「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた」(22節)。久しぶりに物語記者ルカは、今イエス一行が何をしている最中かを思い出して書き足しています。ルカ福音書の中間部分と呼ばれる、エルサレムへの長い旅が9章51節から延々と続いていたのでした。それは18章まで続く、場所不詳の旅です。編集者ルカは、この旅の中にさまざまなイエスの言行を並べました。その中にはマタイ福音書にも掲載されている口伝えの教えもあります。「狭い門/戸口から入れ」(24節)や、「後の者が先になり、先の者が後になる」(30節)などは、とても有名な教えだったのでしょう。ルカの描くイエスは、これらを教えながら、ぐるぐると町々村々を巡る旅を続けます。ただしかし、漫然と歩いていたのではなくエルサレムを目指していたのです。
ある意味でイスラエルの民の荒野の旅に似ています。40年の長きに及んだ荒野の旅にも、約束の地という目標が定まっていました。目標があることは大事です。ここでもエルサレムという首都が一行の進むべき目標です。信仰生活も目標を目指して走ることに例えられます(フィリピの信徒への手紙3章14節)。「努める」(24節)と翻訳されている言葉は、パウロが好む「(スポーツ等で)競争する」という意味が強い単語です。ルカは友人パウロの思想に影響されています。イエス一行が真剣に目標を目指す姿が、神の国の模範例なのです。
エルサレムで何が起こったのでしょうか。イエスの十字架・復活・昇天、そして聖霊の降臨・教会の誕生です。当時の東地中海世界全域に散らされ、母語も忘れる程に国際的になったユダヤ人たちが、ペンテコステの巡礼でエルサレムに集まり、福音に触れて3,000人が改宗し、キリスト教会が設立されました。東から西から、北から南から神の国に入ったのでした(使徒言行録2章)。教会は、最初からユダヤ民族主義を乗り越えたユダヤ人たちの集まりでした。だから後に非ユダヤ人たちと共に生きる教会へと成長できたわけです。少なくとも非ユダヤ人であるルカとルカの教会にとっては、そのように理解されていました。エルサレムはイエス一行の目標であり、教会の出発点でもあり、さらなる目標を示す原点ともなります。
ユダヤ民族主義の克服は、ルカ文書全体の大きな主題です。その視点から考えると、マタイ福音書との違いも分かります。25-27節は、マタイ7章21-23節と共通しています。しかし、両者の主張は異なります。マタイは教会員であってもイエスによって否定されることがあると述べています。それに対してルカは、ユダヤ民族主義者が否定されると述べています。教会内部の競争が問題ではなく、神の国である教会の全体としての姿勢が問題となっています。神の国は、この世の国々と競争や葛藤をすべきです。偏狭な民族主義を採るべきか、それともそれを斥けるべきかの競争・葛藤です。
「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」(23節)の問いにイエスは何と答えているでしょうか。少ないか多いかを明確に答えていません。そこが問題ではないからです。「少ない」と答えれば、「ユダヤ人のみが救われる」というユダヤ民族主義に飲み込まれてしまいます。話の結論からすれば、東西南北からより多くの人が到来しているので、「救われる者は多い」と答えているように見えます。もし、狭い戸口から入ることを選ぶ人が多数いるなら、多数の人が救われるということでしょう。その戸口は狭いかもしれませんが、ユダヤ人だけに限られず、すべての人に開かれています。
「狭い戸口」とは「多様性を認めるという考え方」のことです。もはや男も女もない、ギリシャ人もユダヤ人もない、奴隷も自由人もない。さらには大人と子ども、しょうがい者と健常者等も含まれます。今風に言えばリベラリズム(自由主義)です。さまざまな意見が共存しても良いという思想です。日本の政界ではリベラルを「左派・護憲派」と呼びますが、リベラルであることは政治的左右や憲法を改正しないこととは関係ありません。リベラリズムは、民主社会の基礎をなす相互の自由を尊重することです。残念ながら日本社会では競争力が弱く浸透していません。
多様性の承認は「広い考え方」ですが、この思想は世の中に出た途端に、「狭い戸口」(少数派)となります。わたしたちは、容易に「広い戸口/広い道」を選ぼうとし、そこへとなだれ込みがちです。ユダヤ民族主義は代表例です。他にも亜流はさまざま世に満ち溢れています。「日本人は災害時にも礼儀正しい」などと言う時に、罪は戸口でわたしたちを待ち伏せしています。この言い方の裏返しは、「外国人には普段でも礼儀正しくない人が多い」という偏見があるからです。そしてその場合の外国人が、ヨーロッパ系以外の人々を指したり、かつて植民地支配をしていた朝鮮半島・台湾、さらには中国の人々を指したりするのではないでしょうか。このような「狭い考え方」が世間の多数・大きい声のように思えるので、「広い戸口/広い道」に例えられます。
しかし、皮肉なことに「ユダヤ人だけが救われるのだ」「他の民族よりも先にすでに救いの中に入っているのだ」と信じ込む偏狭な民族主義者だけが、広い考え方に基づく神の国から締め出されます。自分たちが先の者として優先的に神の国に入っていると考える人が「わたしはお前たちを知らない。お前たちがどこからの者か」(25・27節直訳)と、神によって追い出されるのです。この「家の主人」の発言は二回繰り返されているように、今日の聖句の鍵です。
