それでもだめなら ルカによる福音書13章1-9節 2017年10月8日  礼拝説教

今日の箇所はルカ福音書にしかない、イエスの言葉です。この箇所を読み解くためには、バプテスマのヨハネとの比較が役に立ちます。「悔い改める」(35節)、「実」(679節)、「切り倒す」(79節)といった単語は、ヨハネの説教に登場するからです(379節)。イエスとヨハネの違いが明らかになるように解釈していく必要があります。

ヨハネは一言で言えば「成果主義」に立ちます。悔い改めた人は、悔い改めの結果として善い行ないをしなくてはいけません。全ての人は衣服や食べ物を分かち合うこと、徴税人は規定以上のものを取り立てないこと、兵士はゆすり取らないことが求められます。結果を出さないならば、斧は根元に置かれていて、切り倒されます。悪行を働く悪人が、善行に励む善人にならなくてはいけないということです。悔い改めは生き方の転換であり、実は表に出ている生き方であり、切り倒すとは神のさばきがこの世界で起こるという事態です。

イエスはヨハネのことをよく知っています。彼からバプテスマを受けているからです(32122節)。二人の近さは、ルカ福音書で特別なものとして格上げ評価されています。二人は親戚であり、母親同士も行き来があります(1章)。ただし全ての福音書で描かれているように、ヨハネが先に登場しています。後から登場したイエスは、ヨハネを批判しながら乗り越えています。だから、同じ単語を使いながら、より良い、違う意味を持たせているのです。

ヨハネに反してイエスは成果主義に立ちません。むしろ結果が出ない人を徹底的にかばう側に回ります。このイエスの弁護士としての姿勢が、今日の箇所を読み解く物差しとなります。この視点に立って69節の意味を先に考え、その後に15節に取り組んでいきましょう。

ぶどう園にいちじくの木を植えた「ある人」は、神を喩えています(6節)。そして「園丁」はイエスを喩えています(78節)。「ある人」は「園丁」の雇い主のようですから、このぶどう園の農場主なのでしょう。両者に上下関係があります。いちじくの木は、わたしたち人間の喩えです。

「置かれたところで咲きなさい」と言った人がいます。個々人の人生には所与の条件があります。与えられた環境のもと精一杯生きなさいという意味の前向きな言葉です。しかし人生はもう少し冷酷です。いちじくの木なのに、ぶどう園に植えられてしまう場合すらあるのです。いちじくの木としての世話をしてほしかったかもしれません。そうすれば、実をつけることができたかもしれません。不得手な分野に置かれた場合、置かれたところで咲くことは困難なのです。「結果を出せ」という言葉は、冷たい言葉です。ちなみに、カルポスというギリシャ語には「実」という意味も、「結果」という意味もあります。

唯一神教の場合、すべての出来事は神の意思や働きの結果起こるものです。全能者がわたしたちに辛い経験を強いているのです。いちじくの木に酷な要求をしている神が、さらに酷なことに三年間実をつけなかったいちじくを切り倒せと園丁に命令しています(7節)。

三一神教の場合、唯一の全能者の隣に、わたしたちを弁護するイエスがいます。園丁は、農場主の命令に従いません。むしろ、自分の育て方が悪かったかもしれないと、いちじくの責任を自分の責任として背負って悔い改めます(8節)。「もう一年わたしにチャンスをください。それでも実を結ばないならば、あなたが切り倒してください」(9節)。園丁はいちじくを弁護しつつ、いちじくについての自分の責任も負いつつ、さらにやんわりと農場主の「切り倒せ」という命令に従わない意思を示しています。「ぶどうではなくいちじくをぶどう園に植えたあなたが、自分の手で切り倒してください。」

イエス・キリストはわたしたちの弁護士です。「結果を出せ」と常に言われているわたしたちを、必ず弁護してくれます。厳しい人生の旅路にはそのような弁護士の同伴が必要です。隣人にも、自分の信じる神にも「ダメ出し」や「ダメ押し」をされたりするわたしたちですが、ただ一人どのような状況でもかばってくれる方がいます。救い主イエス・キリストです。情けない弱者であるわたしたちは、無条件の赦しを得なくては立ち上がれません。「このままにする」(8節)は、「赦す」という意味もある単語です。ここには十字架上のイエスの祈りが共鳴しています(2334節)。

ヨハネは情けない強者と同時に情けない弱者をも、ばっさりと切ります。イエスはそうではありません。結果を出さなくても良い。最悪の結果を出すことすら赦される(たとえば裏切り)。ここに、イエスの凄みがあります。

成果主義に立たないイエスの姿勢を、15節の教えに重ね合わせてみましょう。一見すると、「悔い改めて実を結ばなければ死ぬ」という教えに読めますが、そうではないでしょう。69節が「悔い改めの実を結べ」という教えではないからです。園丁が徹底的にかばうという話から、二つの悲劇的な出来事を読み、「悔い改めなければあなたたちも滅びる」という言葉の真意を探らなくてはいけません。たとえば次のような脅しは変です。「悲劇的な死を遂げたガリラヤ人や18人には悔い改めが必要だった。あなたたちもこの人たちよりも悔い改めないならば、同じように死ぬ」。69節が示す、救い主・弁護士イエスの姿が、この解釈による脅迫を許しません。

