幼稚園の保護者の方に時々申し上げていることがあります。それは、「温かい眼差し」と「冷たい視線」は異なる、ぜひすべての子どもたちを温かい眼差しでもって見守ってほしい、という意味の言葉です。
わたしたちはルカ福音書を1章1節から毎週少しずつ読んできました。ルカ福音書を読む以上、他の福音書とは異なるルカだけの強調点を意識して読もうと考えてここまできています。わたしたちが共有してきたルカの筆致は、とても温かいということです。ルカ福音書は、元となるマルコ福音書をかなり改変しています。ルカ教会は、ユダやペトロを庇います。これらの温かい眼差しは、主イエスの示した無条件の赦し・全面的な肯定を映し出したものです。
本日の箇所にもルカのもつ温かさがにじみ出ています。ルカ福音書だけが、「ペトロの否定事件」にイエスが居合わせたとし、そのイエスがペトロに温かい眼差しを向けていたことを報告しています(61節)。
ルカ福音書は大変な無理をして、イエスがペトロを見たという場面を「創作」しています。大祭司宅での裁判はイエスが連行された直後の夜中に行われたはずです。そうでなければ朝からのピラトの裁判と十字架刑の執行は不可能でしょうから、マルコ・マタイ・ヨハネ福音書のとおり、夜間の裁判が史実です。ルカ福音書のみが大祭司宅の裁判を鶏の鳴いた後の夜明けに設定します(66節以降)。そして裁判の前に侮辱・暴行があります(63節以降)。
この不自然な流れは、イエスがペトロの裏切り行為を見届け、それにも拘わらずペトロを無条件に肯定し、愛していることを示す「演出」のためです。そのためにイエスは裁判を受けないまま、中庭が見える部屋に何もせずに留め置かれなくてはいけなかったのです。わたしたちはこのルカ福音書の編集意図=ルカ教会が大切にしていることを重視して、「主は振り向いてペトロを見つめられた」という一文を中心に据えて、この箇所を読み解くべきです。
ペトロは大口を叩いていました。イエス逮捕の数時間前、十二弟子の中で誰がイエスを引き渡すかという緊迫した場面で、「主よ、ご一緒なら、牢に入っても死んでも良いと覚悟しております」(33節)と言いのけています。ペトロは最大限の抵抗もしていました。イエスの逮捕時に剣を抜いて、大祭司の手下の耳を切り落とすほどです。しかし結局は無力でした。圧倒的武力の前に、イエスは引き渡されていったのです。自分の言葉に誠実に生きるならば、ペトロも一緒に逮捕され、一緒に裁判を受け、一緒に十字架で殺されるべきでした。しかし、ペトロはそれをしませんでした。なぜでしょうか。
「ペトロは遠く離れて従った」(54節)。従うという言葉はイエスの弟子になる時に使う言葉です。ペトロがイエスの弟子として何事かをするために大祭司宅に忍び込んだことを示唆します。大祭司に扇動された武装右翼のふりをして、剣を鞘に納めた状態でペトロは忍び込みます。もしかするとイエスに対する裁判中に殴り込みをかけ、裁判長である大祭司を暗殺する覚悟だったのかもしれません。中庭からイエスの背中を見上げる位置に据えているルカ福音書の演出が、そのことを推測させます。
ところがペトロに冷たい視線をぶつけてじろじろと見ている人がいました。「ある女中」が焚き火に照らされたペトロの顔に見覚えがあったのです。「じっと見つめ」(アテニゾー)は、ルカ文書に多く使われる動詞で、ルカ福音書4章20節において、イエスが一斉に冷たい視線を浴びる場面で用いられています。異質な少数者を見る時のいやらしい、刺すような視線です。
「この人も彼(イエス)と一緒にいました」(56節)。ペトロはどきっとしました。ここで剣を抜くべきか、ここで自首すべきか、それともここはやり過ごして、暗殺の機会を伺うべきか。イエスの背中を見ながら、彼は決断します。「わたしは彼(イエス)を知らない。女めが」(57節)。ペトロはイエスとの関係を、性差別も露呈しながら、多分小声で否定します。
少したってから他の人も言い出します。「あなたも、彼ら(弟子たち)出身の者だ」。短い時間での立て続けの質問なので、同じようにペトロは答えます。「人よ、わたしではない」(58節)。今度は幾分大きな声で、相手の男性に対して紳士然としてペトロは長い旅を共にしてきた仲間との関係を否定します。
ここからしばらく適当な雑談を断片的に続けながら、ペトロはじっと考え続けます。勇敢なる暗殺作戦の一環として自分は嘘をついているのか、それとも本当は弱虫の臆病者で保身のためにイエスと仲間との関係を否定しているのか、自分でもわけが分からなくなってきます。イエスの背中がそういう問いを突きつけてくるのです。イエスは剣を取った自分に、「ここまでで諦めよ、従うな」(51節)と命じたのに、その命令に反して従ってきたつもりのペトロ。嘘をついている間に、まったくの混乱の中に陥ります。
一時間後、三人目の人が強い口調で断言します。「本当にこの人も彼(イエス)と一緒にいた。なぜなら、彼もガリラヤ人なのだから」(59節)。「人よ、わたしはあなたの言っていることを知らない」(60節)。とうとうペトロは、自分自身をも否定してしまいました。彼はおそらくここで、べらべらと言い訳を続けていったと思います。なぜ自分がガリラヤ方言を使うけれどもガリラヤ人ではないのか、なぜ弟子たちの一人ではないのか、なぜイエスを知らないのか、言い募ったと思います。発言している最中に、勇ましい暗殺計画は姿を消し、ただの保身だけが残っています。イエスの背中がどんどん遠くになっていきます。言い訳を言っている最中に、ペトロからすると突然に、鶏が鳴きます。
