キリスト者になるということは物の見方を変えることです。イエス・キリストの視点、物事を見る目を得るということです。それがわたしたちにとって救いとなります。それは小さな変化です。ほとんど外からは気づかれない変化です。しかし、確実な変化です。わたしたちの人生が変わるからです。実に、物の見方によって、わたしたちの生活・人生は大きく変わります。
ただしキリスト信仰は「自己啓発」ではありません。「すべては気持ちの持ちようだ」と割り切って、前向きに生きれば良いということではありません。そのような考え方は、たやすく破壊的カルトや、それに類似した「自己啓発セミナー」にとりこまれてしまうでしょう。
イエス・キリストの視点は、心の持ちようだけを変えるのではありません。この世界の見方を変えるのです。自分の心などというものも真空パックに入れられているのではありません。世界の状況に常に触れて、個々人の心は形作られています。キリストの言葉は、世界をどのように捉えるべきかの視点を与えます。その視点が、わたしたちの心をも世界ごと変えるのです。
この世界ではどのような者たちが力をふるっているのでしょうか。「金持ちたち」(1節)が大手を振っています。彼らは見えるように大金を賽銭箱に投げ入れます。ローマ皇帝の肖像と名前が彫られたデナリオン銀貨から、ユダヤの貨幣に両替をしたばかりのお金でしょう。重いものを投げ入れるのですから音が違います。ラッパのような形の賽銭箱だったと言われます。銀貨を入れれば大きな音が出るはずです。彼らはおそらくサドカイ派のユダヤ教徒です。
彼らの献金は、政治献金でもあります。神殿の大祭司を長とするサドカイ派は、議会の三分の二の議席を持っていました。サドカイ派の収入源は、神殿税・神殿境内での商売に対する場所代・神殿への寄付です。金持ちたちの賽銭箱への献金は、神殿への寄付にあたります。それによってサドカイ派の指導者たちの生活が潤います。そして、金持ちたちのための政策を議会で彼らは行います。企業団体献金による政策誘導と似た構図です。
イエスは神殿で行われている商売に反対でした。犠牲祭儀のための動物を売ることや、両替をする商売に反対し、商人たちを追い出しました(19章45節以下)。それは宗教の名を借りた搾取です。貧しい人たちは、なけなしのお金を叩いて小動物を買わざるをえないし、両替商に手数料を支払わなくてはいけないからです。そのお金は金持ちが貧しい人を支配するために用いられます。神の名前をみだりに唱えてはいけません。ひどい詐欺だからです。この延長線上に神殿への寄付もあります。
だからイエスは、神殿への寄付そのものに批判的でした。神殿を中心にする社会の仕組みそのものに疑いの目を持っていたと思います。イエスをどうしても殺したい人びとは、イエスの神殿批判こそがユダヤ政府にとって危険であるとみなした人びとです(マルコ福音書14章58節、ヨハネ福音書2章19節)。
イエスの視点は、当時のほとんどのユダヤ人にとって新しいものの見方でした。イエスの弟子たちにとってすら、ついていけない教えでした。多くのユダヤ人は、ヘロデが増改築した神殿の壮大さに満足していました。神殿を「ヤハウェの家」とヘブライ語で表現します。大いなる神が住むためには大きな建物がふさわしいと、ユダヤ人たちは信じていました。だから神殿は神そのもののように崇拝されていたのです。その神殿を維持するための税金や献金に疑問を持つユダヤ人はあまりいません。
その日暮らしの貧しいやもめは、自分の献金が富んでいる者をさらに富ませ、貧しい自分をさらに貧しくさせていることに気づいていません(2節)。賽銭箱の設置場所は、ユダヤ人男性のみが入ることのできる場所にあっても良いはずです。しかし、そうなれば女性たちは寄付ができなくなります。そこでユダヤ人女性も立ち入りが許されている場所にも賽銭箱が置かれます。ある意味では女性たちの信教の自由の保障です。しかし別の面から見れば、女性の貧困の後押しです。貧しい女性からもお金をむしり取る仕組みだからです。
「レプトン銅貨二枚」は、文字通りに取れば100円程度のお金です。1レプトンは1デナリオンの128分の1。1デナリオンは労働者一日分の賃金に相当します。一日6,400円を稼いだならば2レプトンは100円です。ただし、ここは厳密な意味ではないでしょう。そんなに間近に人の寄付を見ることはできないし、賽銭箱へ投げ入れられる貨幣の内訳を知ることはできないからです。この「レプタ二つ」は「小銭」という意味です。
大きな物音を立てて金持ちたちが銀貨をドコドコッと投げ入れる一方で、やもめは小銭をチャリンチャリンと投げ入れたのです。それを神殿への寄付を一切しないイエスが、音が聞こえる程度の距離から見たという場面です。そしてイエスは、さらに新しいものの見方を示します。
「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」(3-4節)。
今までの流れから言えば、「金持ちの寄付も、やもめの寄付も、どちらもやめるべきだ」と言わなくてはいけません。悪意からも善意からも、神殿を中心とする社会の仕組みは、温存されてはいけないからです。すべての寄付を止めよという主張は、新しいものの見方に基づく、一貫した正義です。しかし、イエスは「寄付禁止」と言わない。ブレたのでしょうか。より正確に言えば、愛を正義よりも優先させたのです。やもめに対する共感・愛情が、何にもまして優先されたということです。ここにはさらに新しいものの見方があります。