最初に翻訳の課題を指摘します。2節と4節に「よりも」という言葉があります。しかし、ここに比較級は使われていません。「よりも」と翻訳された前置詞パラは、「と違って」という意味です。比較の中で、より罪が多い/より罪が少ないという意味ではありません。そうではなく、イエスはピラトに殺されたガリラヤ人に罪は無かったと言いたいのです。田川建三は次のように訳します。「そのガリラヤ人が(ほかの)すべてのガリラヤ人と違って罪人であったのでこういうことを蒙った、とでも思っているのか」(2節)。罪の程度が問題にはなっていないことを、ひとまず押さえておきましょう。

ピラトという人は本当に残虐非道の限りを尽くしたローマ総督です。この事件は聖書にしか記載がありませんが史実でしょう。単なる虐殺というだけでなく、あえて敬虔なユダヤ人の感情を踏みにじる行為でもあり、いかにもありそうです。ピラトは兵士に命じて、ガリラヤ人を神殿の祭壇にまで連れて行き、動物の犠牲祭儀の最中に、その人たちの首を切って、「血を彼らのいけにえに混ぜた」というのです(1節)。殺し方も残酷ですが、ユダヤ人たちの文化に対する軽蔑も含まれていることも見過ごせません。

ところがこの事件について、群衆もひどいことを言います。「あの殺されたガリラヤ人は、他のガリラヤ人とは違って罪人だったのだからしょうがない」という酷い言葉を投げつける人もいました。「ちょうどその時来た何人かの人たち」(1節)は、その考え方に影響されていた人々です。いわゆる二次被害/加害。「あなたにも落ち度があったんじゃないの」という考え方です。2節のイエスの言葉は、無責任な噂話を批判するために引用していると考えます。

「決してそうではない」(3節)。殺されたガリラヤ人も、殺されなかったガリラヤ人も、罪を犯していない。これは不条理の苦しみだ。ピラトの犯罪こそ問われるべきだ。ピラトに対する批判をせずに、ガリラヤ人の罪のせいにしがちな群衆たちをイエスは批判しています。ちなみにルカ福音書全体は群衆という存在に対して批判的です。マルコ福音書は群衆を、世界を変える潜在力を持った「民衆」と肯定的に捉えていますが、ルカ福音書においては無理解な「大衆」という意味で群衆が登場します。

「あなたたちは悔い改めなさい」という言葉は、無理解な群衆に向けられています。二次加害を垂れ流す人々に影響されている、考えが浅い群衆に向かってイエスは、「その考え方をやめなさい」と方向転換を勧めています。残酷な権力者ピラトも滅びの道を進んでいます。二次加害を語る人々も滅びの道を進んでいます。同じように滅ぶなと目の前の群衆にイエスは語ります。「滅ぶ」というのは、「徹底的に崩壊している」という意味合いです。崩れた考え方に基づく崩れた生き方が問われています。「殺された人と同じように殺されるぞ」という脅しではありません。

イエスは殺されたガリラヤ人と自分の姿を重ねています。彼もピラトによって罪がないのにも関わらず残虐なかたちで処刑されたガリラヤ人でした。「災難に遭う」(2節)は、イエスの受難を指すときにもしばしば用いられる専門用語です。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」(使徒信条)た方が、ここで暗示されています。人々は十字架のイエスに向かって二次加害を犯します。「大口を叩いたのだから死んで当然」「結果を出さなかったのだから殺されてもしょうがない」「十字架から今すぐ降りれば信じてやるぞ」。このような考え方に立つ人こそ崩れた生き方を晒しています。弱い者がさらに弱い者を叩いている図です。弱者同士の分断は、権力者だけが喜ぶ構図です。

イエスは十字架上で、崩れた情けない弱者たちをかばいます。「御主人様、今年もこのままにしておいてください/赦してください。来年は実がなるかもしれません。」そして十字架の苦難を引き受けます。それは、わたしたちが崩れた考え方・生き方から悔い改めるためです。いちじくの木の周りを掘って、自分の命という肥やしを与えるために、真のぶどうの木が切り倒されたのです。

同じように、シロアムの塔の倒壊事故で亡くなった十八人についても考えることができます。イエスは、この事故が「人災」だったことを示唆しています。「シロアムの塔が倒れ、それが殺した十八人」と言っているからです(4節)。また、4節の「罪深い」は、2節の「罪深い」とは単語が異なり、「借金を負っている者」という意味です。

ローマ帝国は土木帝国・土建国家です。シロアムの塔の増改築工事を始めたのはピラトかもしれません。そこでは多くのエルサレム住民が徴用されたことでしょう。借金を抱えた人から日雇い労働に従事していったかもしれません。最も危険な現場に、最も貧しい人が配置されていた可能性もあります。

「あの十八人が事故死したのは、借金を負っていたのだからしょうがない」という二次加害を語る住民がいたのではないでしょうか。本当に必要な工事だったのかの吟味、過酷な建築工事の結果の労働災害だったかの検証こそ大切です。ローマ帝国の軍事占領がなければ、この事故はそもそも起こらなかったという視座を持ち続けるべきなのです。18人の血が大地から叫んでいます。十字架の主は、血の叫びに共感し、群衆の二次加害を止めようとしています。

今日の小さな生き方は、成果主義に立たないということです。イエスはわたしたちが結果を出したから救ったのでしょうか。決してそうではない。わたしたちはそのままで赦されています。無条件に赦された者は、無責任な二次加害をとどめる生き方に悔い改めが求められます。「バチが当たった」「あなたにも悪いところがある」と、なぜわたしたちは言うことができるでしょうか。つまり、なぜ不幸の原因を、「推測上の個人の悪行」に求めるのでしょうか。無条件の赦しが因果応報を断ち切ります。福音を信じましょう。