「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マルコ福音書2章27節)。安息日についてのイエスの教えは急進的です。ルカ福音書は、イエスの活動の始めを「安息日における諸会堂での教え」とします(4章15-44節)。ナザレ、カファルナウムというガリラヤの町々で、毎週の安息日ごとに聖書を解釈し教えながら、癒しの奇跡を行っていたのでした。会堂は安息日論争の起こりやすい場所です。
今日の物語は、「曲がっている手を伸ばす」(6章6-11節)という奇跡的治癒の物語によく似ています。イエスが安息日にあえて治療行為を行い、それによって律法学者やファリサイ派に憎まれるという話です。この時も、イエスは急進的な聖書解釈を述べています。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」(6章9節)。
安息日は礼拝をする日です。そして礼拝以外の労働を極力しない日です。それによって人は休みを得て元気になるからです。この休みは「善」であり、命を救うことです。ただし、ここには幅があります。何が労働にあたるのかが曖昧だからです。ちなみに、ヘブライ語動詞アバドは、「礼拝する(仕える)」も意味しますし、「労働する」も意味します。
今日の物語において会堂長の言葉にある「治す(セラペウオー)」(14節)は、一般的な治療行為です。しかし、イエスの言葉においては一貫して「解放する(アポルオー/ルオー)」が用いられています(12・15・16節)。病気の治療ではなく、「弱さ」(後述)からの解放が重要です。礼拝中に発生する、人を解放する行為は、禁じられた労働には当たらないと言えます。
6章の物語は、敵対者たちの罠によって、イエスは安息日礼拝の最中に治療行為をするように仕向けられました。今日の箇所では礼拝中に、自ら腰の曲がった女性を見つけ、大声で呼びかけて、奇跡的治癒を施しています(11-13節)。この会堂の場所はよく分かりませんが、イエスは少なくとも二週間以上この町に居て同じ会堂に通っているようです。原文において「安息日」(10節)が複数だからです。おそらく前の週にこの女性は安息日礼拝にいなかったのですが、この週は特別にその場・その時に居たということでしょう。それは女性の意思によるもので、会堂長にとっても意図するところではなかったと思います。
そもそも、女性が安息日の礼拝に出席することが禁じられていました。今もユダヤ教の「正統派」では女性たちは安息日の会堂礼拝に出席できません。「保守派」では、礼拝に出席できるけれども男性席と柵によって仕切られています。「改革派」でやっと、男女混ざった出席が可能となります。女性たちは毎週の礼拝から排除されていました。
ではなぜこの女性はここに居るのでしょうか。前の週にナザレのイエスが自分の町の会堂で礼拝をしたことを、この十八年間腰が曲がった状態の女性は聞きつけたのでしょう。そして、この週、禁じられていた安息日の会堂礼拝に、非難されることを覚悟で、あえて出席したのです。もしかしたら男装して、そしてもしかしたら会堂の隅にうずくまるようにして、礼拝中、彼女はイエスの教えに耳を澄ませていました。帰り際に、イエスの服の房に少しでも触れば、自分の腰はまっすぐになると、彼女は信じていました(8章44節)。
「女の方、あなたはあなたの弱さから解放された(アポルオー、完了)」(12節私訳)。この言葉は、「娘よ、あなたの信があなたを救った」(8章48節)と、共鳴しています。ほぼ同じ意味でしょう。腰がまっすぐになる前に、解放が完了していることをイエスは宣言しています。その後、両手を彼女に置くと、たちどころに腰がまっすぐになり、彼女は神を賛美します。イエスを一目見て、イエスの声を聞いて、イエスに少しでも触れる。そのためになら、性差別によって禁止されていた安息日礼拝にも潜り込む。このまっすぐな勇気が、解放といやしを引き出しています。救われた者が神を賛美します。これこそ礼拝です。
会堂長はもっともらしく、聖書を引用しながら「安息日という24時間において医療という労働は許されていない」と言い募って腹を立てています(14節)。しかし、根本的な問題には目を向けていません。彼の苛立ちの本当の原因は、女性が安息日礼拝に出席していることそのものだったのです。これが善を行なっていることにあたるでしょうか。
「偽善者たちよ」とイエスは反論します。会堂長だけの問題ではありません。女性差別を行っていながら、巧妙に別の次元の話に逸らせて問題から目を背けさせる人々に向かってイエスは語ります。すり替えの結果、安息日を人間の差別と排除の日にしてしまっている男性中心社会の人々に語りかけます。
「あなたたちは皆、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解放して(ルオー)、水を飲ませに引いて行くではないか。動物にしている解放を、なぜ女性にしないのか。なぜ彼女を縛り神から遠ざけるのか。この女性はアブラハムの娘だ。アブラハムの時代には安息日は無かった。サラもハガルも共に礼拝できた。彼女は18年間、弱さに縛られていた。その間、本当に必要だった命を救うための安息日礼拝も禁じられていた。安息日であっても、いや正に安息日だからこそ、彼女は解放されるべきだ(ルオー)。安息日は女性のためにある。男性が女性を家に縛りつけ支配するためにあるのではない」(15-16節)。
