人生にはどうしてもしなくてはいけないことがあると思います。他人から見ると、「別にあなたが今それをしなくても良いのでは」と思える行為でも、せずにはおれない、自分が今ここでどうしてもしなくてはいけないと思いつめて、力を込めてしてしまうことがあります。それを教会では、「召し」(神からの呼びかけや押し出し。英語のcalling)と呼びます。「神の必然」とも言えます。人が持つ「やる気」や、人々が体験する「偶然の出会い」を、キリスト者は神の導く必然と捉えます。この考え方の積極性を今日は宣伝いたします。
イエスという救い主(メシア/キリスト)は、召しを受けて行動した人です。家族は反対して、「別にあなたがしなくても良い」と引き止めたのですが、どうしてもせずにおられなく、仕事を止めてエルサレムへの旅に出ました。神の国を形づくり、十字架で殺され、三日目によみがえらされるためです。イエスは神の必然に導かれています。
エリコという町は、首都エルサレムから東北東に約20kmに位置する町です。古代人はすべて徒歩で旅をします。20kmは時速5kmで4時間あれば到着することができる距離です。エリコに夕方に着いて一泊すると、エルサレムに向かうためにはちょうど良いという距離感です。早朝エリコを出れば、午後エルサレムで過ごせるでしょう。だから、イエスはエリコの町に宿泊するつもりで立ち寄っています。そしておそらく、最初からザアカイという人の家に泊まるつもりでいたのです。ここに神の必然があります。
「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(5節)。直訳は、「今日わたしがあなたの家に泊まることは義務である」です。二人は初対面のはずですが、その出会いは偶然ではなく必然です。イエスは何が何でもザアカイの家に泊まりたいと無性に思いつめていました。そしてザアカイもイエスを泊まらせなくてはならなかったのです。二人は神の必然に生きています。では、その必然について突っ込んで考えていきましょう。
「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(10節)。「人の子」という言葉は、イエスの一人称です。「人類」という意味があります。強い連帯感をもって神の子イエスは、自分のことを「同じ人間仲間」と呼びます。イエスは、失われたものを捜して救うために、自分の活動をしていると言います。失われたものとは、人間社会の中で置き去りにされ、肩身の狭い暮らしをしている人のことです。わたしたちはすでに15章で、失われたものの事例を三つ読みました。100匹の羊の群れの中の、道に迷った1匹の羊や、10枚の銀貨のうちの、紛失した1枚の銀貨や、二人の息子のうちの家から出た弟息子が、失われたものです。
ザアカイという人は人間社会の中で自分の尊厳が失われています。だから、救い主イエスに捜され救われなくてはなりません。神から命じられたイエスの活動の目的が、失われたものを捜して救うことにあるので、失われたものであるザアカイの家にイエスは行かなくてはいけません。
ザアカイの状況について説明をいたしましょう。彼はユダヤ人男性です。職業は徴税人の頭。かなりの金持ちです(2節)。聖書はあまり人の容貌を紹介しない本ですが、めずらしく彼は「背が低かった」(3節)と言われています。
ただしこの文は、主語を「彼」としかしていません。イエスの背が低かったかもしれません。それでも群衆に遮られて見ることができないという状況になるので、文脈上問題はないのです。横道ですが、背が低いとなるとイエスの印象はかなり変わります。「金髪青い目、やせ型で背が高く、端正な顔立ちのJesus」が本当の姿かどうかは、今や分かりません。そのようなイエス像は、植民地主義から生じた虚像かもしれないのです。わたしたちは無意識のうちにアジアよりも西欧の方が優れていると感じがちです。「背の低い、筋肉隆々で小太り、野生味のある顔立ちのヨシュア」で、何が問題となるのでしょうか。
ともかくザアカイが失われたものであることは、彼の身長ではなく彼の職業に関わりがあります。ユダヤ社会では徴税人という職業は忌み嫌われていました。非ユダヤ人であり、支配者であるローマ人と日常的に接触するからです。ユダヤ人は非ユダヤ人を宗教的に汚れた存在として軽蔑していました。同じ人の子という地平に立てないのです。そして汚れは物を通して伝播します。
ローマ人は土木工事の天才です。地中海世界全体に敷石による道路を敷設し、陸上交通の便を良くしました。すべての道はローマに通じるのです。そしてその建築費用を捻出するために通行税を徴収しました。新しくローマ帝国に併合されたユダヤにも道路が作られ、その道路建設のための通行税が課せられます。
ユダヤ社会に新しい職業が生まれます。通行税を取り立てる徴税人です。徴税人はユダヤの貨幣で通行税を取り立て、それをローマの貨幣に両替してローマ帝国に収めます。ローマ人が触った汚れが、徴税人に貨幣を通じて伝播すると考えられました。こうして徴税人は宗教的な理由で差別されます。当時の口伝律法によれば、「徴税人の家に入ったものは一日中汚れる」という規定があったとされます。
ザアカイは「徴税人の頭」と呼ばれています。一般の徴税人はさほど生活に余裕があるわけではなかったという同時代の資料もあります。「規定以上のものを取り立てる」(3章13節)行為も、一般の徴税人が貧しさゆえに行いがちな悪事でしょう。ザアカイが金持ちだった理由は、彼が徴税人たちの「頭」であったことにあります。徴税人の統括責任者であるということは最も憎まれるということです。「罪深い男」(7節)という悪口は、「徴税人の中の徴税人」という意味でしょう。徴税人の頭は宗教的な意味で最も汚れている「罪人の頭」とみなされていました。誰もやりたがらない仕事です。そこで、ユダヤ人の植民地政府から高い報酬が支払われていたと思われます。
