アドベント(待降節)の第3週です。本日は「一枚の銀貨を探す女性の譬え話」です。ルカにしかありません。聖書本文に従えば、この女性は神の譬えです。一枚の銀貨は罪人の譬えです。しかし、そのような単純な当てはめは、次週の放蕩息子の譬え話にはぴったりですが、一枚の銀貨を探す女性の譬え話には必ずしもうまく当てはまりません。様々なヒントを手繰り寄せながら、この譬えが示す事柄について理解を深めていきたいと思います。
「あるいは」(8節)という言葉があります。この言葉は、百匹の羊の譬え話と十枚の銀貨の譬え話が、同じような意味を持つ譬え話であることを示しています。「AあるいはB」という場合、AとBは交換可能なものだからです。言い換えれば、この二つの譬え話は一組のものです。放蕩息子の譬え話の冒頭には「あるいは」が無いので11節以下はかなり別の内容であり、「あるいは」で結ばれている1-7節と8-10節は、似たような譬え話です。
どの点が似ているかと言えば、「罪人が悔い改めていない」という点です。7節・10節で罪人の悔い改めが力説されていますが、譬え話の言わんとするところと論理的にはつながりません。なぜなら羊も銀貨も、罪を持っているかどうかすら怪しいのです。羊も銀貨も自分の責任で「見失った羊/無くした銀貨(=滅び行く存在)」となったわけではありません。
また仮に罪を持っていたとしても、羊も銀貨も罪を悔い改めることができません。実際羊も銀貨も何らの心情も吐露せず、何らの行動も起こしていません。悔い改めていないのです。譬え話の主眼は、あくまで探し出す者(羊の所有者と銀貨の所有者)の努力にあります。探される側の羊や銀貨の努力にはない。放蕩息子と決定的に異なる点です。羊がいなくなったのは管理者の責任です。銀貨の場合はさらにそうです。女性は自分で家のどこかに落としたのです。
銀貨の譬えは理解困難の度合いを深めます。女性が近所の人々と共に喜ぶという場面があまりにも大げさであり身勝手だからです。一般に、自分の持ち物の置き場を忘れて、大騒ぎをして家中を掃除して、自力で見つけた場合に、近所の人とパーティーを開くでしょうか。わたしたちは、この理解困難な壁を乗り越える努力をしなくてはいけません。この点にも、わたしたちが共感しにくさを持っているからです。本日の譬え話にも先週の徴税人ザアカイ(一匹の羊)と同じように、実例が潜んでいるのではないでしょうか。ルカ福音書と使徒言行録からヒントを手繰り寄せていきましょう。
似たような一組の譬え話として、からし種の譬え話とパン種の譬え話があります(13章18-21節)。この一組の「神の国」の譬え話は、本日の一組の「神」の譬え話と重なります。徴税人を探す神は、汚れたとみなされた鳥も巣を作ることができる木の種を蒔いた男性と同じ方でしょう。また、銀貨を探す神は、パン種を三サトンの粉に混ぜいれた女性と同じ方でしょう。屋外と屋内、男女という点でも、この二組の譬え話は「造り」がよく似ています。
神を、銀貨を探す女性に譬える話はルカにしかありません。ルカとルカの教会は、男女間の均衡について敏感だったと思います。ヨハネ福音書ほどではありませんが、ルカ福音書も女性たちが活躍する福音書です。ヨハネの母エリサベト、イエスの母マリアは、クリスマス物語の主役です(1-2章)。「預言者アンナ」(ヘブライ名はハンナ。サムエルの母の名前に由来。2章36節)、「罪深い女性」(7章36節)、「マグダラのマリア」「ヨハナ」「スサンナ」(8章2-3節)、「マルタとマリア姉妹」(10章38節以下)、「イエスを祝福する女性」(11章27節、23章29節)、「腰の曲がった女性」(13章10節)など、ルカ福音書にしか紹介されていない女性たちの逸話があります。
さらに使徒言行録にまで視野を広げれば、「やもめたち」(使徒言行録6章1節)、「タビタ」(同9章36節)、「リディア」(同16章14節)、「ギリシャ人の高い身分の女性たち」(同17章12節)、「プリスキラ」(同18章2節)など、多くの女性教会指導者たちが存在したことが知られています。ルカは記述に男女の均衡を心がけています。その方が教会の現実を映し出しているからです。昔も今も女性たちは教会の多数派です。教会には男も女も居たのです。だからルカは、男性羊飼いの譬え話に、銀貨を探す女性の譬え話を接続させました。両者を交換可能な教えとしました。それによって、教会という神の国をより良く表せると考えたのでしょう。それによって、神がどのような方であるのかを、より良く表せると考えたのでしょう。教会・神について、ユダヤ人・成人・男性ばかりを想定してはいけないのです。
特にルカにとって重要な女性指導者は、ルカと同じマケドニア地方フィリピという町の教会創始者のリディアです。わたしはこの二人が夫婦であったと想定することも可能だと思います。彼女は紫布を商う商人であり、古代社会では珍しく、職業を持って経済的自立を果たしている女性でした。本日の譬え話の核はイエスが語った部分です(主に8節)。そこにルカの脚色が付け加わります。ルカの脚色部分にリディアが透けて見えます。紫布商人リディアと、銀貨を探す女性を重ね合わせて読み解きましょう。
「ドラクメ」という単位は新約聖書の中で、ここにしか用いられません。イエス自身が語った時には、おそらく「デナリオン」という単位だったと思います(10章35節参照)。こちらはローマ帝国が使っていたラテン語由来の貨幣単位です(アサリオン、クァドランスも)。ドラクメの銀の使用量はほぼデナリオンと同じだったので同じ価値です。労働者の一日分の賃金と言われるので、5,000円から10,000円ぐらいの価値でしょうか。
