しなければならないこと ルカによる福音書17章5-10節 2018年2月4日礼拝説教

1節は「イエスは、弟子たちに言われた」とあり、56節は「使徒たちが・・・言った時、主は言われた」とあります。「イエス」「主」(冠詞付き、ホ・キュリオス)、「弟子」「使徒」と、言い方が変わっています。「主」は、イエスが「復活の主」として信仰された後の時代の言葉です。また「使徒」は、弟子が復活の主の代理人として遣わされた後の時代の言葉です。キリスト教会の誕生後の言葉遣いをすることで、ルカ福音書は510節が、教会に狙いを定めた教えであることを示しています。

ちなみに、ルカはある種の時代錯誤を覚悟で、福音書において弟子を「使徒」としばしば呼びます。使徒言行録を念頭においているからでしょう。

教会において起こりがちな問題の第一点は、信仰の大小の比較です。教会員同士の比べ合いや、教会指導者同士の競い合いがありえます。「わたしどもの信仰を増してください」(5節)という願いは、「信仰というものの総量は増えたり減ったりするものだ」ということを前提にしています。少ないよりも多い方が優れているので、どうにかして増やしたい。隣の人よりも多くしてほしい。そして、できれば主イエスの両隣に座りたいと、使徒たちは願っています。

主は使徒たちの間違えを正します。信仰というものは、他人と大小の比較をするものではなく、むしろ、有るか/無いか、持っているか/持っていないかという問題です。「もし、あなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」(6節)。信仰は小さくても構いません。わたしたちがそれを持っているかどうかだけが問題です。

信仰には1か0かしかありえません。わたしたちが、互いの信仰を比較する場合には、0.10.6を比較しているようなものです。小数点以下は、すべて切り上げられるというルールを知らないで、わたしたちは不毛な競争や、意味のない比較において傲慢になったり卑下したりしています。神の国のルールを知らなくてはいけません。どんなに小さな願い・祈りも、神は必ず一つの信仰として取り扱ってくださいます。その反対に、どんなに大言壮語に聞こえる大きな願い・祈りも、神は必ず一つの信仰として取り扱ってくださいます。これが神の目にある正しさであり、聖書の示す「公正」というものです。

「信仰によって大きなものを海の中に移動させることができる」という教えは、マルコ福音書112223節を改変したものです。マルコ福音書では、海の中に移動させられるものは桑の木ではなく「山」です。そして「からし種」は登場しません。マルコが保存する元来の教えの方が、山・海との対応が滑らかです。それに比べて、ルカ版の教えは、少し不自然さが増しています。「桑の木」が海の中に植え直され、海底に根を張っている姿は、想像することが難しいものです。しかし正にこの不自然さに、ルカ福音書を編み出したルカ教会の主張が込められています。

海に投げ込まれる桑の木は、バプテスマの暗示ではないかと推測します。からし種は、131819節にも登場しました。「神の国は、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る」(1319節)。これはルカ教会の描く「理想の教会像」です。汚れたとされている烏も、それ以外の鳥と一緒に宿ることができる木です。烏は、ルカ自身も含む「非ユダヤ人」のことを指します。そして、教会とは場所ではなく人です。一人一人によってできる交わりです。一人一人の心が耕され、小さなからし種が蒔かれ、多様な人々を受け入れるからし種の木になれば、その集合体である教会もからし種の木になりえます。

そのためには罪を覚え、罪を悔い改め、一度死ななくてはいけません。「海」は西アジアにおいては不気味な存在の象徴です。怪物がそこから現れたり、「海(ヤム)」という名前の神話上の怪物がいたりするほどです。海は死を象徴します。立派な桑の木としての誇りを捨て、罪人にしか過ぎないという謙虚さをもって、さらにこの罪人でさえも赦すイエスに対する小さな信仰をもって、わたしたちはバプテスマを受けます。全身が水に浸されることによって、一度死ぬということを象徴します。そして、水から上げられることによって、よみがえらされ永遠の命を与えられたということを象徴します。

悔い改めて、低みに立って見直す時に、海底に根を張るという不思議な経験をします。どのような絶望が周りにあっても、からし種として成長するという奇跡です。驚くべきことに、絶望の海を底から突き破り、からし種は海面から先に枝を張るのです。信者を取り巻く絶望は、信仰を持つことでなくなるわけではありません。そうではなく、絶望はあるままに、希望によって海が裂かれます。それは天地創造の一日目の出来事でもあります。闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた「光あれ」(創世記123節)。

710節は、奴隷制度を大前提にしているという問題をはらんでいます。この奴隷の主人は酷な人物です。当時の常識として、家の中で労働をする奴隷と、家の外で労働をする奴隷は別人です。畑を耕す奴隷・羊を飼う奴隷は(7節)、別に夕食の用意や給仕(8節)をしなくて良いのです。家事労働は、それ専門の奴隷のなすべき務めです。二倍の仕事をさせておいて、一言も感謝しない主人は傲岸不遜な人物に思えます。イエスは、この奴隷の主人に譬えられているのでしょうか。