しばしば、「ザアカイは法外の税金を巻き上げて、差額を自分の懐に入れていた。それだから金持ちになった」という推測がなされがちです。しかし、聖書本文はそこまで語っていません。「誰かから何かだまし取っていたら」(8節)は、もしもの話なので、別に実話と考えなくても良い。実話であれば、四倍返しをしなくてはいけません。それではザアカイでさえ破産します。実際、「だまし取る」はやや強めの意訳です。
宗教的な意味では公然と差別される、非常に有能な高級官僚。このような形で彼は人間社会から失われていました。すべての金持ちが、金持ちであるという単純な理由で幸せなのでしょうか。必ずしもそうではありません。現実は複雑です。ここに鋭い洞察があります。
ユダヤ社会の一員であるザアカイの家にはユダヤ人が来ません。唯一の例外は、部下である徴税人です。彼は頭ですから同等の同僚はいません。彼自身もユダヤ人ですから、非ユダヤ人を家に招くこともしません。同じ目の高さの友人は一人もいません。これは不幸です。このような社会の仕組みの隙間や狭間に置かれた状態を、「失われている」と表現します。どこにも居場所が無い人がいるということです。失われたものの悲しみは、自分の存在の小ささを痛感することにあります。神からも愛されない(宗教的に汚れている)、誰も隣人とはなってくれない。人間の尊厳が奪われている状態です。
ザアカイはナザレのイエスの噂を知っていました。イエスが徴税人を弟子にしたことや、徴税人の家で食事をしたこともあることを聞いていました(5章27-32節)。イエスは一般の徴税人を汚れているとみなしていないようです。では徴税人の頭はどうなのか。ザアカイはイエスがファリサイ派よりも徴税人に肩入れをしている人であることを聞いています(18章9-14節)。ではこのわたしはどうなのか。ザアカイはイエスを見たいと考えます。「イエスとは誰か」(3節、直訳)。
失われたものであるザアカイは必然的に救い主を捜し出そうとします。ここに彼の本心があります。弟息子が父親の家に帰らねばならない必然性と同じです。群衆に遮られてもその熱意は衰えません。ならば先回りして木の上から見れば良い(4節)。多分群衆は意地悪をして遮ったのではありません。徴税人が人ごみに来たら、全ての人は徴税人を避けようとするでしょうから。ザアカイが人ごみを嫌って、いちじく桑の木に登ったのでしょう。そしてザアカイはイエスを見たのでした。
この物語が興味深いのは、ここから捜している人と捜されている人が逆転することです。イエスはいちじく桑の木の下から、ザアカイに声をかけます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日わたしがあなたの家に泊まることは義務である」(5節)。目と目が合って、本当の意味でイエスを見て、ザアカイはイエスが誰であるかが分かりました。イエスは失われたものである自分を捜して救う救い主・メシア・キリストです。
彼が対等の友人から名前を呼びかけられるのは、いつ以来なのでしょうか。彼が自分の家に泊まりたいと言ってもらったのは、いつ以来なのでしょうか。この一言だけで、ザアカイは自分のすべてが神に知られていた・愛されていたことを知りました。この一言だけで、ザアカイはイエスが自分の隣人となってくれたことを知りました。「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」(6節)。
「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」と批判する人々は、イエスが誰であるかを知りません。このような人々が、多くの失われたものを拡大再生産しています。その一方で、ザアカイは神の必然に動かされていきます。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人びとに施します」(8節)。ザアカイの家族はどう思ったのでしょうか。この法外の寄付の申し出を止めたか、それとも勧めたか不明です。いずれにしろ、ザアカイは誰から止められようが、逆にほめられようが、寄付をせずにおれない気持ちになっていました。その理由は、自分の尊厳が回復させられたからです。神に愛されていたことを知り、イエスという友を得たので、嬉しくてしょうがなくなったのです。彼は富を同じ人間仲間と分け合う道へと進まざるをえなくなりました。寄付によって同じように隙間で喘いでいる人の尊厳が回復させられるからです。
ザアカイは仕事を止めません。高給取りのままだし、宗教的汚れたとみなされたままです。しかし決定的に変わりました。彼には居場所ができました。イエスとその仲間たちと共に交わることが彼の居場所です。これからも誰も来ない自宅も、イエスが来たのでそこが彼の居場所です。十字架で殺されよみがえらされたイエスは、いつまでもザアカイの家にいます。その家が教会となっていったからです。「今日、救いがこの家に生じた」(9節、直訳)。
今日の小さな生き方の提案は、ここを自分たちの居場所とすることです。わたしたちは今、必然的にここに居合わせています。失われたという傷を持ち、心の深いところで居場所を求めて集まっています。集まっているようでいて実は集められています。イエスがわたしたち一人ひとりを捜し・救い・その尊厳を回復させます。教会は居場所を提供します。共に福音に与るためです。