バプテスト教会は、各個教会が完全な自治を持つ一つの教会です。教派や教団、教区というくくりが「自治権限を十全な形で持つ教会」のための要件ではありません。言い換えれば、各個教会が「神の国」であるということです。だから「神の国は何に似ているか。何にたとえようか」(18・20節)という問いは、「泉バプテスト教会が何に似ているべきか」という問いと同じです。イエスが「神の国」をどのように理解していたのかを、直接、わたしたちの教会をどのように捉えるべきかと重ね合わせることができます。
まずイエスが「神の国」という言葉で何を言いたいのかを、今日の聖句以外にも目を向けて確認します。その際にはルカ文書を重視します。その後に、今日の聖句にとりくみ教会はどのような姿となるべきかについて、読み解いていきましょう。
イエスの生きていた時代には、すでに「神の国」という言葉は特定の意味を持っており、一般に広まっていました。それは世界の終わりに、ユダヤ人の信じる神が支配する王国を指します。神は王として地上に来て、ユダヤ人以外の「異邦人の諸王国」を征服・支配し全世界に君臨します。そして、ユダヤ人だけが「神の王国」の住民となるというのです。
また神の国に入る/神の国を受け継ぐためには、ユダヤ人であってもさらに敬虔な者でなくてはいけないとも考えられていました。神の国を担う・神の国のくびきを負うという表現が、イエスの時代近くのユダヤ教文献にあります。たとえば、申命記6章4-5節を毎日暗唱するなどの敬虔な行いが、神の国のくびきを負う行為として推奨されていました。
バプテスマのヨハネの教えはこの延長にあります。「あなたたちは悔い改めよ。なぜなら神の国が近づいたのだから」(マタイ福音書3章1節)、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れるとだれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」(ルカ福音書3章7-8節)。神の王国の接近は脅しとなっています。ユダヤ人であっても、それだけではだめなのです。斧が木の根元に置かれており、悔い改めにふさわしい良い実を結ばない木はみな切り倒されて火に投げ込まれるからです(同9節)。
外に対しては激しい排外主義的民族主義。内に対しては厳しい内部競争と比較。このような当時の常識だった「神の国」思想に対して、イエスは敢然と挑戦します。そこにイエスの新しさがありました。「(決定的な)時が満ちた。そして神の国は到達した。あなたたちは悔い改めなさい。そしてあなたたちは福音を信じなさい」(マルコ福音書1章15節私訳)。ヨハネの教えを、「時が満ちた」と「福音を信じなさい」が囲んでいます。また「神の国が近づいたから悔い改めよ」という理屈になっていません。だからイエスが用いる「近づいた(ヘブライ語ナガア)」は「接近」ではなく、「到達/接触」の意味でしょう。時が満ちたという恵み、今触れている福音を信じるだけで良いという恵み。すでに来ている恵みの中で感謝をもって生きることが、これから来るかも知れない神の怒りにおびえることよりも大切です。
元来のイエスの神の国についての考え方を、ある意味でルカが一番忠実に報告しています。ルカ福音書のイエスは、「会堂で聖書を解釈する」という活動、言い換えれば、「礼拝の中で福音を告げること」に力を入れています。たとえば活動の最初も、マルコが場所不定の形での宣教「時は満ちた・・・」と報告するところを、ルカは故郷ナザレの会堂での安息日礼拝に場所を設定しています。この方が史実に近いように思えます。イエスはイザヤ書を独自の解釈で解き明かしています。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである」「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(4章18・21節)。これは、「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」(6章20節)と対応しています。困っている人への丸ごと肯定が、福音の告げ知らせです。
ルカ福音書の強調は、「神の国がもうすぐ来る」ということよりも、「神の国はイエスの周りにすでに来ている」ということにあります(7章22節、8章20節)。特に17章20-21節が重要です。神の国は、本人たちも気づかないかもしれませんが、弟子たちの只中にあります。聖書の読み解きだけではなく、イエスを中心に意外な人々と共なる宴会に出席している時、わたしたちは神の国に触れ・入り、神の国を受け継いでいます(13章28-29節、14章15-24節、18章16-25節)。確かにこの世界のどこかで不平等な食卓がある限り、神の国は完全には来ていません。しかし、支配者と奴隷、王と給仕役が逆転される食卓で、神の国はすでに部分的に実現しています(22章14-30節)。
まとめると、教会の礼拝で福音が語られ「パン割き」が行われる時に神の国は今・ここに到達しています。その教会は民族主義を乗り越えた、もはや「ユダヤ人もギリシャ人もない」という共同体です。ルカ自身も「福音を告げ知らされた」ギリシャ人でした(使徒言行録16章10節)。ルカの友人パウロは、イエスのようにユダヤ人の会堂で安息日礼拝をしながら福音を語りました(同13章5節他多数)。そして各地に散らばる信者の「家の教会」でパン割きを実践していました(同20章7-12節)。一つ一つが部分的な神の国そのものです。神の国はユダヤ人の世界支配の完成ではありません。どんな人も給仕をする食卓であり、そこで「あなたが幸い」との福音を聞く交わりです。