新共同訳聖書は、まとめて「お前たちがどこの者か知らない」としていますが、ここはくどく「お前たち」を二回訳出して、批判を表に出したほうが良いでしょう。そして、「どこからの者」という風に「何に由来しているかの起源」を尋ねる趣旨も強く表した方が良いでしょう。「アブラハムの子であること」「ユダヤ人であること」といった民族主義に由来し、そこに依拠していることを批判しているからです。イエスは、ある意味でどこからの者かを知っています。「お前たちは、民族主義に由来しそこに依拠している者だ。そういう者たちとも共に食卓を囲み、こちらの主張を伝えたこともある。しかし、それでもそこに拠って立つ人々とは人格的な関係はない。お前たちを知らない。不公正な者たちはみな離れ去れ」(26-27節)。
「不義」(27節。ギリシャ語アディキア)は法律的概念です。法的な正義が無いことを指します。ここでは神の国のルールに即していないという意味でしょう。神の国は「愛」という「法の支配」があるところです。それは誠実や寛容という言葉でも置き換えられます(ガラテヤの信徒への手紙5章22節)。民族主義は神の国においては、法律違反であり不公正です。
ここでイエスは、アブラハム・イサク・ヤコブ・全ての預言者たちが神の国の中にいることを告げます。神の国のイメージを説明するためです。族長たちと預言者たちが食卓を囲んでいる姿を思い浮かべましょう。この人々が神の国の中にいる理由は、彼ら彼女たちがユダヤ人であるからではありません。アブラハムは、聖書によればメソポタミアのウルという東の果ての町出身者です。一人の妻サラも同郷ですが、もう一人の妻ハガルはエジプト人です。そしてハガルの息子イシュマエルを、アラブ系ムスリムが自分たちの先祖と考えていることは、今日の分断された世界にとって示唆に富みます。アブラハムまで遡れば、宗教的対立や民族的対立は緩和されるはずです。
アブラハムの甥のロトはモアブ人とアンモン人の先祖となります。息子イサクは旅の途中で生まれた「在パレスチナ二世/無国籍人」であり、その妻リベカはアラム人です。在パレスチナ三世のヤコブからイスラエルと呼ばれますが、その妻は全員アラム人です。息子の一人ヨセフの妻はエジプト人です。そしてヤコブの双子の兄エサウはエドム人の先祖です。
ユダヤ人が自分たちの先祖だと思っている族長たちは、ユダヤ人ではありません。想像しましょう。アブラハム、サラ、ハガル、イシュマエル、イサク、リベカ、ヤコブ、レア、ラケル、エサウ、ロトとその娘たち、ヨセフとその妻たちが囲む賑やかな食卓が神の国です。この食卓は、パレスチナから見ると東からも西からも北からも南からも客が来て、飲み食いしている祝宴です。だから初代教会の姿と重なり合うのです。
そして族長と同格の人々として並んでいるのが「全ての預言者たち」です。ここには書物を残した預言者たちもそうでない預言者たちも含まれます。彼らの預言は、概ね国際的でもありました。イスラエル国内向けの言葉だけではなく、諸外国に向けての発言も多く残されています。その意味で国際的です。預言書には警告や威嚇の言葉が多いので、外国への預言にはイスラエル民族主義も強く存在します。その一方で、正にそれだからこそ、外国人にもイスラエル人にも、どんな人にも通じる普遍的な警告や普遍的な慰めもあります。
書物を書かなかった預言者ヨナは「時のしるし」となりえます(11章29節)。イスラエルからアッシリア帝国に赴き、悔い改めた愛国的預言者ヨナも、神の国の食卓にいるとイエスは考えています。ヨナは強烈な民族主義者でした。敵国アッシリア人を憎悪していました。だから、神の派遣命令に背きます。神の命じた通りにアッシリアの首都ニネベの町が悔い改めるよりも、自分が死んで神からの「悔い改めの警告」がニネベに届かないこと、それによってニネベが滅亡しアッシリア帝国に大損害が起こることを望んだのでした。彼は狭い考え方の「広い戸口」を選びましたが、神はヨナを教育的に悔い改めへと導きます。広い考え方の「狭い戸口」に案内したのです。
もしヨナがニネベの人々・家畜たちの命を喜ばない人物であり続けたなら、ヨナも神の国から「外に投げ出され、そこで泣きわめいて歯ぎしりする」羽目に陥っていたでしょう(28節)。イエスが「全ての預言者たち」と告げているのだから、ヨナがこの食卓に居ると考えなくてはなりません。後の者であるニネベの人々が先に悔い改め・救われ、先の者であるイスラエル人ヨナが後に悔い改め・救われたのです。ヨナは、民族主義に拠って立つ「死んだような生き方」から救われ、よみがえらされて永遠の命を得ました。
敵国で民族主義から救い出されたヨナの姿は、初代教会の姿と重なります。非寛容な人が寛容な人へと変換される。イエス・キリストの大きな愛に触れ、無条件の赦しと贖いを受け取る。自分の不誠実と非寛容がイエスを十字架に追いやったと知る。しかしイエスの誠実と寛容がこのような罪すらも受け入れていることを知る。敵をも愛する無条件の愛を知って、今まで公正だと思って歩いていた広い道が不公正だと知る。新たに狭い戸口をくぐり、全ての人に開かれた食卓を囲む。その祝宴には復活の喜びが溢れています。わたしたちはイエス・キリストを知るという知識の絶大な価値のために、民族主義に拠って立つことを糞土のように思えるようになったのです(フィリピ3章4-11節)。
今日の小さな生き方の提案は、キリストから与えられる自由、教会が保つ公正に立つということです。世間では少数の道ですが、「日本人」/「外国人」という区分で人を判断しないということです。多様な文化・考え方を尊重する寛容な精神。キリストを基にしてリベラリズムを生きましょう。