している第二部が、解釈の鍵を握っています。仕返しを避けるために他人を非難しないようにという教え、および、自分のことを棚に上げて非難しないようにという教えと、人には指導者が必要だという教えは何の関係があるのでしょうか。なぜ、ルカとルカの教会は、第一部と第三部の橋渡しとして、第二部を置いたのか、その意図を尋ねなくてはいけません。そして「人を罪人だと決めるな・・・ふところに入れてもらえる」部分を書き加えたルカの意図をも、合わせてわたしたちは尊重し、尋ね求めなくてはいけません。わたしたちがルカ福音書を読み進めているからです。

ただし、第二の部分には差別的な内容が含まれるので注意が必要です。「盲人が盲人の道案内をすることができない。二人とも穴に落ちる」という言葉は、目が見えないということへの侮辱や嘲笑を含みます。晴眼者は盲人よりも優れているということを前提にしているので差別です。障害者差別に反対するという視点から、わたしたちはこのような例え話を今日そのまま引用することは避けるべきです。おそらく、どんな人にも優れた導き手が必要だということを言いたいのでしょう。

この点が、弟子と師匠の例え話につながるのです。師匠は弟子よりも優れているし、そうでなくては弟子を導けません。「十分に修行を積めば」は問題のある翻訳です。「十分に整えられれば/準備されれば/正されれば」が、直訳です(田川建三訳・岩波訳参照)。弟子自身の修行努力ではなく、師匠をはじめとする教育機関の重要性が言われています。すべての人は師匠の上達程度までは上達することができるからです。

第二の部分の肝は「教育」にあります。全ての人に適切な教育を施す必要があります。ルカとルカの教会の関心は、イエスの言葉によって会衆を教育することにあります。「敵を愛せ」という高い理想を現実生活の中で、どのように実践できるのか、日常生活に合った実例を上げて「より良く生きる道」を教えるのです。

教育というものは本当に重要であると思います。反貧困教育という運動があるように、「知は力」です。日本でも世界でも適切な教育を受けていないために貧困が相続されています。特に高等教育を施すために一人あたり2000万円を必要とする異常な国・日本において、教育機会の平等が実現できなければ、格差を埋めることはできないし、階級対立を乗り越えることはできないでしょう。親の年収と子の学歴が正比例していることが問題です。わたしたちが貧しくさせられている理由は、国が教育予算を削ることにあります。「敵」として見抜かなくてはいけない相手がそこに居ます。誰がそれによって得をしているかを見極める知恵が必要です。しかも、批判的精神という知恵も教育によって養われ整えられるものなのです。だから、ヨーロッパ諸国で大学院まで無償であることは大きな意義を持っています。

教会学校の発祥は子どもたちへの識字教育にありました。児童労働で酷使され教育機会を奪われていた子どもや、貧しいために教育機会を奪われていた人に、教会が聖書を用いて文字を教えたのです。日本の被差別部落の人々への識字学級・反貧困教育と問題意識は同じです。そして実はユダヤ教の会堂にも同じような教育機関としての役割がありました。だからユダヤ人の識字率は古代社会でずば抜けて高かったのです。ユダヤ教の会堂の後継者であるキリスト教会は、「教育機関として機能する」という貢献を世の中にすることができます。それは日本バプテスト連盟が推進している教会学校運動とは少し違う路線です。

世の中に対してだけではなく教会内部の教育という面も考えるべきです。教育というものは人格の完成をめざすものだからです。キリスト者として生きるときにどのような成長・人格の完成が望まれているのでしょうか。