イエスの「神の国思想」「神の国運動」と初代教会の継承を知ると、今日の箇所は分かりやすくなります。13章18-21節に戻ります。神の国は、「からし種」に似ています。からし種はとても小さな種なのだそうです。しかし、その割には非常に大きな木になるのだそうです。からし種を蒔く「人」(19節)は、神をたとえています。「自分自身の庭(19節直訳)」は、世界のことです。神は世界をみ手に所有し保っておられるからです。神は園丁を雇うわけでもなく、自分で自分の庭に無造作にからし種を蒔いて、その後は放っておいたようです。からし種自身の生命力と、育つ力を知っているからでしょう。
同じ神はかつていちじくの木をぶどう園に植えながら、毎年いちじくの実がなるかならないかを園丁(イエス)に問い詰めるという失敗をしていました(6-9節)。これは色々な意味で神にとって手痛い経験で、園丁からの批判を甘んじて受け入れなくてはいけませんでした。斧を根元に置いて「三年で結果を出せ」という脅しでは、神の国(=教会)は逆に大きく育たないのです。ぶどう園の農場主の神は、ユダヤ人一般が考える「神の国思想」における怒りと脅しの神のたとえです。
からし種を放置していることは、からし種に期待していないことと同じ意味ではありません。神は過去の反省を生かしながら、より良い結果を予測して、大きな期待を込めて、小さな種を蒔きました。その種は世界の一隅で自然に成長します。実に自分たちが成長していることすら分からないほど無自覚なまま大きな木になり、立派な枝を張るようになるのです。
ところで話の結論は、木が大きくなったことへの評価ではありません。一粒のからし種が30倍・60倍・100倍のからし種を産んで、同じ木が100倍に増えたということを喜んでいるのでもありません。怒れる神が木を切り倒すということでもありません。「その諸々の枝の中に、天の諸々の鳥が巣を作るだろう」(19節私訳)。木の枝に天のさまざまな鳥たちが巣を作ったことを神は喜んでいます。天で行われている御心が地上で実現したということです。
宿っている数々の鳥たちの中には、ユダヤ人にとっては「汚れた鳥」である烏もいることでしょう(12章24節)。木のために木があるのではありません。鳥が住むために木はあります。木は鳥を選べません。神が清いと認める鳥を、木や特定の枝が「汚らわしい」と切り捨てて排除することもできません。ただ木は「自分を選んでくれてありがとう」と言って、共生を喜ぶだけです。
これが教会の模範例であるからし種です。教会は外からの教育で大きくなるのではありません。日本バプテスト連盟や東京地方連合が大きくしてくれるのではありません。園丁が直々に育成するわけでもない。イエスが生身の体で教会を指導はしません。教会を吹き抜けるのは聖霊の風だけです。その不思議な風を受けて、教会は自力で知らず知らずのうちに自分の身の丈になるのです。
また、教会は教会のために大きくなることを目指すのでもありません。教会は他者を宿らせるべく自然と大きくなります。教会は教会員のためにあるのではありません。他者のためにある時にのみ、教会は神の国に似ています。目に見える数値的な大きさだけではありません。人数的・経済的に小さな教会であっても、さまざまな他者を多く抱えることが求められます。多文化共生です。
パン種のたとえに移ります。「三サトン」を約40リットルとすると、かなり大量の粉です(21節)。それにパン種を混ぜるならば、これまた巨大なパンができることでしょう。この巨大なパン全体は全世界をたとえています。パンが神の国ではなく、パン種が神の国に似ているからです(20節)。パン種を混ぜた女性は神のたとえです。この女性は家事労働に長けた人で、パン種を混ぜるとパン生地がどこまで膨れるのかを知っています。そして、混ぜた後は時が満ちるのを待つだけだということも知っています。寝かせるわけです。
小さなものが放置されいつの間にか大きくなるという点で、からし種と同じです。しかし異なる点もあります。パン種はパンを大きくするため、美味しくするために混ぜられています。からし種と異なり、パン種自身は大きくなりません。神自らが明確な意図をもって、パン種を粉に入れて混ぜ、パンを大きくさせようとしています。神の国は世界にすでに練り込まれています。
ここにも神の国が接近していることに基づく脅しはありません。民族主義に基づく世界支配への野望もありません。神の国は、ほのぼのとした家事労働にたとえられています。神は知恵を備えた女性にたとえられています。ここでの教会像は「地の塩」のイメージに重なります(14章34-35節、マタイ5章13節、マルコ9章50節)。
教会は世界の中ではあまり注目されない目立たない存在です。しかし、実は教会が世界を大きくし美味しくしているとイエスは語ります。教会自身が大きく美味しくなる必要はありません。少数者であっても、良心的な発信や実践をする(たとえば多文化共生)ときに、世界にとって不可欠の存在となります。逆に塩気をなくす場合、教会は「ファリサイ派のパン種」に堕落してしまうかもしれません(12章1節)。排外主義、内部競争を避けなくていけません。教会が政治権力と癒着してもいけません。
今日の小さな生き方の提案は、神の国が今ここにあることを信じて感謝するということです。泉バプテスト教会はからし種とパン種に似ているということをアーメンと受け取ることです。小さくても枝ぶりの良い寛容な木になりたいものです。小さくても全世界のためになる発信と実践をしていきたいものです。そのために神は世界にわたしたちを派遣し放置(解放)しています。