「むしろ戦争を希望する」という言葉が若者の口から出たのは、「就職氷河期」や「失われた10年」と呼ばれた頃でしょう。「あまりにも現実の生活が苦しいので、戦争にでもなってほしい。そうすれば状況がリセットされる。ある種の平等が自分の身にも起こる。その方がましだ」という趣旨だったと記憶しています。結論に対しては異論があると思います。世界恐慌後・日中戦争直前の日本の世相と似ているからです。しかし、若者たちの息苦しさ・生きにくさを切り取った当事者自身の、真実味がある言葉だとも思います。
上記の「戦争待望論」は「神の国」への待望と似ています。神の国とは理想郷のことです。イエスの生きていた当時のユダヤ人たち全般は、神の国という理想郷が現実の世界に来ること、そして現実の世界が崩壊して世界全体が神の国になることを信じていました。神の国への待望は、「終末思想」とも呼ばれます。現実の生活が苦しければ苦しいほど、神の国を待ち望む気持ちは強くなります。ユダヤ人たちは、ユダヤ人のためのメシアが来て神の国が打ち立てられた時に、ユダヤ人がメシアと共に全世界を支配するとも信じていました。現代の戦争待望論と民族主義が合体したようなものです。
このような神の国がいつ来るのかは、当時のユダヤ人の大きな関心事でした。古代のこと、90%以上の人が貧しかったし、ましてやユダヤはローマ帝国の植民地だったからです。二重、三重の税金に人々は苦しんでいました。「あなたがたが、人の子の日々(メシアが支配する期間)を一日だけでも見たいと望む時が来る」とイエスは、自分の弟子たちに言っています(22節)。この言葉は、イエスの弟子たちも普通の古代ユダヤ人として、神の国と、神の国を樹立するユダヤ民族の救い主を、今か今かと待ち望んでいたことを示しています。
「ファリサイ派」は、当時のユダヤ教の教派です。他にもサドカイ派、ゼロタイ派(熱心党)、エッセネ派(ヨハネ教団もその一種)などの教派がありました。イエスの弟子たちは「ナザレ派」と呼ばれていました。ファリサイ派は、神の国が来るときの前触れが何であるのか、証拠となる前兆を観察することに興味がありました。たとえば、マルコ福音書8章11節に次のように書いてあります。「ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた」。ここに「しるし」とあるのが証拠となる前兆のことです。ファリサイ派が観察好きであることが分かります。
「神の国はいつ来るのか」というファリサイ派の質問は、どのような前兆が天にあるのかという質問を含んでいます(20節)。そこで、イエスは「観察するような仕方では、神の国は来ない」と答えたのです。
「ここにある」「あそこにある」と言えるものでもない。実に神の国はあなたがたの間にあるのだ(21節)。「間」とは、どのような意味でしょうか。ファリサイ派の間にすでに神の国・理想郷があるということを、わたしたちはどのように考えたら良いのでしょうか。特に、ファリサイ派がイエスを十字架で殺した首謀者のグループでもあったので(マルコ3章6節、ルカ11章53節)、立ち止まって考えなくてはいけません。
「ボストンの奇跡」という言葉を最近知りました。ボストンの犯罪率を79%も下げた牧師の話です。その人は20数年間の夜回り巡回活動で、路上にいる人々の犯罪行動を抑止したのだそうです。どのようにして人々に接したのかという質問に対して、その牧師の答えが印象的でした。一つは「お説教するな、むしろ聴け」というもの。犯罪に走るかもしれない人々に接するときの心構えです。
もう一つは、「神話を信じるな、対立させられるな」というものでした。「白人警官が黒人青年を射殺した。やはり白人は敵だ。暴動を起こして抵抗しろという台本は、作り出された神話だ。対立構造を信じるな。むしろ現実は、貧しくさせられ教育されていない白人ほど黒人への憎悪に煽られ、この対立構造からどちらも抜け出せないでいるという一つの世界だ。」
この言葉は、いろいろな場面で応用できる、キリスト教信仰に根付いた普遍的な教えのように思います。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」(エフェソの信徒への手紙2章14節)とあるとおりです。
イエスは対立相手のファリサイ派の内側に神の国があると言い抜きました。「間」(エントス)は、「手の届く範囲」という意味です。ファリサイ派は神の国をその手の中に持っているというのです。そして、敵であるファリサイ派が持っているのなら、当然イエスの仲間も持っているはずです。ナザレ派とファリサイ派の間にも神の国はあるはずです。イエスは、「世界の終わりに実現するユダヤ人のための理想郷」というように神の国を考えていません。日常で、わたしたちの手の届く範囲で既にあるものとして神の国を考えています。それは現代の言葉で言えば、「民主的な社会」というものです。民主社会の特徴は、論敵の言論の自由を徹底的に保障することにあります。
イエスが信じていたことは、対立構造は神話に過ぎないということです。むしろ意見の違いがある方が良いとさえ考えていたと思います。今日の箇所もファリサイ派はイエスの手の届く範囲に居て、イエスと論争をしています。イエスは激しくファリサイ派を批判しました。その一方でイエスはファリサイ派の自宅に招かれることもあります(7章36節、11章37節)。イエスの弟子となったファリサイ派もいました(23章51節)。ナザレ派との対話は、ファリサイ派の中で議論を巻き起こします。その対話の中で、すべての人が、「自分が何者か」「自分が一つの世界の中でどの位置に居るのか」「自分の隣人が誰か」を知っていきます。この過程・この作業が神の国です。
