ここ数日のテレビの報道を観て、人間の誠実さとは何か、品位を保って生きるということはどういうことなのかを、考えさせられています。さまざまな記者会見や公職に就く者たちの言動を見る時に、誠実さ・品位ある態度とは何かに思いを馳せます。言葉の力・話し合いの力でしょう。面と向かった対話の中で、ある人の誠実さや不誠実さ、品位のあるなしが浮き彫りにされているからです。言葉の受け答えというものは大切だと思います。本日のイエスと権力者たちとの対話にも通じます。
再びルカによる福音書の講解説教に戻ります。いよいよ最後の5章分、ルカ福音書も佳境に入ってまいりました。19章の最後には、イエスが神殿の境内で商売をしている人々を追い出して、そこを占領して毎日人々を教え続けるということが書いてありました。イエスは、十字架で処刑される前日までの5日間ほど、そのような毎日を過ごしていました。それは神殿貴族からすると「宗教の名を借りた商売ができない」という5日間です。犠牲獣を売ることができないので、祭儀が行えません。この5日間は、権力者たちの収入が減りました。人々は神殿の聖所での犠牲祭儀を行わないで、神殿の境内でイエスの教えを聞くという、新しいかたちの「礼拝」を創始しました。
安息日の礼拝に近いけれども異なります。聖書の朗読が無いからです。ただイエスの周りに座って聖書解釈を聞くという礼拝です。イエスは神が無条件に愛しているということを語ります(福音を告げ知らせる。1節)。そしてイエスはその愛を受け入れた者がどのように生きるかを語ります(教える。1節)。おそらくそれは対話を含む学びです。その場でさまざまな質問に丁寧にイエスは答えていたのだと思います。商売ができなくなった人も、その輪の中にいたかもしれません。イエスは不利益を被ったエルサレム住民とも対話をします。
また、ヘブライ語を話せないユダヤ人も、その場に大勢いました。過越祭に参加する巡礼者がメソポタミア地方、小アジア半島、ギリシャ・ローマから、多数集まっていたからです。イエスは、多言語・多文化の人々にも懇切丁寧に語りかけます。国際交流の盛んなガリラヤで育ったイエスは、おそらくギリシャ語もラテン語も話すことができたと思います。ローマ総督ピラトとも、不自由なく話し合っていることからもそのことは伺えます。さまざまな言語が対話の中で行き交う学びの場。ペンテコステの土台が、すでに据えられています。
そのような5日間の中の「ある日」(1節)の出来事です。「祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て」圧力をかけます。当時のユダヤはローマ帝国に支配されていました。その植民地ユダヤの政府は、祭司長・律法学者・長老たちによって構成されていました。祭司長はユダヤ教サドカイ派の指導者であり、律法学者はサドカイ派聖書解釈を支えるブレーンです。長老はサドカイ派を信奉する政治家。この三者は、宗教者も含んでいますが、ユダヤ人たちの代表であり、政治権力を持っていました。そして住民からの税金も、神殿の献金収入も、神殿税も、境内での売上収入も、すべては彼らが分配をしていました。当時は政教一致していたのです。
彼らはイエスを中心にする群れを解散させようとします。彼らはイエスの行動の「権威(エクスーシア)」を問います。この箇所の鍵語です。エクスーシアは、権威/権力/権限/権能/権利/主権/自由などと翻訳されます。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのは誰か」(2節)。彼らの言い分は、「自分たちこそが神殿の境内における人々の行動を禁止したり制限したり認めたりする権限を持っている」ということです。たとえば商売を行うことを認めたり認めなかったりする権限です。政教一致だけでなく、三権一極集中です。
居丈高に彼らは「あなたが我々に言え」と尋ねます。恐怖で血も凍るような向き合いです。弟子たちは一言も口を挟めません。周りにいたヘブライ語話者もしんと静まり返ります。ヘブライ語ができない人々はざわつき、隣同士で「何が話し合われているのか」を確認します。ヘブライ語の「権力(コアハ)」(ゼカリヤ書4章6節)、その翻訳語であるギリシャ語の「権威(エクスーシア)」が話題になっていると、ギリシャ語話者は理解しました。
イエスは落ち着いています。聖霊がうちにあるので、権力者たちの前でも穏やかで毅然としています。何を語るべきかは、聖霊が与えてくれます。「わたしもみなさんに一つのことを尋ねます。みなさんはわたしに答えてください。ヨハネのバプテスマは天からでしたか。それとも人からですか」(3-4節)。
イエスも権威についての質問をしています。「天から」という言葉は神の権威をもとにしているという意味です。「ヨハネが神から派遣された預言者であり、神から権限を与えられてバプテスマ運動をしていたと考えているか」をイエスは問うています。
「人から」という言葉は、人々の多数の賛同を得ているという権威をもとにしているという意味です。古代の常識は現代と異なります。わたしたちにとって、人々の多数の賛同を得ることは民主的正統性の源です。神からの権威よりも、人からの権威の方が現代においては上位にあります(多数派の優位)。しかし当時は、人に由来する権威の方が、より低い価値とみなされていました。
祭司長・律法学者・長老たちは、ヨハネの活動を低く評価していました。ガリラヤの領主ヘロデがヨハネを処刑したとき、彼らも賛成していたはずです。なぜなら、当時のユダヤ教諸派の中で、彼らはサドカイ派に属しており、ヨハネの属しているエッセネ派とは対立していたからです。そのような彼らは、自分たちサドカイ派は天からの権威をもとに神殿経営をしていると考え、ヨハネは人からの権威をもとに勝手にバプテスマ運動をしていたと考えていました。
