7年前の今日、東日本大震災が起こりました。地震と津波の被害からの回復は完全になされるものではありません。原状復帰というのはありえないことがらです。そして、地震・津波に引き続く東京電力福島第一原子力発電所の大事故も未だに収束していません。こちらも現状復帰どころか、放射性物質による汚染は、10万年・100万年単位でしか薄まらない類の話です。プルトニウム239の半減期は2.4万年なのですから。
「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」(ローマの信徒への手紙8章22節)。人間が考えついた核分裂のエネルギーを利用することは、その他の被造物にも大きな災厄をもたらしています。罪というものの実態がここにあります。わたしたちは人間の罪というものを個人的なことがらに留めることはできません。人間だけが地球規模の災厄を引き起こす被造物だからです。3月11日は、現代人を特に謙虚にさせる日です。科学は万能ではないし、制御できない技術は持つべきではないのです。「神さま、罪人のわたしを憐れんでください」(13節)と、胸を打って頭を垂れなくてはならない日です。
罪というものには広がりがあります。わたしたちが犯す諸々の罪の原因は世界中に散らばっています。科学技術も、国境も、民族の違いも、その他中立的なものごとでさえも、危険な神話と結びつくと罪となりえます。そして罪の結果の大災厄は世界中に広がるものなのです。治療として最低限許される被曝が何であるのか、そして、それ以外の許されざる被曝・被爆をどうすればゼロにできるのか、世界中の知恵と合意形成が必要です。性悪説の一つである「罪」の教理は、その議論・公論に役立つはずです。
さて本日の箇所は、ルカ福音書の「中間部分(なかなかエルサレムに到着しない長い旅)」の締めくくりに当たります。ルカは9章51節から18章14節までの8章以上にわたって、マルコ福音書から離れて独自の話を多く盛り込んでいました。ルカにしか収められていない有名な譬え話の多くは、この中間部分に含まれています。例えば、「良いサマリア人の譬え話」(10章)、「放蕩息子の譬え話」(15章)、「金持ちとラザロの譬え話」(16章)、「やもめと裁判官の譬え話」(18章)など、ルカ福音書にしかない貴重な譬え話です。その最後を飾るのが、本日の「ファリサイ派と徴税人の譬え話」です。
振り返ってみるとこれらの譬え話には共通点があります。誰かと誰かを比べるという視点が共通しています。そして必ず大逆転が用意されています。ファリサイ派と徴税人の比較に、ルカ福音書とルカの教会の言いたいことが詰まっています。「ファリサイ派のようにならないように、むしろ徴税人のようになるように」という逆転の主張が、明確にあります。では、ファリサイ派に譬えられている人々とはどのような人なのでしょうか。逆に徴税人に譬えられている人々とはどのような人なのでしょうか。
ファリサイ派については、譬え話の導入で答えが出ています。「自分は正しい人だとうぬぼれて、他人を見下している人々」(9節)が、ファリサイ派に似ているのです。こういう人はわたしたちの身の回りにもいるかもしれません。およそ付き合いにくい人です。しかしここで、わたしたちは誤解をしてはいけません。「ファリサイ派は人々に随分嫌われていたのではないか」と思い込むべきではありません。事実として、ファリサイ派はユダヤ社会の庶民に尊敬されていました。なぜなら、彼らが有言実行だったからです。
彼らは献金や断食にしろ、自分で決めたことは自分で実行していました。彼らは、旧約聖書の律法を解釈し公表します。たとえば、申命記14章22節には次のようにあります(旧約304ページ)。「あなたは毎年畑に種を蒔いて得る収穫物の中から、必ず十分の一を取り分けねばならない」。ファリサイ派の人々の中で激しい論争があったとされる箇所です。一体どの収穫物(穀物)の種類までが、この十分の一税の対象となるかを、彼らは真剣に議論していたのだそうです。そして、彼らは一旦自分の解釈を定めたら、その解釈に忠実に実行しました。そこで民衆からの尊敬を得ていたのです。ちなみに、断食については、本日の箇所のとおり週に二回行っており、しかもその曜日は月曜日と木曜日であったそうです(12節)。
この情報を基にして考えると、譬え話に登場するファリサイ派男性は、もっとも広い解釈を引き受けているようです。「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」(12節)と豪語しているからです。「全収入」の中には、すべての穀物が入ることでしょう。この行為は、民衆からの尊敬を集めるに足るものです。自分の聖書解釈に忠実に生きているからです。いささか漫画的な描かれ方ですが、ファリサイ派男性は「ご出世もされ、世間の覚えもよく、堂々とした立派な人物」の典型例です。
イエスの視点と評価は世間と異なります。この人物はだめな人の典型例だというのです。「義とされて家に帰ったのは・・・ファリサイ派の人ではない。誰でも高ぶる者は低くされ」る(14節)。一体何が問題なのでしょうか。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している」(9節)ことが、決定的にだめなのです。自分が神であるから、そして人の子同士の仲間に共感も尊重もしていないから、ファリサイ派男性はだめな典型例とされています。どんなに敬虔な見かけをしても、中身は神を愛していないし隣人を愛していません。