非常に高い倫理・理想を掲げていても、教会の現実は悲惨なものです。世の中と大差がありません。教会に連なっていたとしても、非常に打算的であり、ご都合主義であるわたしたち一人一人の内心や日常は、あまり変わっていないのではないでしょうか。神が寛容であるように、隣人に寛容になりきれているのか(36節)。隣人を断罪する者もいるのではないか。隣人の過ちを許せないことが多いのではないか(37節)。ちょっとしたおまけを隣人に与えても良い場面で、けちることがあるのではないか(38節)。自分の大きな欠点を棚に上げて隣人の小さな欠点をあげつらう「偽善者」もいるのではないか(42節)。これらはルカの教会の現実の姿です。ルカは一方で理想的な「原始共産主義社会」として教会を描きながら(使徒言行録2章43-47節)、他方で会衆内部の階級対立や低次元の争いを克服できないでいる教会員同士の現実を問題視しています。

なぜこのような低次元の争いや分断・対立が起り得るのでしょうか。「もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もない」(ガラテヤ3章28節)と言われているはずなのに、教会の中でも対立があるのはどういうことなのでしょうか。人々が十分に整えられていないからです。ここに内部教育の必要性があります。一言で言えば、イエス・キリストだけを「良い教師」とする意識改革です(ルカ18章18-19節)。教会に連なる一人一人は、「キリストに倣って生きる」ということです。そして教会全体としては、「キリストの言動によって個々人を十分に整える」ということです。

イエス・キリストはまったく打算的な生き方をしませんでした。他者のために生き、社会的弱者を弁護し、癒し、救い出し、すべてを与え、十字架で自分の命をささげ、復活で自分の命を配ったのでした。イエス・キリストは利他的に生きるための良い教師です。

イエス・キリストは、自分の欠けを棚に上げた上で重箱の隅をつつくような嫌味を他人に言う人ではありませんでした。自慢せず、高ぶらず、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱きませんでした。口から出るもの(言葉)が自分を汚すという自己吟味を常にし、柔和で謙遜で、十字架に至るまで従順でした。

今日の箇所の興味深いところは、高い理想をそのまま実現したイエス・キリストに倣うために、ルカ版のイエスの言葉は実に低次元にまで降りてきていることです。打算的なわたしたちに分かるようにと、かなり打算的な言い方をしています。誰でも裁かれたくないだろう、報復されるのは嫌だろう、ならば裁くなという言い方です。「相手に良いことをすればいつか自分に返ってくるよ」「情けは人のためならず」というわけで、「赦せ」「与えよ」「気前よく余計におまけしろ」と勧めるのです。キリストのように完璧に打算を捨てることはほとんどの人間にはできませんが、仮に打算的であっても結果が善い行いなら良いではないかという教えです。教育的な言葉というものは、この低次元まで降りていく必要があります。

「自分の目の中にある丸太に気づけ」も、よく考えてみたら小さな目標です。何も生産的ではないからです。自分を見つめ直すだけのことです。しかも、結論としては「そうすればはっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる」(42節)とあり、裁くことを容認しています。「裁くな」と命じても、裁く行為そのものはおそらく終わらないことを、イエスは予想しています。完全にできなくても、心にブレーキがあれば抑制が効くだろうという期待。その期待どまりで良しとしているところに味噌があります。教育においては、相手の人格に対しては全面的に信頼を置きますが、相手の行為に対しては全面的に信用を置かないものです。相手の成長について最大限の希望をかけますけれども、日々の結果については最小限の期待のみで良しとするものです。少しずつ引き上げるということです。

教会が行う会衆への内部教育はどこでなされるべきなのでしょうか。結局のところ礼拝でしょう。ルカ福音書は礼拝で読まれるために作成された文書です。礼拝で福音が読まれ福音が十分に語られ(説教)、礼拝でイエス・キリストの生き様と死に様と復活の様が記念される時に(晩餐)、一人ひとりが十分に整えられ、少しずつキリストに倣う実践ができるようになるのです。教会全体は教育的なその環境を設定する務めを世の終わりまで担います。

今日の小さな生き方の提案は、実に打算的・低次元のお勧めです。誰かに良いことをすれば、いつか回り回って自分も良い目にあいます。そう考えて良いことをする方が、自分の正しさを振りかざして相手に意地悪するよりもよっぽど上等ではないですか。礼拝で整えられ小さな愛の行いをいたしましょう。