気をつけなさい ルカによる福音書20章45-47節 2018年7月8日礼拝説教

「あなたたちは律法学者に気をつけなさい」という注意が、「弟子たち」に向けてなされています(45節)。マルコ福音書では、群衆全体に向けてイエスは言っています(マルコ福音書12章37-40節)。それをルカは「さて、全ての民が聞いている時、彼(イエス)は彼の弟子たちに言った」(45節私訳)とします。ルカの強調は十二弟子にあります。この人たちが十二使徒となりました。だからこそ、この教えは今を生きる教会の者たちへの注意となります。全てのキリスト者はイエスの弟子であり、イエスから遣わされた使徒だからです。

万人祭司と言います。特別な人だけが、この礼拝で奉仕を捧げ、礼拝からこの世界に遣わされているのではありません。全てのキリストの弟子が、日曜日に集められ、月曜日に自分の生きている日常生活へと派遣されます。わたしたちは、世界から集められ共に礼拝をし、礼拝から世界へとばらばらに出ていきます。キリストに奉仕をしたわたしたちは、キリストを証しながら自分の生活に奉仕するのです。この全体が教会を形作ります。その時には注意が必要です。「あなたたちは律法学者に気をつけなさい」。この意味を問います。

ルカ福音書は同じ内容を繰り返すことが多い福音書です。本日の箇所の内容も、実は11章43節にすでに記載されていました。「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ」(11章43節)。11章で明確にファリサイ派と言われているのですから、本日の律法学者は、ファリサイ派に属する聖書解釈・法律解釈の専門家です。

ファリサイ派は、当時のユダヤ教の一分派・グループです。彼らはサドカイ派と異なり、モーセ五書以外の「預言者たち」「諸書」も聖書として認めていました。さらに、自分たちで聖書を増やしてもいました。旧約聖書の解釈を積み増し、新たに律法を付け加えていったのです。律法学者は立法学者です。ファリサイ派が編み出した規定は人々にとって権威ある法律・施行令でした。ファリサイ派は、議会の議席の三分の一も持っていたので、彼らの編み出した規定には政治的力もありました。

サドカイ派と異なり、ファリサイ派はエルサレム神殿を必要としません。むしろ町々にあった「広場」や「会堂」(46節)が彼らの活動拠点です。広場で法律相談を受けたり、会堂で聖書解釈を公表したりするのです。そうして人々の生活を、宗教に基づく法律によって規定し、方向づけて行きます。

イエスはファリサイ派を激しく批判しました。その批判の中心は、外見的には善いことをしているようでいて、ファリサイ派の内心が罪にまみれていること、「大きな正義」を行わないことにあります。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている」(11章39節)。「十分の一は捧げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしている」(同42節)。

今日の箇所は、イエスから批判されているファリサイ派の律法学者たちが、世間では高く評価されていたことを示しています。町の人々は慣例として、彼らにうやうやしく挨拶をし、彼らを会堂での上席(第一の席)、宴会での上座(第一の座)に座らせているからです。また、やもめのような貧しい者たちにとって、彼らの祈りは「ご利益のあるありがたいもの」だったのでしょう。

ファリサイ派の律法学者は世間からどのように見られているのかをよく知っています。だから、わざわざそれと分かるように正装をして歩き回るのです。「長い衣」(46節)は、整った服装、つまり正装という意味です。その恰好をしていれば、敬われるということを知っているのです。

イエスは彼らの外見ではなく内面を問題にしています。敬われたいからする正装に何の価値があるのでしょうか。正装とは、相手を敬うためになす服装でしょう。宴会の上座に座りたがる心根が問題です。宴会もまた、人々に仕える機会とすべきです。

自分の支配欲を信仰の場面で実現しようとすることにイエスは反対です。礼拝をする場所で上席に着きたいという欲望は、信仰と何の関係もありません。信仰とは神との関係の結び直しです。人間同士の間にある上下関係は、神と自分の向き合いには、何の関係もありません。人々の間で威張っている人が、そのままの姿勢で神と向き合うことは不可能です。そのことは18章9-14節の「ファリサイ派と徴税人のたとえ話」で明らかです。神に義とされて帰ったのは徴税人の方であるというたとえ話の結論は、ファリサイ派の祈りは神と自分を結び直さなかったということの現れです。

そして物欲が、宗教の皮をかぶる時、イエスの批判は最高に厳しく・鋭くなります。やもめは、孤児・寄留者と並ぶ社会的弱者の代表です。彼女は赤貧の現実から宗教に助けを求めます。純粋な動機で、祈ってもらいたいと願ったのです。明日生きていけるようにと、職業を奪われていた女性たち・唯一の収入源である夫に先立たれた女性たちが、祈ってほしいと願っています。それに対して、ファリサイ派の律法学者は、わざと長く祈るのです。長い祈りほど料金が高かったと思います。自分自身に対する言い訳のように、その人を搾取しながら、その人のために祈る。これは偽善です。

「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」(47節)。

わたしたちは現代社会においてもこのような人々に気をつけなくてはいけません。およそ儲け過ぎている宗教団体というものは眉唾です。必要以上に敬われている宗教者は奇妙で皮肉な存在です。さらにマインドコントロールなどによって人々を搾取する破壊的カルトは、端的に問題そのものです。教会は、「見張り役」として、世界にこの類の律法学者がいないかどうか気をつけて監視し、いったん見破ったら大きな声で警告を発するべきです。

