本日の聖句は二つに分けられます。前半は、1節冒頭「つまずきは避けられない。」から3節の前半「あなたがたも気をつけなさい。」までです。後半は、3節の後半「もし兄弟が罪を犯したら、」から、4節の終わり「赦しなさい。」までです。1・2節の裁きと、3・4節の赦しの落差は大きいものです。しかし、「悔い改め」が、その架け橋となっています(3・4節)。
「つまずき」「悔い改め」「赦し」は、今でもよく使う教会用語です。教会の中で「つまずいた」と言う場合、「誰かの言動によって誰かが傷ついたので、教会に通うのが嫌になった」という事態を指します。傷ついた当事者が教会に来ない理由として、「わたしは、あの人につまずきました」などと言うのが、正しい用法です。この「つまずき」という表現の由来が、本日の箇所であると推測できます。厳密には、マルコ9章42節が大元で、それをこの箇所に編纂したのがルカ教会という過程です。
「つまずき」はスカンダロンというギリシャ語です(英語scandalの語源)。さらに遡るとヘブライ語ではミクショルという単語で、「よろめかせること」という意味です。セム語圏において何によってよろめかせても当てはまる行為だったのでしょうけれども、ギリシャ語圏への翻訳段階にきて、石や段差によってよろめかせる行為に絞られています。こうして、つまずきは工夫次第では取り除くことができるものとなりました。隣人の前にある石を予め除いておけば、隣人は石につまずかないし、よろめかないからです。また逆に、つまずきは故意に起こすこともできます。隣人の前にわざと石を置けば良いからです。
つまずきは、教会の歴史の中では異端と関係付けられました。つまり「正統」の信仰を持つ人が、「異端」の信仰を持つ人の影響を受けて「正統」の信仰に疑問を持つ場合に、「つまずいた」と言ったのです。本日の箇所の「つまずきをもたらす者」(1-2節)は、「異端」と理解されてきた解釈史を持ちます。
バプテスト教会の先祖には、再洗礼派と呼ばれる欧州大陸の宗教改革運動があります。1517年にルターの始めた運動に刺激され、その直後1520年代から同時多発的にスイスやドイツ、オランダ等で始まった動きです。そしてこの再洗礼派は、カトリックにもプロテスタントにも「異端」とみなされ、弾圧されました。重い石を結び付けられて、川に投げ込まれ、処刑された人々がいたと伝えられています。その処刑方法は、本日の箇所に由来します。「そのような者は、これらの小さな者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである」(2節)。この場合、「あなたがたも気をつけなさい」(3節)という警告は、「あなたがたも『異端』にならないように気をつけなさい」という意味を持ちます。
再洗礼派からの影響を受けて、17世紀に英国で誕生したバプテスト教会も、プロテスタントの一支流である英国国教会から異端視され弾圧されました。現代に生きるバプテストは、この歴史を重んじ、人を「異端」とみなすことの危険性について敏感でなくてはいけません。当時のヨーロッパにおいて「異端」とされることは、市民権を奪われ社会的に抹殺されることを意味しました。政教一致した社会が、個々人の人権を奪うことを容易にしていたのです。人権の中の人権と呼ばれているのは、内心の自由、思想信条の自由です。
この負の歴史自体が、すべての人の前にあるつまずきの石です。「宗教は怖い」と言われる場合、信仰者の自己絶対化が批判されています。教会に身を置く者として、教会の「外」にいるすべての人をつまずかせないように気をつけたいと思います。日本国憲法は、信教の自由をすべての人に保障しています。何を信じても何も信じなくても構いません。この自由が保障されている世界においては、教会内の「正統/異端」、教会外の宗教間の違い、「信じる/信じない」の違いは、多様性として認められるべきです。自分を「正しい宗教の・正統な教派の・保守本流の教会」の一員と任じて、それ以外を認めないかのような振る舞いこそ、小さな者の一人をつまずかせます。「エホバの証人・モルモン教は異端です」という言い方は、再洗礼派を殺した側の言い方なのです。
では隣人をつまずかせる行為とは何でしょうか。広くとって、故意に人の弱みに付け込む行為と解します。例えば、目が見えない人の前に転ばせる目的で障害物を置くことです。社会で小さくされている人の弱みに付け込んだ意地悪です。破壊的カルトの問題性はここにあります。統一教会は異端だから問題なのではなく、苦悩する人々を洗脳し搾取しているから問題なのです。教会の内外で、人間社会全般で、このような故意の悪行を許してはいけません。
本日の聖句によれば、意図しない場合の悪行はある程度許容されているように思えます。悪気なく、結果として他人の弱いところを痛めてしまうことは、日常にしばしばあるでしょう。「諸々のつまずきが来ないということは、ありえない」(1節直訳)とある通りです。不可抗力や、偶然の結果、小さくされている人に不利益なことを起こすことはありえます。教会の人々の振る舞いは、結果として誰かを傷つけても故意の悪行ではないことが多いように思えます。
今までの説明を引き受けると、教会で「わたしは、あの人につまずきました」と言える場合というのは、かなり限定されます。その人が悪意をもって、自分の弱点を悪用して、自分を陥れている場合です。そのような不正を見過ごしてはいけません。力関係を利用した人権侵害も、そこに含まれます。
