主が必要としているので ルカによる福音書19章27-36節 2018年4月29日礼拝説教

「誰からも必要とされていない」という思いは、わたしたちを失望や絶望に陥れます。自分は何のために生まれたのか。この問いは宗教的なものです。わたしたちは自分の存在の意味を常に探求するものだからです。すべて人間は宗教的な存在です。すべての人は誰かから、あるいは何かから必要とされているはずです。そう思わないことにはわたしたちは生きていけないでしょう。

本日の箇所に登場する「子ろば」(30・33・35節)は、そのような人生の問いに対して、一つの答えを出しています。「主がお入り用なのです」(31・34節)という言葉は、わたしたちに生きる力を与えます。

首都エルサレムは目前です。長い旅は終わり、いよいよイエスは「最後の一週間」を過ごすためにエルサレムに入城します。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(9章51節)。エルサレムへの旅はここから始まったのでした。改めて18章31節でエルサレムに向かう意識づけがされ、本日の箇所で実際にエルサレム行きが実行されます。

ルカ福音書と使徒言行録はエルサレムという場所を非常に重んじています。ガリラヤよりもエルサレムを重視しています。十字架・復活だけではなく、そこからイエスは天に昇り(24章50-53節、使徒言行録1章6-11節)、そこに聖霊が降って教会が生まれ(同2章)、そこからキリスト教会が伝播したからです(同8章以下)。何事か問題が起こると、キリスト者はエルサレム教会に集まって解決しようとします(同15章)。エルサレムは世界の中心です。

だからイエスがエルサレムに来ることは、この上なく重要な出来事です。エルサレムにおいて、若くして十字架で処刑されるという苦難がすべての始まりです。ベトファゲという地名、またベタニアという地名は、十字架の苦難を示唆しています(29節)。ベトファゲは「熟していないいちじくの家」という意味、ベタニアは「苦しみの家」という意味だからです。イエスは地上での最後の仕事を仕上げるためにエルサレムに行きます。彼の年齢は34歳から38歳と推定されます。まだまだこれからという歳に殺されていく。十字架で殺されるために生まれ飼い葉桶に寝かされたからです。

イエスは徒歩でエルサレムに入城することもできました。むしろその方が自然です。いつも徒歩だからです。しかしそれではメッセージ性が薄まります。最後のエルサレム入城なのですから、それなりに見せ方が必要です。自分がどのようなメシアなのかを、人びとに示しながらエルサレムに入っていくことが重要です。何しろ二度目はないのですから。イエスは子ろばに目をつけました。子ろばに乗りながらエルサレムに入ることが自分にふさわしいと考えました。なぜろばなのか。また、なぜ子どものろばなのかが問題です。

聖書の中で言葉を発する動物は二つだけです。蛇とろばです。創世記3章には蛇がアダムとエバを唆して善悪の知識の実を食べさせた物語が記されています。ろばが話す場面は民数記22章22-35節です。自分の主人バラムを乗せて道を歩いていたろばは、天使が剣を手にして道に立ちふさがっているのを見ました。バラムには天使が見えません。ろばは、主人を救うために道をそれて畑に行こうとしますが、事態を察知できないバラムはろばを杖で打ちます。そこでろばが口を開くのです。「わたしがあなたに何をしたと言うのですか。三度も打つとは」(29節)。そしてろばはバラムに諄々と説くと、「主はこのとき、バラムの目を開かれた」(31節)。ろばは正しかったのです。

この神話的な物語は何を伝えているのでしょうか。蛇とろばは正反対のことがらの象徴です。言葉を用いるということは両者ともに知恵があるということを意味しています。つまり、知恵の用い方には二通りの仕方があるということを、動物を通して教えているのです。一つは相手を陥れるために用いる悪知恵であり、もう一つは相手を救うために用いる知恵です。一つは相手の上に立って操作し支配しようとする悪知恵ですが、もう一つは相手の下に立ち相手に仕える知恵です。一つは結局相手と自分をともに破滅させていく悪知恵ですが、もう一つは相手の身も自分の身も守る知恵です。一つは積極的に罪を犯すことであり、もう一つは冤罪を被りながら他者の罪を正すことです。イエスがろばを選んだ理由は、自分がろばに似たメシアであることを示すためです。

では子ろばである理由はどこにあるのでしょうか。ろばは平和の象徴です。それに対して馬は戦争の象徴です。さらに子ろばであることによって、平和の意義が前面に出ています。古代において子どもは「戦力にならない存在」だからです。ゼカリヤ書9章9-10節は、馬とろばを対比しています。

ルカは飼い葉桶に寝かされた赤ん坊のイエスが平和の象徴だと記しました(2章6-14節)。古代教会の伝承によれば、メシアを探して牛とろばが馬小屋に来たと言われています(イザヤ書1章3節も参照)。かつて大人のろばが赤ん坊のメシアを探し当てたように、今や大人となったメシアが子ろばを探し当てます。どちらも平和の象徴です。両者を交差させることで意義が増幅します。

イエスが子ろばを選んだことは、自分自身が平和を打ち立てるメシアであることを示すためです。義憤に駆られる神と罪人である人間との平和、人間同士の平和、人間と他の被造物との平和。これらを成し遂げるために神の子の十字架が必要でした。エルサレム入城には、どうしても子ろばが必要です。