そして声を大にして言わなくてはいけませんが、「律法学者に気をつけなさい」という注意は、キリスト教会にこそ向けられています。イエスが自分の弟子たちに向けて言っているからです。見張り役になるためにはより高い倫理観が必要となります。

他の三つの福音書と異なり、ルカ福音書だけが続編・使徒言行録を持っています。使徒言行録は初代教会の歴史を記したものです。この使徒言行録をルカ福音書と一体のものとして読む必要があります。「イエスは弟子たち(使徒たちに)に言った」という言葉は、使徒言行録を見よという指示です。教会の中にも律法学者のような存在がありえるかもしれないので、気をつけなさいという暗示です。

鍵となる言葉は「やもめ」(ギリシャ語ケーラ)です。やもめという言葉はルカ福音書・使徒言行録の特愛の言葉です。新約聖書の中では27回出てきます(ルカ9回・使徒3回)。他の福音書では20章45節-21章4節の並行箇所以外で用いられないやもめを、ルカはその他6回にわたって用います(2章37節:預言者アンナ、4章25・26節:サレプタのやもめ、7章12節:息子を亡くしたやもめ、18章3・5節:やもめと裁判官のたとえ話)。イエスの母マリアも含め、ルカ福音書はやもめが活躍する福音書です。

ルカとルカ教会がやもめを重視する理由は、初代教会において、やもめが牧師職のような一種の職分であったことにあります。テモテへの信徒への手紙一5章3-16節には、60歳以上の既婚独身女性であり、いくつかの要件を満たした信頼される信徒でなくては、やもめに登録できないと書かれてあります。

やもめという教会指導者としての職分がありました。だからこそパウロは、神に仕えることに専念するためには、やもめは再婚しない方が良いと勧めるのです(コリントの信徒への手紙一7章8節)。やもめ職に専念するため、神と人に仕えるためです。

やもめの職分は、家の教会の主宰者を助け、特に貧しい信徒を経済的に支援するという役割です。使徒言行録9章36-42節にヘブライ語名タビタ/ギリシャ語名ドルカスという教会指導者が居ました。タビタもやもめの一人かもしれません。タビタには頼りになるやもめ集団が傍に死ぬまで居たようです。タビタは当初やもめたちを経済的に支援していたでしょうけれども(教会は財産を共有していた)、そのやもめたちはタビタと共に善行・寄付をしていたように読めます。このタビタを、イエスの弟子/使徒ペトロはよみがえらせます。なぜペトロはそれができたのでしょうか。イエスが生前に(つまり本日の箇所で)、やもめを食い物にするような律法学者に気をつけよと、ペトロらに言っていたからです。ペトロは他人に見せびらかさずに一人で跪いて祈り、イエスがやもめの息子にしたように(7章12節)、タビタを起き上がらせます。

教会は発足当初からやもめたち・貧しい人たちの生活を支援していました。執事という職分が生み出されたのも、やもめたちの声に応えるためでした。ここに楽しい推測ができます。もしかしたら、執事という職分よりも先にやもめという職分があり、そのやもめ集団が率先して貧しい人々への施し、日々の炊き出しや配給を担っていたのかもしれません。自然発生的に生まれた奉仕の業と奉仕者が、教会に向かって「後付けで良いから責任者を早く立てよ。実際の担当はやもめがする」と訴えて、7人の執事が生み出されたのかもしれません(使徒言行録6章1-6節)。奉仕が先・職制が後。運動が先・組織が後なのです。

やもめについての考察は、主の晩餐のあり方にまで射程を伸ばします。「宴会」(46節。ギリシャ語デイプノン)は、「晩餐」と同じ単語です(14章12・16・17・24節、Ⅰコリント11章20・21節)。「教会が行う食事配給で不平等が起らないように執事を立てよ」から、「執事が行う教会のパン割き(主の晩餐)で不平等を起こすな」へ。さらに「主の晩餐に上座や下座があって良いのか」という流れは自然です。主の晩餐の上座に、常に正装した宗教者が座ることは、良いことなのでしょうか。「あなたたちは律法学者に気をつけなさい」。

按手礼というものは牧師の間に上下を作りえます。執事だけが司会を担う礼拝は教会員間に上下を作りえます。キリスト者のみの主の晩餐は人間の間に上下を作りえます。わたしたちは上下に気をつけなくてはいけません。なぜなら全ての力の濫用は、上下関係を前提に行われるからです。律法学者が犯していた罪は、正に上下関係を利用した力の濫用なのです。教会でそのようなことがあってはいけません。わたしたち教会が、この世界の見張り役となるためには、より高い倫理観が求められるからです。

今日の小さな生き方の提案は、誠実に等身大の自分を生きるということです。イエス・キリストの救いはわたしたちを自由にします。この自由の一つの特徴は平等にあります。すべての人は神の子として平等です。そこに上下はありません。誰もが尊厳をもった個人として尊重されます。気をつけましょう。他者が尊重されることに嫌悪感を持つときに、罪がわたしたちの戸口で待ち伏せしています。それは自分の優位性が脅かされているという誤解からくる恐怖です。完全な愛は恐れを締め出します。誰もが平等に尊重される。このことを互いに喜び、そのような教会を作っていきましょう。