デナリオンと異なり、ドラクメはギリシャ語由来の貨幣単位です。ルカやリディア、パウロにとって馴染みが深いのはドラクメです。リディアが貿易・取引を行う際に使う貨幣はドラクメです。また自分が雇っている労働者に支払う時にリディアは一ドラクメを支給していたことでしょう。イエスが語った時点、また、ルカが聞いた時点では、デナリオンだったものを、ルカがあえてドラクメにこの箇所だけ変えたということです。そこには意図があります。「リディアを見よ」という指示です。彼女の中に、銀貨を探す女性として描かれる神の像があるからです。それは十人の労働者に責任もってその日の賃金を契約通りに支払う経営者としての神の姿です(マタイ福音書20章1-16節参照)。
リディアが登場するのは使徒言行録16章11-40節です(新約245ページ)。彼女はフィリピという町に住むギリシャ人女性です。おそらくルカであろう「一人のマケドニア人」(同16章9節)は、フィリピの町医者でした。リディアとルカとその仲間たちは、町の門の外にある「祈りの場所」で、ユダヤ人たちが信じる神礼拝を安息日ごとに行っていました(同13節)。「神をあがめる(礼拝する)」(同14節)という表現は、ユダヤ教について好意的である非ユダヤ人/ユダヤ教への改宗者に用いられます。
リディアの群れはユダヤ人の会堂で安息日礼拝を行っていません。おそらく非ユダヤ人である/女性であるという理由で会堂礼拝から排除されたのでしょう。それでも正典宗教・唯一神教であるユダヤ教に魅力を感じて、町の門の外で礼拝を続け、理想の礼拝の姿を模索していたのです。リディアの群れは自意識としてはユダヤ教左派でありナザレ派(キリスト教)にも共感していました。ただし悩みがありました。「ギリシャ人でも女性でも奴隷でも構わない」との根拠が欲しかったのです。多数派のユダヤ民族主義教会が苦しめていました。
そんな時パウロの噂を聞きました。紫布は大変貴重な染料で染められた布なので、リディアの仕事は国際的な貿易であったと推測されます。その仕事柄、地中海世界の広い情報が彼女のもとには集められます。小アジア半島で活動するパウロのキリスト教グループは非ユダヤ人にも、女性たちにも開かれた礼拝と教会形成をしているのだそうです(ガラテヤの信徒への手紙3章28節)。リディアは情報網を駆使してパウロを探します。ルカはリディアから派遣され、パウロを招く係としてトロアスという小アジア半島の町までパウロを迎えに行ったのでしょう。つまり、パウロという一ドラクメ銀貨を探し出したのはリディアという女性です。
この発見は大きなものでした。パウロの聖書解釈を聞き、リディアとその家に属する者たち、奴隷や労働者たちもすべて大喜びで、バプテスマを受けます(同15節)。リディアは信頼される経営者だったので、家の構成員すべてがバプテスマを受けました。フィリピの群れはパウロ系列の教会となりました。
その後、パウロは投獄され罪人とされました(同23節)。しかし翌日突然「高官」がパウロを釈放します(同35節)。パウロが戻った場所はリディアの家だったと記されています(40節)。つまりリディアがパウロの保釈人・身元引受人・贖い主となったのです。牢獄で滅び行く存在となったパウロを、再びリディアが探し出して見出したのでした。リディアの資金力・高官への影響力が釈放させたのだと思います。リディアは贖い主キリストと重なります。
かつてパウロはキリスト者を見つけ出して投獄していました。その後キリストから見つけ出され悔い改め(同9章)、バルナバからも見つけ出され(同11章)、さらにまたリディアからも見つけ出され保釈される身となったのです。保釈金という贖ない代を支払われ救われたパウロは、この恵みに応えて喜んで伝道活動をギリシャで展開します。資金面の支援をリディアがしました。小アジア半島で行き詰まっていたパウロ系列の教会はギリシャで勢力を拡大します。
一枚の銀貨は、かつてファリサイ派だったけれども、ナザレ派に回心し、適宜活躍の場を与えられたパウロの譬えではないでしょうか。そして九枚の銀貨は、ユダヤ教の中で力を振るっていたファリサイ派の譬えです。ファリサイ派のラベルの銀貨が裏返されてキリスト印の銀貨になったのです。
あるいは一枚の銀貨は、当初少数派だったパウロ系列の教会の譬えであり、九枚の銀貨は多数派だったユダヤ民族主義教会の譬えです。家の中はユダヤ人社会です。家の外は全世界です。ユダヤ人社会に、非ユダヤ人も女性たちも奴隷も生き生きと活躍する少数派教会が生まれることは、「友達や近所の女たちを呼び集めて」喜ばれるべき出来事です(9節)。
一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの前で喜びがある(10節)。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」(2章10節)。主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい(フィリピの信徒への手紙4章4節)。天使・女性・友人の喜びは、福音を聞いたフィリピ教会およびリディアに見出されたパウロの雰囲気を伝えています。
今日の小さな生き方の提案は、「神は必ずわたしたちを見つけ出す」と信じることです。わたしたちは歴史の中で置き忘れられがちな小さな存在です。しかし、神はさまざまな人を用いて、わたしたちに生きる場所を与えます。なぜかといえば、わたしたちの苦労の原因は、置き忘れた神にあるからです。わたしたちも誰かを探し求める神の仕事に用いられるかもしれません。そのような者たちは「あらゆる一枚の銀貨」の再発見を共に喜べる交わりを作れます。