神の国という理想郷は、意見の対立する人々同士の話し合いという長時間の合意形成の中にあります。天の前兆なんぞ現れるはずがありません。一人一人の過去から今にまで引きずっている葛藤が神の国の一部だからです。どんな人も、「あの人とは意見が違う」と思うという経験を持っているはずです。その自覚が、神の国というからし種です。あえて言えば、その人が意見の違いがあったことに気づいたときが、神の国実現の「しるし」です。自分の手元に神の国があることに気づくことは、突然頭の中にひらめくので、天空に閃く稲光のようなものです(24節)。「ここにある」「あそこにある」と実しやかに他人から言われるものでもありません(23節)。自分が手元にあることに気づくだけのことだからです。あの人とは意見が違う、けれども、面と向かって意見を交わすことができる、このような人々の中に神の国はあります。
「わたしと対立意見を交わすあなたたちファリサイ派の中に、神の国はすでに来ている。これこそ、理想郷に匹敵する驚きなのだ。敵を愛するという奇跡が、今起こっているからだ。この奇跡に気づけ。」
ところが対立構造という神話が生きている社会は、イエスを邪魔者と考えます。非暴力の話し合いによる合意形成に意味があると考える人は、暴力的な支配をしたがる人々にとって危険な要因です。人々に神話を植え付け、人々の対立を煽りたい人。人々が不毛な対立をしている隙に全体を支配し操作したい人は、対話を嫌います。支配欲に満ちた者のことが「今の時代の者たち」(25節)と否定的に呼ばれています。別訳は「この種族の者たち」です。この類の民主社会の基本を踏みにじる人は、イエスを排斥し十字架で虐殺します(25節)。この行為は、論敵との対話の拒絶であり、論敵の抹殺であり、神の国に入ることの拒否であり、神の国を手の内から投げ捨てることです。
「この種族の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子もこの種族の者たちに対してしるしとなる」(11章29-30節)。ヨナという旧約聖書の人物は、敵国ニネベで対話をしかけた人です。そしてニネベの住民は、意見を変えてヨナの言葉に従ったのでした。ニネベの人々は神の国をつかみ直しました。これは成功事例です。
しかし、イエスの場合はうまくいきませんでした。イエスの十字架は、この種族の者たちが神の国を棄てるということの「しるし(証拠)」となりました。結局ファリサイ派の多数は、イエス殺害の側に回りました。イエスの側近の弟子たちも、一人は裏切り(イスカリオテのユダ)、一人は否定し(シモン・ペトロ)、その他のすべての男性弟子は逃げました。支配欲や、暴力による脅迫に、すべての者は屈したのでした。
十字架は民主社会の挫折に過ぎないのでしょうか。暴力的解決は話し合いよりも勝るのでしょうか。これに対して先ほど読んだエフェソの手紙の続きが答えとなります。「こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(エフェソ2章15-16節)。
十字架は逆転装置です。十字架上のイエスが、「あなたたちの罪を赦す」と言い、敵意を手放した時に平和が実現しました(23章34節)。罪の身代わりとして、敵の罪をすべて背負って死ぬ。その代わりに敵には自分の命を与える。十字架と復活は、話し合いという解決を踏みにじる者たちをも包み込んでしまう赦しです。ファリサイ派の人がなぜ殺す側に回ったのか、その人生をイエスは知っています。満足な教育を受けていない白人の若い警官が黒人を射殺してしまう姿や、息苦しさのはけ口として在日外国人にヘイトスピーチをする日本人の姿が重なります。ユダがなぜ銀貨30枚で裏切ったのか。ペトロがなぜ卑劣にもイエスとの関係を否定したのか。それぞれの人生をイエスは知っていて、自分の敵をも包み込みます。
この赦しを受けると、人は謙虚になります。赦されると素直に罪を認めることができるようになります。それが救いです。「あなたはだめだ」と言われ続けると何も聞かなくなり、何がだめかもわからなくなります。しかし、「だめかもしれないあなたも、そのままで良い」と言われると、何がだめなのかが分かります。自分の罪、イエスを殺す「この種族の者たち」であることを自覚できます。それは自分の主張が正しくないかもしれないという可能性を常に持つことです。罪あるままに罪から救われると、人に神の子の品位が与えられます。
論敵の自由な話し合いという民主社会を成り立たせるには、この十字架による無条件の赦しと救いが必要だと思います。赦されたわたしたちは十字架のもとで謙虚に、自由に異なる意見を交わし合うことができるのです。それによって分断神話という敵意が滅ぼされます。手元にある神の国をつかみ直すことは、実に十字架の救いによるものです。
今日の小さな生き方の提案は、無条件の赦しを受け入れ、救われるということです。キリストはあなたの罪のために殺され、その罪を背負って苦しまれました。アーメンと受け取る時、わたしたちはどんな相手をも対話相手として認めることができます。あなたの論敵のためにもキリストは死なれたからです。憎悪・敵意を滅ぼしましょう。自力ではなく十字架によって滅ぼしましょう。