先週、理想郷は敵を愛する者たちの手元にあるということを申し上げました。神の国は「あそこにある」「ここにある」というものではありません。到来の前兆もありません。「どこか」という場所や、「いつか」という時期は、問題ではありません。すでに始まっている論敵との対話の中にあるからです。「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ」(37節)という言葉も、同じような意味合いでしょう。「どこ」と問うことに意味はありません。
さらに先週は、キリストの苦難は敵を愛することの究極の形であるとも言いました。自分を殺しつつある者たちを赦し、その人々の罪を肩代わりし、その人々に命を配るためにキリストは殺されていったからです。もちろん暴力被害者に加害者を許せというのは酷です。「キリストのように赦せ」と、他人に強要してはいけません。これは第一の注意です。無条件の赦しはイエス一人だけができるからです。ただし、キリスト教の根幹に贖罪信仰(敵を愛するほどの無条件の赦し)があることは事実です。この信をはずすこともできません。
本日はさらに一歩進めていきます。自分を殺しつつある者の代わりの死というだけではなく、世界全体の苦難をキリストが背負って、ただ一人十字架で虐殺されたと捉えるのです。キリストの苦難は、不条理な苦しみに満ちた世界の「しるし(証拠となる前触れ)」です。
2月21日(灰の水曜日)から、レント(四旬節)に入りました。イースター(復活祭)までの40日を覚える季節です。ナザレのイエスが経験した苦難の日々を覚えながら、今日の聖句も読み解いていきます。「自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである」(33節)。この言葉を、キリストの十字架と復活と重ねて捉え直します。
もちろん、「キリストのように誰かのために死ね」と強要することはヤスクニ思想(国家のために命を捧げよ)と同じですから、避けるべきです。キリストだけが隣人のために命を捧げることができます。第二の注意です。ただし、キリスト教の根幹に「利他的な生き方」の勧めがあることも事実です。自ら隣人となっていく実践も大切にしなくてはいけません。
二つの注意点を踏まえたうえで、なおわたしたちは、キリストの苦難を積極的に捉え直し、今も続く世界全体の苦しみと重ね合わせて読み解いていきます。それは七回目の「3月11日」を前にするわたしたちの備えともなるでしょう。なぜあの人は連れて行かれ、なぜわたしは残されているのか(34・35節)。この宗教的な問いに揺さぶられながら、誠実に生きる必要があります。
旧約聖書の物語が二つ引用されています。ノアの洪水物語と(26-27節)、ロトの脱出物語です(28-32節)。それぞれは創世記の6-9章、19章に描かれています。二つの物語には共通する部分があります。
共通点の一つ目は天災です。ノアの物語においては大雨による洪水が全世界を滅ぼし、ロトの物語においては火山噴火か隕石落下(天からの火と硫黄)がソドムとゴモラの町を滅ぼします。二つ目は天災が前触れもなく起こったことです。本日の箇所でも人々は普段通りの日常生活を送っていたことが強調されています(27・28節)。三つ目はノアとその家族、ロトとその家族が「正しい人々」であり、救い出された少数者だったということです。逆から言えば、両家族以外の周囲の人々はみな「無法者(暴力的な人々)」であり、全て滅ぼされてしまったということでもあります。
このような天災とそこからの救出劇が、「人の子(=イエス)」が現れる日に起こるというのです(26・30節)。キリストの十字架と復活において、ノアとロトの物語が再現されたでしょうか。同じことが起こっているかどうか、違うとすれば何なのかを確認してみましょう。
キリストが十字架で殺される時、昼の十二時ごろから三時まで全地は暗くなったと言われます(23章43節)。日食です。マタイ福音書は地震が起こったことも記しています(マタイ福音書27章51節)。十字架は天変地異・天災を伴っています。一つ目の特徴に対応しています。
次に、イエスの十字架は人々の日常生活とは無関係に起こっています。突然の深夜の裁判で、あっという間に死刑判決が下り、次の日には処刑されたので当たり前です。イエスを殺したい人々の殺意と策略は長期間に渡るものではありました。しかし、一般の人々にとっては寝耳に水の出来事でした。これも二つ目の特徴に対応しています。イエスの十字架の日、人々は普段とまったく変わらない日常を過ごしていたのでした。
三つ目は両者が異なる点です。誰が滅ぼされ、誰が救い出されたのでしょうか。奇妙なことにこの日食と地震では誰も死ぬことはありませんでした。むしろ反対に、よみがえらされる者たちまでいました(同52節)。殺されたのは三人だけです。イエスと、その左右の十字架に磔にされた死刑囚たちです。十字架で滅ぼされた人数三人は、救い出されたロトと二人の娘たちの合計人数三人と対応しています。多数の死と少数の救いだった旧約聖書の物語が、少数の死と多数の救いという十字架の物語に取って変わられています。
