今日の箇所は「主の晩餐の制定文」(17-20節)を含みます。同じような制定文は、マタイ・マルコ福音書と、パウロの書いたコリントの信徒への手紙一11章23-26節にもあります。四つの制定文は二つの型に分類されます。パウロ型とマルコ型です。この二つが古いというのは定説です。ルカ教会はパウロ系列の教会ですから、パウロが伝えられ受け継いだ制定文を参考に毎週の礼拝をしています。(Ⅰコリント11章23節参照)。
ルカ福音書においては杯を二回回し飲みします(17節・20節)。その点は大きな違いですが、それ以外の点では単語レベルでパウロの手紙と一致しています(「記念に」「食事の後」「あなたがたのために」「新しい契約」「このように行え」)。二回の回し飲みは、マルコの筋に寄せて過越の食事風にするためのルカの編集でしょう。7-16節はひと繋ぎの物語です。先週詳しく取り扱ったので、本日は過越の食事について深追いしません。
むしろわたしたちの毎週行っている主の晩餐にとって、この箇所がどのような意味を持っているのかについて集中していきます。わたしたちは、いわゆる「自由陪餐」というかたちを採っています。パンとぶどう酒を取るのも取らないのも自由です。教会籍の有無、バプテスマ経験/志願の有無を問いません。言い方を変えれば、その場でその人の内に注がれる聖霊の自由な導きに委ねています。また、牧師がいない時には執事が進行を代行します。配餐の奉仕も執事だけではなく、大人も子どもも担います。同席者も奉仕者もなるべく線引きをしないで多くの人を含むことを旨としているわけです。この実践について本日の聖書箇所は何を言っているのでしょうか。
鍵はイスカリオテのユダにあります。あらかじめの注意ですが、「裏切る」(21・22節)はキリスト教史の中で作られた強い意訳です。ユダに対する敵意が背景にあります。「パラディドミ」というギリシャ語動詞は、「引き渡す」が直訳。「パラ」は「近くに」という意味、「ディドミ」は「与える」という意味で、パラディドミは価値中立的な言葉です。あまりに強い敵意は、ユダも含めて十二使徒と考えているルカ教会の立場に反します(14節、6章13節)。
パウロはユダという特定の人物がイエスを官憲に引き渡したことに無関心です。「ユダも最後の晩餐に当然居ただろう」と漠然と考えています。その考え方は、イエスの復活を見る場面にもあてはまっています(Ⅰコリント15章3-5節)。復活のイエスは「十二人に現れた」という伝承をパウロは受け継いでいます。ここにユダも含まれています。わたしたちはマタイ福音書の記事(死刑判決直後のユダの自死)に引っ張られて、ユダが十字架後も他の弟子たちと一緒に居たかもしれないということを、無意識のうちに排除しがちです(マタイ福音書27章3-10節)。ルカ福音書24章9節「十一人とほかの人皆」・同33節「十一人とその仲間」に、もしかすると使徒から降格したユダも居たかもしれません。またわたしたちはヨハネ福音書の記事に引っ張られて、ユダが最後の晩餐の途中で退席し、「主の晩餐の制定」に関わっていないと思い込んでいます(ヨハネ福音書13章30節)。
パウロ系列の教会では「ユダがイエスを引き渡したという事実」は、そんなに重大な出来事ではないのです。ルカ教会もその立場を受け継ぎながらマルコ福音書と対話をしています。
マルコ福音書ではイエスがユダの引渡しを予告する場面が「主の晩餐の制定」よりも前にあります(マルコ福音書14章18-21節)。この時点でユダが退席したかのように読めます。だから、主の晩餐制定にユダがいないことを暗示しています。ルカ福音書は、マルコ福音書の暗示を知っていて、あえてパウロの立場に合わせて物語の順序を変えます。主の晩餐の制定後にユダの引渡し予告を置いているのです(21-23節)。ルカ版のユダは確実に主の晩餐制定の場面に同席しています。ユダが一行から離れ祭司長らと合流してイエスの引渡しに着手するのは、おそらく全員がオリーブ山にいる時点です(39-46節)。
ルカ福音書に従う限り、わたしたちの行う主の晩餐は、イスカリオテのユダが同席しているものでなくてはいけません。パウロが無意識のうちに前提しているユダの同席について、マルコは「ユダは同席していなかった」という方向性を暗示して反論しました(マタイ・ヨハネはその方向性を明示して強化)。ルカはパウロに対するマルコの反論を知っていて、あえて意識的に「ユダは同席していた」と再反論しています。この再反論を重視しましょう。
パウロ型の制定文は「あなたがたのために」(19・20節)と、食卓の同席者のためにイエスが体を裂かれ血を流されることを示します。マルコ型は「多くの人のため(=全ての人のため)」としているので、パウロ型は救いの範囲を狭めているように読めます。キリスト者だけが主の晩餐にあずかる根拠として「あなたがたのために」は今でも挙げられます。しかし、結論を焦ってはいけません。この弟子たちは誰もイエスからバプテスマを受けていないからです(ヨハネ福音書4章2節)。バプテスマは最後の晩餐の出席要件ではありません。
またイエスはユダを含めた十二人の使徒に向かって、「これはあなたがたのために与えられるわたしの体」「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約」と言っています。ユダのためにも、あるいはユダのためにこそ、イエス・キリストは十字架で虐殺されました。ユダのために体は裂かれ、ユダのために血が流される。だから、ユダとイエスは一つの杯を回し飲みする新しい契約関係に入ったのです。確かにイエスは、「人の子を引き渡すその者には、むしろ禍あれ(プレーン・ウーアイ)」(22節、田川訳)と言って、ユダの罪を裁いています。ウーアイは間投詞です。「不幸だ」(新共同訳)ではなく、呪いの言葉を投げつけている強い表現です。イエスは罪をそのまま見過ごしにはしません。罪を指摘し、ユダに審判を下しています。