「そして振り向いて(ストレフォー)、主はペトロを見つめた(エンブレポー)」(61節)。今まで背中しか見せていなかったイエスが、ここで初めてペトロを見ます。ペトロもイエスと目が合います。この瞬間、ペトロはイエスの言葉を思い出します。「わたしはあなたに言う、ペトロよ、今日鶏はあなたがわたしを知っていることを三度否定するまでは鳴かない」(34節)。
ここでペトロははっきりと自覚しました。自分がイエスと仲間と自分の出身までも否定しているのは、単に自己保身のための嘘に過ぎないと身にしみました。順境の時には自分が調子の良いことを言うけれども、逆境の時には自分の言葉を簡単に翻す軽い人間であると、イエスの予告を思い出すことで、深く悟りました。憐れむイエスの温かい眼差しが、ペトロの惨めさをかえって際立たせています。
両者の目が合う場面は無言です。見事な文学的手法で、黙ったままの両者の間に、イエスの予告が駆け巡ります。「振り向く」(ストレフォー)は7回ルカ福音書で用いられますが、主語はすべてイエスです。しかも、その他6回においては、振り向いた直後、すべてイエスの言葉が続いています(7章9節、同44節、9章55節、10章23節、14章25節、23章28節)。ルカ版イエスは振り向いて語る癖を持っています。イエスに振り向かれた時に、ペトロにも読者にもイエスの予告の言葉が無言のうちに響き渡ります。
「見つめる」(エンブレポー)が、イエスからシモン・ペトロに用いられている場面が新約聖書の中でもう一回だけあります。ヨハネ福音書1章42節です。イエスがシモンにペトロ(アラム語ケファ)というあだ名をつける場面、二人の初対面の場面です。この時ペトロはイエスの弟子となったのでした。イエスの温かい眼差しは、最初から最後まで一貫しています。ペトロがイエスとの関係を否定しても、イエスはペトロとの関係を肯定し続けます。ペトロが不誠実な時にも、イエスはペトロに誠実です。なぜなら予めイエスは、自分を否定するであろうペトロの立ち直るために祈っているからです(32節)。これが無条件の赦し、神の愛です。この愛がペトロを誰よりも早く立ち直らせ、ペトロがその関係を否定した仲間たちの立ち直りのために尽くすことになります。贖罪信仰の成立です。自分の裏切りをも、神は自分の救いのために用いたという教理は、ペトロの原体験に由来します。
「そして外に出ながら彼は苦く泣いた」(62節)。この一文は、元々はルカ福音書にはありませんでした。底本よりも古い大文字写本断片に無い一文です。一言一句同じなので、マタイ福音書26章75節を見た写本家が、2-3世紀ぐらいに加えたのでしょう。ルカ福音書にこの一文を加えたことで、非常に面白い効果が生まれました。それは「ここで泣いたのは誰なのか」という問いです。
マタイ福音書にはペトロの否定事件にイエスは居合わせませんから、当たり前のことですが外に出て泣いたのはペトロです。しかしルカ福音書には拘留中のイエスが大祭司宅の中に居ます。「彼」としか書かれていないのですから、ペトロともイエスとも読むことができます。「イエスが部屋の中から出ながら苦い思いをもって泣いた」という可能性を、写本家の付け加えが生み出しています。ルカ教会も想定しなかった効果です。
それによって順序が逆となったイエスへの暴行は、中庭に出ようとしたイエスに対する懲罰になります(63-65節)。こうして判決を受けての暴行という自然な流れを変えた不自然さが緩和されるのです。この付け加えは、ルカ福音書に対する温かいフォローとなっています。
長く聖書に親しんだ人ほど物語に対する先入観があります。泣いたのはペトロに違いないという思い込みです。しかし聖書という本の魅力は、同じ物語であっても読むたびに新しい発見があることにあります。先入観を打ち壊す力が聖書本文そのものにあるし、それは読者の人生を切り開く力でもあります。
情けない思いをもって悔いたペトロが泣くというだけに、わたしたちの想像力を留めてはいけません。ペトロが泣き崩れる前に、イエスがペトロの肩を抱こうとして、危険を顧みずに中庭へと歩みだす。そのイエスの目には涙が光っています。ペトロの自己嫌悪も、先にイエスが肩代わりしています。ペトロの苦痛に先立って、苦痛を和らげるために、苦痛の代わりに、イエスは苦痛の涙を流します。十字架の前触れです。ここに自分との関係を否定する者の存在を、がっちりと肯定する救い主の愛が示されています。
ペトロが最後に見た生前の主イエスの姿が、振り向いて自分と目を合わせ、涙を浮かべながら自分の方に駆け寄ろうとして、しかし、それを果たせず大祭司宅に連れ戻され、暴行を受けるというものだったら、どうでしょうか。その姿はペトロの目に焼き付いています。復活の主は最初に、そのペトロに見られます。ペトロは、主イエスの一貫した温かい眼差しを、確認したと思います。それは思い起こせば、弟子として召された時から変わらない眼差しです。浮き沈みや揺さぶられることの多い自分の人生に、一貫した土台のような「岩」がある。「イエスは主だ、救いの岩だ」とペトロは信じました。
今日の小さな生き方の提案は、キリストを自分の人生の「救いの岩」として受け容れることです。キリスト教の救いは、人生に何かを足して上昇するということではありません。紆余曲折の人生に通奏低音があり、変わらない土台に支えられていることを知ることです。大いなる方の温かい眼差しに支えられる実感を得る時、わたしたちは明日を生きる力を得るのです。