暴力的な多数派が正しい少数派を苦しめる図は一緒です。しかし結論が逆です。三人の者たちは「罪人」として処刑されます。イエス以外の二人も、政治犯として処刑されているので、実際に罪を犯した人たちだったかは疑問です。ローマ帝国やユダヤ植民地政府にとって都合が悪かっただけの二人かもしれません。三人とも冤罪である可能性があります。もしもそうであれば、「正しい三人が殺され、正しくない多数者が殺されない」という逆転が起こっています。正しい人を殺した「より罪深い者たち」には、一切危害が加えられていないからです。十字架は、ノア・ロトの物語の裏返しです。
前兆なしの天災という同じようなことが起こりながら、結論が異なっています。旧約聖書は、新約聖書の大切な前提です。両者に共通することがらは多くあります。ただし、それと同時に、旧約聖書の物語が変容させられる場合もあります。それによって、新約聖書は旧約聖書の欠点を乗り越えていきます。イエス・キリストの十字架・復活は、その最たる出来事です。
ノアとロトの物語は、水戸黄門と似ています。勧善懲悪だからです。悪い者は滅びて良いという考えに基づいて、必ず正義は勝つのです。しかし、このような考え方は、いくつもの欠点を持っています。例えば、現実の世界は善悪がはっきりしない場合が多いものです。正義を振りかざすことが、自己絶対化に陥ってしまえば、結局は同じ穴のむじなです。自分を神の位置に置くことは正しくありません。正しい人が誰かは、神だけが知っています。
逆に正しい人が負けてしまう場合も現実には多くあります。悪人が権力を持っているとき、その可能性がさらに高くなります。世の中は勧善懲悪と正反対である場合が多いのです。水戸黄門的論法が喜ばれる理由は、逆説的ながら、日常生活では勧善懲悪が実現していないことの証しでもあります。テレビ観劇で、わたしたちは思い通りにならない日常の鬱屈を晴らしています。
また、仮に100%悪い人がいたとしても、その人は滅んでも良いのでしょうか。すべての人には悔い改める可能性があります。だから、刑務所その他の施設では加害者更生の教育を施します。悪い人を殺して良いというのは短絡です。殺人を犯した人への報復だとしても殺し返す必要はありません。加害者にも人権があるからです。むしろ生きて賠償をすべきなのです。
さらに天災などの場合には善悪も関係なく人々は苦難に遭います。天災を「神の裁き」「天罰」が下ったと考えることは、被災して亡くなった人々に失礼な言い方です。ノアやロトの物語は、天災を神の裁きと理解しています。ここに、乗り越えられるべき神学的な根本課題(旧約聖書の欠点)があります。
津波被害に遭った人にとり、34-35節のような別離は現実に起こった悲劇です。その時、わたしたちはその人々に何の言葉をかけることができるでしょうか。ノアやロトの物語を根拠にして、「あなたの家族は、あなたよりも罪が重かったので津波に呑み込まれた」と言えるでしょうか。ただでさえ自分自身を責めて、「なぜわたしが生き残り、あの人が死んだのか」と嘆いている人に向かって、そんなことは到底言えません。
人の子イエスの十字架と神の子キリストの復活は、不条理の苦しみにあえぐわたしたちに救いの道を示しています。十字架のイエスは、不条理の苦しみにあえぐ人々の苦しみを今も共に担い、共に苦しんでおられます。なぜなら、イエスは洪水で溺れ死ぬ側の立場に身を置き、噴火で焼き殺される側の立場に身を置かれたからです。ノアやロトのように少数の救われた者たちに入れられることをイエスは拒みました。「あの人は神に呪われたから処刑されたのだ」という悪口を身に受け、誹謗中傷・名誉毀損・罵詈雑言・嘲笑を浴びながら、イエスは殺されていきました。人間の尊厳をすべて剥ぎ取られた人と共にイエスは十字架に架かり続けています。
「なぜわたしにこの苦しみがあるのか、わたしの神はなぜわたしを棄てたのか」という問いに対して、イエスは同じように天に向かって叫びながら、私たち人の子らとの連帯を示します。イエスが共に軛を負ってくれるので、人生の重荷は少し軽くなります。苦難がどのような意味を持つのかはわたしたちには謎のままです。ただわたしたちが知っているのは、わたしたちの苦難をイエスが共に担っていることです。十字架から降りなかったイエスは、人の子としての苦しみをわたしたちと共有したメシアです。
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(23章42-43節)。これは十字架上の政治犯二人の会話です。同じ苦しみを共有した二人は、殺された後どこに行ったのでしょうか。ペトロの手紙一3章17-22節をご覧下さい(432ページ)。
聖書によれば十字架で殺された三人は、その日、ノアの洪水で亡くなった人々と共にいます。ソドムの住民もそこにいたことでしょう。キリストはそこで福音を宣教しています。それは共に福音に与かり、神の子キリストと共に天に上るためです。不条理の苦しみに遭った人々と共に復活するためです。復活のキリストは弟子たち・わたしたちの心の中に常にいます。それと同様に、不条理の死をとげた人々もわたしたちの心の中に常によみがえらされています。
今日の小さな生き方の提案は、十字架・復活の信仰によって不条理の苦難、特に親しい者との別離に耐えるということです。苦しみには理由はありません。真の悲しみは慰めを拒否します。しかし理由のない苦しみをイエスは共に担い、わたしたちを見捨てません。必ず地上においてか、あるいは死んだ後か、共によみがえらせてくださいます。この信仰をもって生きることをお勧めいたします。十字架のイエスを主と信じる時にわたしたち信者の生き方が方向づけられます。苦しむ人と同じ目線で黙って苦しみを担うという方向です。