ルカ福音書は以前に「奴隷に給仕をする主人の譬え話」を記載していました(1237節)。そして、ルカ福音書は最後の晩餐の場面で、イエスが給仕役として使徒たちに仕えたということを語ります(222627節)。ここに、本日の箇所を読み解く鍵があります。

第一に、710節の奴隷はイエス・キリストを指す譬えです。この場合、奴隷の主人は神を指します。そして、第二に、この奴隷はイエス・キリストの代理人としての使徒を指す譬えです。この場合、奴隷の主人はイエス・キリストを指します。第一と第二は決して順番を逆にできません。

キリストはこの世界で二倍以上の働きをして、奴隷のようにこの世界に仕えました。外に向かっては困っている人々の世話をし、病気をいやし、悪霊を追い出し、福音を告げました。「神はあなたを愛している」と罪人と呼ばれていた人々に語りかけました。罪人の隣人となったのです。内に向かっては弟子たちを諭し、給仕をしました。「自分の罪を自覚し、互いに仕え合いなさい」と教えました。

ナザレのイエスの八面六臂の働きぶりは、枕する暇も場所もないぐらいです。例えて言えば、夜明けと共に外に出て畑仕事をし、家に帰ってから料理をして家族に給仕をして洗い物をし、さらに夜に羊たちの番をするために夜通し野原に出て野宿をするようなものです。それら全ては「愛するということ」を体で示す生活でした。

その愛の人生の最後に、十字架で殺されました。それは罪を教え、罪を救うためです。愛を教えたことでイエスは誰からも感謝されませんでした。人からも神からも。むしろ世界はイエスを締め出しました。弟子たちも、イエスを殺す側に回りました。ガリラヤで愛を実践した神の子に対して、神は「すぐ来て食事の席に着きなさい」(7節)と言って歓待しませんでした。むしろ神は「夕食の用意をしてくれ」(8節)と言うのです。さらなる「給仕」として、最後の晩餐で裏切り者の弟子たちに仕えることを要求し、十字架で全世界にパンとぶどう酒を分けることを要求しました。

十字架は正しく愛を実行した人を、世界中が殺すという世界の罪を教えます。このことは神の子が飼い葉桶に寝かされなければならなかったことと軌を一にしています。人間の社会に神の子は居場所がありません。罪は愛を締め出そうとします。十字架は、神の子が神に命じられた「しなければならないこと」(10節)でした。神の子が自分のことを後回しにして、世界全体の罪を救うために、自分の命を棄てたのです。それは神の子の持つ永遠の命を配るという愛でした。この死を身代わりと信じて受け入れる時に、人は罪人のまま義と認められるのです。バプテスマはそれを象徴する儀式です。愛は罪を乗り越えます。

神の奴隷であるイエスによって、罪の奴隷である弟子たちが赦されて、聖霊を与えられ使徒とさせられました。

第二の視点に移りましょう。キリストが奴隷であるということを基礎にして、その似姿として、「使徒」もまた710節における奴隷です。そして全ての信徒は、キリストから遣わされた使徒です。イエス・キリストが受けたバプテスマは十字架です(マルコ1038節)。キリストに倣って、わたしたちはバプテスマを受けて使徒とされ、仕える道・十字架の道を学びます。

「しなければならないこと」(10節)には、「借金を返す義務」という動詞が使われています。主の祈りにおいても罪は「負い目(借金)」と表現されていました(114節)。教会に連なる者は、神に対するわたしたちの莫大な負い目を、イエス・キリストが完全に肩代わりしてくれたということを知っています。罪は神への途方もない額の借金に譬えられます(74143節)。バプテスマを受けた者の歩みは、罪を贖ったキリストへの感謝の応答です。

わたしたちはキリストに倣う仕える行為を、教会の内外で行います。それは誰かから名誉を受けるために行うものではありません。もし、そうであれば栄光を受けない時に、その道を止めてしまうでしょう。愛するということ、正義を求めることは、ただキリストからいただいたものの一部をお返しするだけのことです。だから、わたしたちは常に「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言い続けるのです。これは低みに登る旅です。十字架に至る道です。

710節は破壊的カルトの論法でもあるので注意が必要です。「見える教祖」が本日の聖句を盾に威張る時に、教会もまたカルト化します。5節と7節で、イエスは同じ人たちに語りかけています。「使徒たち」が「あなたがた」です。ここは使徒を教会の指導者と理解しましょう。指導的立場の人々が仕えるという逆転の実践によって、教会のカルト化は防げます。高みに立ちがちな人が仕えることによって、全ての者が低みに立って見直すことができるのです。教会においては、指導的立場の人が真っ先に奴隷として給仕しなくてはいけません。教会の中で「いちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」(2226節)。役員を執事と呼ぶ所以です。

今日の小さな生き方の提案は、からし種一粒の信仰を持つことです。つまり、イエス・キリストが十字架でわたしたちの罪をすでに完全に帳消しにしたという出来事を信じて受け入れることです。そうすれば人生が楽になります。絶望があるままに希望に生きることができます。この愛を受けて、この愛に応えて、少しでも低みを目指して生きることです。信仰・希望・愛に生きることです。