イエスは子ろばに乗るために二人の弟子を派遣します。なぜ二人なのかの理由は多分「一頭の子ろば」という個を引き立たせるためでしょう。子ろばの「持ち主たち」が複数であることも同じ理由です(33節)。このことはわたしたちがイエスから個人として尊重されていることを示唆しています。すべての人は「ザアカイよ」と、固有の名前で呼びかけられるべき大切な一人なのです。

「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いてきなさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい」(30-31節)。

人間がだれも乗ったことのない子ろばには、何か肉体的な弱さがあったかもしれません。あるいは、余りにも幼すぎる子ろばだったのかもしれません。「役立たず」と罵られ馬鹿にされている人の象徴です。そして子ろばはつながれています。その建物の所有者が、子ろばをも所有しているということです。子ろばは誰かに支配されています。それと同時に所有者によって保護されています。野生のろばにはいたずらができても、だれかの持ち物であるろばには、それはできません。この子ろばは複数の所有者に共有されているようです(33節)。これはさまざまなこの世の誘惑に支配されている人の象徴です。この世のルールに守られているので楽な生き方でもあります。「奴隷の自由」です。

イエスから遣わされた弟子は、つながれている子ろばの綱をほどきます。ほどく(ルオー)は解放するという意味の言葉です。子ろばは軽蔑されながら何も期待されず責任を負わされません。子ろばは守られていながら反面好きなことは何も許されないでさまざまな所有者に縛られていました。イエスは弟子たちを用いて、この所有関係を変えます。

「主がお入り用なのです」(31・34節)は、次のようにも訳せます。「彼の持ち主が必要を持っている」。こうすれば、33節の「彼の持ち主たち」と対応します。同じキュリオス(主人)という単語が用いられている語呂合わせに重きを置いた解釈/翻訳です。形式的な持ち主たちに用いられずにくすぶっていた子ろばが、縛りから解き放たれ真の持ち主のもとで活き活きと用いられる経過がここに描かれています。これが解放であり救いです。

弟子たちのしたことは盗みです。ろばは十戒にも明記されている、貪ってはならない、隣人の所有物の代表例です(出エジプト記20章17節)。この後だれも返していないので、イエスはこのろばを所有したのでしょう。不思議なことに、弟子たちは律法違反の命令に抵抗を示しません。また元来の持ち主たちも抵抗しないことです。だれも「自分たちのものだ」との当然の主張をしません。キリストによる解放をだれも邪魔できないのです。

真の所有者の必要が最優先されます。さきほど申し上げた理由でイエスはエルサレム入城のために、子ろばを必要としていました。おそらくは慣れない仕方でよろよろと歩く、その子ろばが必要でした。イエスに尊重され必要とされる時に、子ろばの個性が最も光り輝きます。子ろばの持つ弱さ・従順さと知恵や、子ろばの放つ平和のイメージが、イエスにとって役立ちます。

ところでろばにはもう一つの教えが込められています。イエスの十字架を神との平和を打ち立てるための犠牲の死と信じること(贖罪信仰)は、犠牲祭儀の伝統に基づいています。しかし、ろばは例外です。初子であっても犠牲に捧げられません(出34章10節)。労働の観点からもろばは優遇されています。安息日は牛とろばにも適用されます。礼拝のために休んで良いのです。しばしば並んで列挙される牛とろばですが、両者を同じ軛につなぐことは禁じられます(申命記22章10節)。より小さいろばに対する保護が趣旨です。言い換えれば、ろばは「個」として尊重されています。

ここには十字架のキリストに贖われた信者たちの生き方が写しだされています。誰かの、または何かの犠牲になる必要もありません。キリストが全て代わって死を引き受けてくれたからです。歩幅の合わない人と無理に一緒に仕事をする必要もありません。わたしたちは自分自身の軛を負って、自分の人生を生きれば良い。信じたいものを信じ、働きたいように働けば良いのです。キリスト所有のものになるということはキリストだけを乗せる生き方です。キリストは右左を指示し、時々足を地面について共に歩いてくれます。

ここに真の自由があります。人生の深い悩みが解消されたからです。誰からも必要とされていないのではないか。何のために生きているのかとの悩みは、「あなたはわたしのものだ。わたしがあなたを必要としている」というイエスの呼びかけによって解消されます。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」(イザヤ書43章1節)。

イエスは今、わたしたち個人の名前を個々に呼ばれ、それぞれに固有の仕事を授けています。わたしたちは皆イエスに必要とされています。救いとは所有者を変え、所有者の必要に応えることです。イエスの必要は多岐に渡ります。礼拝の奉仕もあれば、この世界の仕事も含まれます。生業だけでもありません。あなたという存在と密接不可分である「主の必要」があるはずです。

今日の小さな生き方の提案は、所有者の転換です。自分の人生は自分のものではあります。しかし、その実わたしたちはさまざまな誘惑に所有されています。それらはわたしたちを軽く扱っているにもかかわらず、わたしたちは縛り付けられ喜んでこの世的なものにひれ伏しています。個々の名前を呼んで、尊重して下さるメシアの所有とされることを勧めます。それにより根源的な不安からわたしたちは救われるからです。イエスはあなたを必要としています。