しかし、その裁きよりも先に救いのパンと杯を与えて(ディドミ)、ユダの引渡し(パラディドミ)の罪を赦しています。これが十字架の救いの業です。十字架は、罪を見過ごしにして黙認するという救いではありません。悪いことを水に流すこと、悪事を忘れることは、十字架と似ているけれども異なります。十字架はわたしたちの罪を教え指摘します。ユダのような仕方で人間の命を売り飛ばすことは罪なのだと教えます。同時に十字架は、ユダの代わりに神の子が裁かれることで、ユダの罪を肩代わりして赦す、救いのみ業です。イエス・キリストの贖罪とは、このような無条件の赦しです。
使徒言行録1章17-19節には、ユダがエルサレムに土地を購入したことと、彼がペンテコステの前に内臓破裂で死んだことが報じられています。マタイ福音書と異なり自死ではなく、高いところから落ちた転落事故死のようです(同18節)。パウロ系列であるルカ教会は、使徒言行録を書いた時点では、ユダがイエスを引き渡したという罪に無頓着です。むしろ「不正を働いて得た報酬で土地を買った」罪が批判されています。この点を重視する批判姿勢は、平野の説教のイエスの言葉とも共鳴し響き合っています「むしろ、禍あれ(プレーン・ウーアイ)、汝ら富む者に」(6章24節、田川訳)。
ユダの「はらわたがみな出てしまいました」(使徒言行録1章18節)とありますが、「流される」(ルカ福音書22章20節)と同じエッケオーというギリシャ語動詞です。他には聖霊が注がれる時に用いられる専門用語です(使徒言行録2章17・18・33節等)。ユダの土地が「血の畑」と呼ばれていることは、はらわただけではなく血も流れ出たことを示しています。ユダの流した血と、イエスの流した血は、ここで重なり合わされています。仮にユダの事故死が「あの出来事は神の裁きではないか」と噂されていたとしても、イエス・キリストの十字架はユダの死に先立ってユダに対する裁きの代わりの死です。
十字架に磔にされた神は、ユダが行った「富を神とした罪」を裁きつつ、しかしユダの存在そのものは無条件に赦しています。イエスはユダと食卓を共にします。罪を犯す前のユダ、罪を犯しつつあるユダに向かって、「友よ、受けよ。このパンと杯」と差し出します。これが新しい契約の凄みです。一般に契約は双務契約です。お互いが何かを義務として行わなくてはいけないものです。だから片方が約束したことを行わない場合に契約違反となります。しかし聖書においては、契約違反をする行為すらも赦されるという契約が、神の側から一方的になされています。極端な信義則違反ですら赦されてしまうのですから。復活のイエスに出会ったユダは一方的な赦しを思い出し感謝したことでしょう。
ユダは一番極端な罪人の事例としての役を負っています。師匠イエスを売り飛ばす弟子という倫理的に最悪な人物が、最も重要な友人として主の晩餐の制定場面に同席しています。「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた」(28節)とさえ言われ、ユダも含めて褒められています。そのユダでさえ主は食卓に招く。それによって無条件の赦しの範囲が無制限に広がっていることに読者は気づきます。
その救いと召命の仕組みは、キリスト教徒を迫害したパウロが復活のイエスと出会って無条件の赦しを受けて使徒とされたことに繋がっています(使徒言行録9章)。ユダはパウロの先行事例として用いられているのです。だからわたしたちは主の晩餐で誰をも排除しない方が良いのです。この場に明日のパウロがいるかもしれないからです。
「自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのか」とすべての同席者が互いに議論をし始めました(23節)。イエスを引き渡す行為はユダ固有の極端な悪事でありながら、しかし、だからこそ普遍的で誰にも当てはまる罪の問題なのです。ルカ版イエスは「わたしと一緒に手を食卓に置いている者が引き渡す者である」と予告します。誰と特定していません。誰もがユダになりうる。すべての同席者が、手を食卓に置いているからです。
このことは主の晩餐にあずかるわたしたちは皆ふさわしくないままに招かれた客だということを示します。バプテスマを受けているかどうかは、その人が今後罪を犯すかどうかと関係がありません。使徒であってもイエスを引渡し、イエスを否定しうるからです。だからわたしたちは主の晩餐の同席者として誰がふさわしいかと議論をすることそのものを止めなくてはいけないのです。このような議論はたちまち、誰が一番偉いのかという貧しい争いに発展するからです(24節)。この争いこそ教会にふさわしくありません。
理解力や悔い改めを主の晩餐の陪餐要件とすべきとの主張も無条件の赦しの前には説得力を失います。「アッバ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(23章34節)。十字架の意味を知っていると言い張る正しい人や健康な者に医者は不要です(5章31節)。
今日の小さな生き方の提案は、ユダの同席する主の晩餐を実現することです。それは今いるわたしたちも含むし、将来の新来者すべてを、礼拝時間すべてにわたって含む礼拝の実現です。今ここに居合わせていることを感謝するすべての罪人と無条件の赦しを体験したいものです。それこそ、十字架のイエスを真に記念し、新しい契約を受け取り、主の死を告げ知らせることです。