「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った」(11節)とあります。「心の中で」の直訳は、「自分に向かって」です。田川建三は「自分のために」と訳します。自己中心がここで批判されています。罪というものは、自分だけを見ることであり、自分自身の益になることしか考えないし行動しないことです。彼は「神様」と呼びかけていますが、実は自分に向かって、他人についての失礼な発言をしているだけです。
「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」(11節)。共に礼拝している隣人をこき下ろす内容を、公言はできません。もしかすると口から出た言葉はきれいな祈りだったかもしれません。しかし、心の中ではこのような醜い考えがあったということです。徴税人のようではないことを感謝するとは、何と侮蔑と差別に満ちた失礼な考えでしょうか。
自己中心と、他人との比較は案外仲良しです。この両者が合わさると偽善が生まれます。人よりも良く見られたいからであり、人よりも頻繁に「わたしを見て欲しい」と思っているからです。「仮に口から外に出なくても、心の中で思っただけで駄目である。口からきれいな言葉が出ていればなおのこと偽善である」と、イエスは批判しています。どんなに信念に固く立って有言実行をしていても、隣人なき自己実現は自己中心という罪です。
ファリサイ派の対極に徴税人がいます。彼はユダヤ人でありながら、職業柄ローマ人と接触がありました。ローマ帝国が作った道路を通るユダヤ人から通行税を徴収し、ユダヤの貨幣をローマの貨幣に両替してローマ帝国に収めるという仕事です。ユダヤ人はユダヤ人以外の人を「無割礼の人々」と呼び、「宗教的に汚れている」とみなしていました。また、宗教的汚れというものは、伝染すると考えられていました。つまりローマ人の汚れはユダヤ人徴税人にうつると考えられていたのです。旧約聖書を拡張した「口伝律法」によれば、「徴税人の家に入った人は一日中汚れる」と規定されていました。徴税人から訪問者に伝染する汚れの効果は、24時間だというわけです。
ローマ帝国の統治の仕方は狡猾であり、「分割して統治せよ」という格言に忠実です。ユダヤ社会は分断させられていました。徴税人は民衆からまったく人気がなく、むしろ侮蔑・差別されていました。宗教的には汚れており、政治的には「売国奴(ローマ帝国の支配を手伝う者)」です。この点、イエスが徴税人の仲間であることは、衝撃的な事実です。それは、ルカ福音書が重んじる事実でもあります。
「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』」(13節)。彼は遠くにたちます。隣人がいないからです。隣人から拒絶されているからです。また、彼は下を向いて祈ります。当時の祈りは立って両手を上げて上を見る姿でなされました(イザヤ書1章12・15節)。ファリサイ派男性はそうしていたことでしょう。徴税人は、天を仰ぐ祈りの習慣を破っています。この仕種は、神が上にいるのか、それとも下にいるのかという問いに答えています。神は「いと高き方」なのか、それとも神は十字架の低みにおられる方なのか。
神さまは、この世界で評価され肩で風を切って歩いている人々、この世界で力を奮っている人々、傲慢に高ぶる人々、見下して隣人を蹴落とす人々と共に高いところにおられるのでしょうか(1章51-53節、14章11節)。見かけが良い人と共におられるのでしょうか。見かけを見て、心を見ない神なのでしょうか。そうではありません。人は外観を見ますが神は心を見られます。
徴税人は真実・信実の祈りをただ神に捧げています。美辞麗句はありません。他人との比較もありません。自慢もまったくありません。不言実行ということでさえありません。「神さま、わたしに・罪人に、宥められるということがあるように」(13節、直訳風私訳)。彼はただ一人神の前に立っています。
彼は唯一正しい神の前に、自分が裁かれるということをよく知っています。義人はいない、一人もいないからです。彼なりに徴税人という職業を選ばざるをえない事情があったと思います。好きで嫌われる人はいないからです。やむを得ず選んだ職業によって(悪事もしたかもしれませんが)、社会から完全に疎外されたのです。それでも社会で生きていかなくてはなりません。
ローマ帝国の軍事支配のない社会という理想の一方で、徴税人は苦しい現実を生きなくてはいけません。分断構造の多い世の中で、わたしたちは人生をどのように生きるべきでしょうか。どうすれば幸せになれるのでしょうか。
罪というものの深み・自分の闇を知ることです。どんな人も逆立ちをして生きているという事実を受け入れることです。そしてそれをさらけ出すことができる方を信じることです。徴税人には神がいました。わたしたちのどん底にはイエス・キリストという十字架の低みを経験された神の子がいます。「もうダメだ」と嘆いて良い。嘆く相手を信じればさらに良い。その祈りはファリサイ派の祈りより信実です。あなたの「ダメ」は、キリストが十字架で代わりに背負った「ダメ」であり、それによって宥めは完了しています。
今日の小さな生き方の提案は、イエス・キリストによる救いを受け入れることです。罪を知るという謙虚な生き方をお勧めします。私の罪がすでに十字架によって肩代わりされ、正しい神の怒りが宥められていることを信じると、人生の重荷が軽くなります。救われた者は共通の低みの中で共に呻くのです。