イエスに反対する者たちは恥じ入り、人々は喜びました(17節)。神の子の言葉によって、自分たちの罪が照らされました。その一方で隣人の救いを喜ぶ賛美の声が湧き上がりました。今まで18年間女性の存在を知りつつ「道の向こう側を通り過ぎて」(10章31節)いました。隣人となるべき他者がここにいると、人々は改めて気づかされました。彼女が会堂に来ることによって、そしてイエスが彼女を大声で呼び寄せ、解放を宣言し、腰をまっすぐにしたことによって、共に礼拝することができるようになったのです。これこそ、わたしたちのなすべき安息日礼拝です。この会堂では、「男と女」という二分法が無い礼拝が、安息日に行われていったと思います。教会の原風景がここにあります。
ここで、この女性が解放されたことがらについて、立ち止まって考えましょう。彼女は何に縛られ何から解放されたのでしょうか。「弱さ」(アスセネイア)という単語の使い方を吟味してみます。新共同訳聖書で、「病」(11節)・「病気」(12節)と訳している単語です。新約聖書の中で24回登場します。
この言葉をルカは5回使いますが、すべて「癒され克服されるべき病気」(5章15節・8章2節・使徒言行録28章9節)として、否定的な意味合いでのみ用います。今日の箇所もそうです。
しかしルカの友人であるパウロは全く違います。「弱さ」はパウロ神学の一つの中心です。いわゆる「十字架の神学」と呼ばれるものです。「弱さ」という単語の登場24回中、11回もパウロの手紙に集中しています。そして、「弱さ」は逆説的な意味で肯定的に用いられています。パウロは、「十字架のイエスと同様にわたしも弱い」(Ⅰコリント2章2-3節)と語ります。彼の肉体には痛みを伴う病気があり、それを彼は「サタンから送られた使い」と呼びます。彼は癒しを祈りますが、神からの答えはこのようなものでした。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。だからキリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇ろう。わたしは弱い時にこそ強い(Ⅱコリント12章7-10節)。
パウロの「弱さ」理解には深いものがあります。イエスの十字架の苦難を「弱さ」ととらえ、自分の人生の苦難と重ね合わせ、仮に「弱さ」が克服されなくても、逆説的に希望を得ることができるからです。治らない病気や、不条理の苦しみに遭っている人々にとって、深い慰めを与える思想です。人生の十字架を背負わされている人と共に、イエスは今も十字架にかけられ続け、飼い葉桶に縛られ続けています(2章7節)。
ルカはパウロの「弱さ」についての考察を知りながら、それに対する建設的批判をしてはいないか。「サタン」という言葉がどちらにも登場するので、そのように思えてならないのです。つまり、パウロ流に「弱さ」というものを肯定的にとらえることの弊害を、ルカは批判しています。
「弱さ」が逆説的に常に良いものであるならば、人は挑戦することをあきらめてしまわないでしょうか。言わば「敗北主義」に陥らないでしょうか。18年間腰は曲がっていたのだから、そしてそこに恵みが現れているのだから、腰は曲がったままでかまわないということになりはしないでしょうか。
「弱さ」が逆説的に認められてしまう場合、強い者が生み出す「弱さ」も肯定されてしまわないでしょうか。生まれてこの方、安息日礼拝が許されていないことと、女性が腰を屈まされていたことは、支配と被支配の構図として物語において重なって表現されています。弱い者に屈従を強いている強い者が、自分たちの悪行を肯定するために、弱者に向かって「弱いままであれ」と言う余地が、十字架の神学にありえます。
弱い者の心にあきらめがとどまるとき、強者・弱者の仕組みが強化されるとき、わたしたちは悪霊に支配され(8章2節)、サタンに縛られています。「女の方、あなたはあなたの弱さから解放された」(12節)。「見よ、この女性をサタンは18年縛った。彼女はこの束縛から安息日に解放されるべきではないのか」(16節私訳)。新共同訳のように「安息日であっても」と解するのではなく、正に「安息日に」こそ、この解放がなされるべきです。安息日がサタンの縛りを強化し、安息日が排除されるべき弱者を拡大再生産していたからです。
イエスが会堂の礼拝中聖書を開き読み解いていた時、会堂の隅に座っている腰の曲がった女性に気づきました。その時、彼は彼女のこれまで18年間の苦労多い人生を読み取り、生まれてからこのかた苦労を負わせているサタンの仕組み・偽善者たちが形作るこの時代の課題(12章56節)を見抜きました。しかし、この女性があきらめずに敢然と弱さからの解放を願い、その望みをまっすぐ自分に託していることについて、イエスは賛嘆し、彼女を呼びます。
説教は中断されます。言葉よりも解放の出来事そのものを人々に紹介したほうが良い。この女性が安息日礼拝に出席している。これがすでに解放・救いです。もはや屈従の時は終わったからです。イエスは腰を伸ばすことで、解放・救いを後押ししました(13節)。いわゆる牧会とは、救いを後押しすることです。説教者の仕事は、この解放の出来事に対する反論(14節)への反論です(15-16節)。そして会衆の仕事は、罪の自覚であり神への賛美です(17節)。
今日の小さな生き方の提案は、これら一連の解放が起こる礼拝を行い続けようという勧めです。人生の苦労を負うあなたが呼ばれています。あきらめずに礼拝に来たあなたは「弱さ」から解放されています。子どもを含め取りたい人がパンを取るとき、救いがすでに起こっており、この世界の支配/被支配や排除の論理が礼拝で逆転されています。わたしたちは腰を伸ばされ、罪を恥じ入り、神を崇め賛美します。これこそ安息日の解放なのです。教会がなすべき使命は、人の安息のために行われる、霊的な礼拝の中にすべて含まれます。