もしもイエスがやもめに向かって、「お母さん、その献金は結局サドカイ派を利するだけだから、おやめなさい。自分の生活のために用いなさい」と言ったらどうなるのでしょうか。彼女はイエスの言うことを理解しないでしょうし、怒り出すかもしれません。「自分のことをイエスは理解していない」という感情だけが残るのではないでしょうか。正義というものの持つ嫌らしさが鼻をつくのです。「(自分の考える)正しくない行為」をする隣人に、わたしたちは上から目線でお説教しがちではないでしょうか。それは人間関係を壊すことになりかねません。時に「正しくない行為」に付き合うことも大切です。
たとえば空間放射線量の高い土地に暮らすことは、放射性物質による被ばくの深刻さを知った人にとって愚かな選択です。しかし、さまざまな理由でそのようにせざるを得ない人びとが現にたくさんおられます。「そこに住むことが政府に利用されますよ」という言葉は、一貫した正義ではあっても住民の心に響かない場合もありえます。「自分たちのことを理解していない」という感情だけが残るかもしれません。
単純に騙される側よりも騙す側の方が悪いのです。騙される側を裁かない姿勢が必要です。そして、仮に「正しくない行為」であっても、苦しむ隣人と同じ目線で考える必要があります。ここに視点の転換があります。自分の目から見て正しいかどうかではなく、苦しむ隣人の目から見て、隣人が何を求めているのかを知ることです。
彼女がこの時点で心から求めていることは何でしょうか。体制の転覆でしょうか。経済的自立でしょうか。完全なる信教の自由でしょうか。性による差別の撤廃でしょうか。最低限文化的健康的な生活でしょうか。もしそうであれば、イエスはやもめにそれらを与えたことでしょう。これらのものは(神の国と神の義は)、イエスの十字架・復活・聖霊降臨後に教会が彼女に与えたものです(使徒言行録2章43-47節)。だから今、もしそのような社会正義を求める信徒がいれば、教会は苦しむ隣人の求めに応えなくてはいけません。
神殿参拝をしているこの時点でやもめが求めているものは、そうではありませんでした。イエスはそれを知っています。彼女の求めは、自分の尊厳が守られることであり、自分の名誉が回復されることです。自分もアブラハムの娘である(13章16節)/神の子である(3章38節)との確信です。そのことを神に認められることこそが、彼女の魂の叫びです。「あなたは良い」という全肯定を神から聞くことをやもめは求め、生活費までも献金として捧げたのです。
古代社会は宗教が生活・文化・政治に密接に結びついています。そこでは、神殿の献金額が人間の価値とみなされます。だから高額献金者の金持ちは神の国に真っ先に入ると考えられていました(18章26節)。イエスはそのように考えません。そしてひっくり返します。「やもめこそが最高額献金者だ」と言い放つのです(3節)。この言葉によって、神の名によってやもめの尊厳が尊重され、神の名によってやもめの名誉が回復されました。しかもやもめ本人にとって届く言葉で、「あなたは良い」という神の全肯定が語られたのです。信仰・宗教・教会の役割は、ここにあります。世間で何も評価されない人も、「あなたは神の目には高価で尊い、神の子だ」と教会では宣言されます。ここで尊厳が保障され、ここで名誉が回復されるのです。
苦しむ人びとに届く言葉で大げさに共感していくことが大切です。まず愛が優先され、正義が後ろに退きます。しかしほどなく愛と正義は合流します。
「だれよりもたくさん入れた」と言われたやもめは嬉しかったでしょう。「この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたから」という理由付けもいささか面はゆい気持ちになりつつも嬉しかったことでしょう。一羽の雀を見る神は、自分のようなやもめを見ておられるということがよく分かる言い方だったからです。やもめはイエスに従い、教会の設立に加わっていきます。そして神殿が不要な信仰実践、もはや男も女もない教会、非ユダヤ人・やもめ・孤児などの貧しい人びとに日々の配給をする共同体を積極的に担っていきます。イエスからの全肯定があったから、神の国と神の義を求める生き方に変えられていったのです。神殿の崩壊後も(後70年)キリストの教会は生き残ります。
ここに注意が必要です。イエスの言葉は強烈な逆説であるということへの注意です。「献金額によって人間の価値を決めるな」とイエスは言いたいわけです。この中心を省いて、「教会ではやもめのように献金しましょう」と言うと、皮肉な結果が起こります。もし単純に当てはめるならば、次のような献金の勧めになります。「献金は収入に対する比率でなせ。生活費も含む10分の10の割合が理想だ。金額よりも比率に従って人間の価値が決まる」。これは破壊的カルトの持つ信者への搾取の論理にもなりかねません。
今日の小さな生き方の提案は、ものの見方を変える自由を常に持つことです。イエスの教えは常に新しく、イエスは一つの物語の中でも次々に新しい視点を与えています。「これが絶対」という思考停止を止めましょう。自分と隣人と世界を自由に見直しましょう。この自由は、神による全肯定によって支えられます。自由に生きる。これこそすべてを神に捧げる生き方です。神殿崇拝からやもめは、徐々に視点を変えられました。彼女は自由を得、その自由をキリストのために用い、人びとに仕えたのです。