つまり、彼らはイエスの問いに対して、明確な答えと自分の意見を持っていたのです。「ヨハネのバプテスマは人からのものだ。だからわたしたちはヨハネを神から派遣された預言者とは信じなかった」という回答が、彼らの本心・信仰に基づく意見です(5節)。そうであれば、信念を堂々と言えば良いでしょう。ところが、彼らは自分の思想信条を言えない。彼らが、神を見ないで人々を見ているからです。「『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で打ち殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから」(6節)。
不思議な図です。「天からの権威」をちらつかせて地上の権限をもって威張っている権力者たちが、本音のところでは大勢の人々を怖がっているのです。イエスが彼らを前に堂々としていることに比べると、みっともない姿を彼らは晒しています。民衆は権力者たちを石で打ち殺す(私刑)つもりはなかったと思います。仮にそのようにいきり立っても、イエスはそれを止めたでしょう。恐怖は冷静な判断を奪います。聖霊が自分のうちに宿っていない時に、わたしたちは慌てふためきます。仮想敵が凶悪であるかのように誤解します。
おそらく周りに丸聞こえだったでしょうけれども、彼らは相談をして「どこからか知らない」と答えます(7節)。イエスが常に個人として「わたしは」(エゴー)と言っているのに対して、祭司長・律法学者・長老たちは主語を隠して(不定詞)責任をあいまいにしています。
しかも彼らの回答は明らかに嘘です。これほど不誠実な態度はありません。周りの人も、サドカイ派の彼らが、エッセネ派やヨハネをどのように評価しているかを知っています。彼らの相談し合っている内容も人々に筒抜けです。公開で論じ合うことを避けて逃げたのです。また、ありもしない恐怖によって逃げたのです。すべては自分の地位を守るための保身です。
「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」(8節)。このイエスの締めくくりの言葉は、「答えない」と言いながら、祭司長・律法学者・長老たちの質問に答えています。二つの回答が込められています。
イエスはヨハネが「天から」の権威でバプテスマを行っていたと考えています。二人は親戚です。イエスもヨハネからバプテスマを受けていますから、ヨハネの活動を認めています。両者はサドカイ派に反対です。イエスの始めた運動の一つの源流は、エッセネ派の一種であるヨハネの活動です。現にイエスの弟子たちはバプテスマを授けながら仲間を増やし、今に至っています。
「何の権威でこのようなことをしているのか」という質問に対して、イエスは、「自分もヨハネと同様、天から権威を与えられて、商売を禁じ、福音を告げ知らせ、教えている」と示唆しています。少なくとも、この対話を聞いていた人々は、そのように理解しました。ヨハネとイエスの近さを知り、両者を預言者と信じていたからです。誠実で品位のある態度で、ただ一人権力者たちを論破したイエスは天からの預言者であること。その反対に、不誠実で品のない態度の権力者たちは、自分たちが世襲で受け継いだ「権限」を振りかざしているだけの「人に由来する俗物」であることを、人々は理解しました。
「権威」について、もう少し深掘りしてみましょう。ここには語呂合わせがあり、それが第二の回答だからです。ギリシャ語エクスーシアは、「から(エクス)」と「存在(ウーシア)」から成ります。前置詞エクは母音の前でエクスとなります。「天から」は、エクス・ウーラヌーの二語、「人から」は、エクス・アンスロポンの二語です。「天から」「人から」に並んで「自分自身の存在から」という答えも暗示されています。行動の自由の根拠は、自分自身の存在にあります。人は生まれながらに自由です。ヨハネがバプテスマをするのも、イエスが神殿で福音を告げ知らせるのも、何の根拠も要りません。その人自身が権威・権限の源です。つまり、すべての人は完全な自由を持つ主権者です。その自由を奪う権限は、誰にも与えられていません。天からも人からも、自由を抑圧する権力は批判されます。イエスの逆質問は囮です。
「何の権威か言うまい」と言ってイエスは自分が権威を持っていることを明言しています。真の回答はこうです。「天からか/人からかも、どうでも良い。自分自身が自分の言動の権威だ。すべての人がその権限・権利を持っている。なぜなら、すべての人は『わたしはある』(出3章14節)という者だから」。
聖霊がうちに宿る人は、皆このような境地に立っています。「わたしは」という主語を立てて、落ち着いて自分に自信を持って語る人は、真に敬虔で謙虚な人です。神がかったり、下品に威張ったり、いらいらしたり、怯えたりしません。「わたしは、こう考え、こう信じ、こう行動する。あなたは、どう考え、何を信じ、いかに行動するのか」という発言を、聖霊が導くはずです。
今日の小さな生き方の提案は、誠実に生きること・品位を保って生きるということです。自由だけれども勝手ではなく、自信は持つけれども傲慢ではない。自分の意見は持っているけれども、他人の意見にも開かれている。イエスが神殿の境内で、なさったように堂々とした対話的な人間になりたいものです。それを磨くのは毎週の礼拝です。多様な人々が行き交う霊的な礼拝、神との対話・隣人との対話のある礼拝で、わたしたちは誠実さと品位を磨きます。