故意の悪行という、隣人をつまずかせる行為は、「赦し」とどのような関係にあるのでしょうか。2節は、悪行への懲罰として死刑を是認していますが、3節後半はそれに反対しています。「赦せ」と説くからです。古代社会において、この赦しの命令は驚くべき先進的な教えです。そして文脈上、後半が結論でしょうから、「1-4節は死刑に反対している」と理解する方が素直な読み方です。死刑廃止の国や地域が増えてきていることとも重なります。
ただし、きちんとした裁きや、赦される場合の条件の明示も必要とされています。故意の悪行を見過ごすことは無責任だからです。言い換えれば、人間同士の赦しには必ず条件が付きます。無条件の赦しはイエス・キリストだけのものです。十字架の赦しはすでに完了しているので、わたしたちはただ「アーメン」と受け取るだけで良いのです。わたしたちへの裁き・懲罰はありません。しかし、人間の社会においては(教会含む)、罪は必ず裁かれなくてはならないし、赦しは必ず条件を伴うものなのです。故意の悪行である罪を放置すると、小さくされている人の権利が益々損なわれてしまうからです。それによって社会全体に対する信頼が損なわれてしまいます。
社会/教会の責任としての裁きは、「叱ること」です(3節)。しかも愛情をもって、同じ人間仲間として叱ることです。レビ記19章17節には次のような法律が書いてあります。「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない」。誰かの故意の悪行を叱らない場合、黙認したとみなされ、その人の罪を負ってしまうという考えがここにあります。だから、悪いことを悪いと伝えなくてはいけません。そしてこの聖句は、「復讐してはならない」と続きます。殺人の報復としての死刑に反対していると理解できます。さらに続けて、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」とあります(同18節)。愛情をもって、悪から救い出すべく、故意の悪行をした人に、「わざと悪いことをするのは良くない」と教えることが、刑務所その他の更生プログラムで必要です。
悪を教わった人には悔い改めることが求められています(3・4節)。ここは完全に条件節・「もし~ならば」なので、悔い改めが赦しの条件です。先週の譬え話でも示唆されていたとおり、どんな人も生きている間に悔い改める可能性を持っています。罪を犯しても、その度に悔い改めをするならば、必ず赦されます。このことを基本としながら、少し細かく見ていきましょう。
「悔い改める」というギリシャ語メタノオーは、ヘブライ語シューブの翻訳語です。シューブは、「立ち帰る」という意味で、しばしば預言者たちが腐敗しているイスラエル社会に向けて語った言葉です。「神に立ち帰れ。荒野の原点に立ち帰れ」と。というのも、「罪/悪行」を表すヘブライ語ペシャアという名詞は、「背反」「背中を向ける行為」として考えられたからです。神に背を向けて離れるところから、踵を中心に「回れ右」をして立ち帰る行為が悔い改めです。放蕩息子やザアカイがなした悔い改めは、心の中の動きだけではなく、実際の行為を伴っています。
過ちを犯した人に対する態度としては、「社会に戻ってこい。あなたの居場所を作っておいたから」という呼びかけが正しいのでしょう。自分が当事者ではない場合、比較的冷静に理解し呼びかけることができます。
次に、自分が故意の悪行の被害者である場合です。その場合に、悔い改めの内実が真に問われます。「一日に七回」(4節)というのはかなり極端な事例ですが、犯罪と犯罪の間の長さを問わないということと、犯罪の種類と回数の多さを問わないという趣旨でしょう。いつでも・いくつでも、その都度悔い改めるならその都度赦せという教えです。実に七度を七十倍することになったとしても、赦せと(マタイ18章21-22節)。一体、悪行を繰り返す人物の悔い改めが真実のものかどうかを、誰がどのように判断するべきなのでしょうか。
「あなたのところに来るなら」(4節)とあります。この言葉を、ヘブライ語訳新約聖書は、「あなたへと顔を向ける」としています。ヘブライ語にはこのような身体的表現が多いのです。顔と顔とを合わせて、目と目を合わせて、きちんと謝罪をしたという含みが現れています。形式的な謝罪ではなく、人格的な交わりがここにはあります。「ごめんなさい。わたしは悔い改めます。あなたへの背反をやめ賠償をします。あなたと向き合う存在になります」との言葉が理想です。その悔い改めの真贋を判断するのは、加害者と面と向き合う被害者です。「慰安婦問題」の基本もここにあります。
現代日本社会の量刑のバランスについて考えさせる聖句でもあります。死刑が最も重い刑罰であることが良いのでしょうか。たとえば懲役200年のような量刑とし、受刑者の悔い改め態度に応じて、半減させるなどの方が分かりやすいのではないでしょうか。再犯率も高い(悔い改めにくい)性暴力の量刑が、例えば強姦罪で3年以上の禁固刑で妥当なのでしょうか。出所後の教育や監視、世話が必要なのかもしれません。もちろん、受刑期間中の教育(叱ること)も本当に有効に働いているのかどうかの吟味も必要です。
今日の小さな生き方の提案は、「わたしはつまずきました」から、「わたしは悔い改めます」への転換です。教会の中であろうが外であろうが、自らの加害者性を自覚して生きることです。無条件の赦しによって、己の罪を知る。そうすれば、過ちを犯した人に共感し連帯できます。SNS等で匿名の「社会的制裁」を、知人でもない芸能人に加えることは愚かな行為です。スキャンダル報道が人々をよろめかせ誤導しています。むしろ、罪人仲間として、本心から更生したい人のために祈ることが大切です。報復的に考えないで、社会の亀裂を修復するべく祈ることが求められています。