ヘロデの尋問 ルカによる福音書23章6-12節 2018年11月4日礼拝説教

ガリラヤの(四分封)領主ヘロデ・アンティパスについては9章7-9節を読んだ時に取り上げました(2017年3月5日)。父ヘロデ大王の遺言で「ユダヤ人の王」になりそこねた人物です。統治能力・人気は共に高く、紀元前4年から紀元後39年まで、ガリラヤ地方とペレア地方を統治していた領主です。彼が失脚した理由は、「ユダヤ人の王」という肩書きを求めたためでした。

ルカ福音書はローマ総督ピラトとガリラヤの領主ヘロデが敵対し合っていたという細かい事情を報告しています(12節)。これは歴史の事実を反映しています。総督ピラトは、ローマ皇帝の肖像入りの軍旗を持ち込んだだけではありません。フィロンというユダヤ人著作家が記している逸話が残っています。その後、ローマ皇帝の名前が書かれた盾を、総督官邸の正面に掲げたというのです。肖像でだめなら名前はどうだというわけです。この度重なる挑発行為にヘロデ大王の四人の息子が抗議したと、フィロンは伝えています。四人の息子の中に、ガリラヤの領主ヘロデも入っています。

ヘロデは、ガリラヤ地方の貨幣を皇帝の横顔の浮き彫りではなく植物にして、ガリラヤ住民の反感を買わないように上手く統治していた行政官です。ピラトの失政に対して抗議することで、自分の点数を上げ、ユダヤ人からの人気を得たのでしょう。それ以来、ピラトとヘロデは敵対関係ないしは競合関係にあったことが推測できます。

ピラトは、イエスがガリラヤ出身であることを確認した時、ヘロデに送りつけました(6-7節)。その理由の一つには、両者の対立があったのでしょう。両者共に、ユダヤ植民地政府・最高法院に手を焼いていました。両者共に、ユダヤ民衆の統治に苦労していました。両者共通の上司はローマ皇帝です。「イエス事件」とその行政処分の方法によっては、パレスチナ地域の行政官としてどちらがより相応しいかが判断されるかもしれません。自分の得点をアピールしたり、ライバルの失点をしたり誇張したりすることができます。

ヘロデがエルサレムにたまたま滞在していたということは、使徒言行録・ルカ福音書だけが報告しています。「事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました」(使徒言行録4節27節)。ヘロデからの尋問も、他の福音書には記載されていません。両者の結託を、ルカ教会は旧約聖書の預言の実現と信じています。使徒言行録4章25-26節は、詩編2編1-2節の引用です。特に2節がヘロデとピラトの共謀なのだと考えています。「なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して主に逆らい、主の油注がれた方(メシア)に逆らうのか」(詩編2編2節)。

ここには罪の一つの形態が示されています。すなわち、競合関係や対立関係の狭間にある第三者が、被害を受ける場合です。イエスに関わると損をすると考えて、ライバルであるヘロデにそれを押し付けるというピラトの態度は、巧妙な無責任です。ヘロデももちろんピラトの意図を知っています。無罪との判断は下さない。そして、彼も最後にはピラトにイエスを押し付けます。これは結局、両者の合作なのだと聖書は語ります。ということは出世欲に基づく政治的競合・対立というものが罪の一形態です。一人の人の人生について無責任な態度をとってしまうように促されるからです。

ですから、12節にある「ヘロデとピラトは仲が良くなった」とまでは言えません。両行政官が意図せずに、同じ人々(最高法院・ユダヤ民衆)に困らされたということに奇妙な連帯感を持ったので、それまでの露骨な対立が少し和らいだぐらいのものでしょう。

ともかくキリストの十字架への道は、わたしたちに罪というものの実態を教えます。個人の言動だけが罪ではありません。ヘロデとピラトの関係と、その関係が生み出す現象も罪の一つです。個人では制御できない人間関係という力も、イエスを十字架に向かわせた合作としての罪なのです。人間は複数になればなるほど、一人の人の命に無責任になっていくからです。

さて、ヘロデについて掘り下げてみましょう。ルカ版のヘロデはイエスに対して複雑な思いを持っています。

9章9節には、ヘロデがイエスを見たいと思っていたとあります。これはルカだけの記述です。ヘロデの家臣にクザという男性がいました。クザの妻ヨハナはイエスの弟子です(8章3節)。これもルカだけの情報です。ヨハナを情報源にしたクザの口を通して、イエスが悪霊祓いをし、病気を癒していた奇跡行者であると、ヘロデは聞いていました(9章1・7節)。それで、ヘロデは奇跡行者としてのイエスを見たいと思っていたのです。芸能人に対する憧れのようなものでしょう。異能者を鑑賞する感覚です。日常生活のストレスを一部解消する力があります。

その一方で、統治者としてのヘロデはイエスを殺す意思を持っていました。「ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。『ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています』」(13章31節)。なぜガリラヤを去ってエルサレムへ行こうとしている時点で、ヘロデがイエスを殺そうとしたのでしょうか。いくつか理由はありえます。

一つはイエスの人気が高いということ。反乱の要素になりえます。そしてそれに関連して、イエスがバプテスマのヨハネと近い関係であること。ヘロデは自分を公然と批判するヨハネを処刑しました。言論弾圧です。もしもヨハネとイエスが同じ意見を持っているならば殺すべきです。ヨハネがイエスにバプテスマを授けたことは史実です。このことは両者の思想的な近さを裏付けます。さらにルカ福音書は両者が親戚であったとも言っています(1-2章)。ヨハネと近いイエスを殺そうと考えることは自然です。

ルカ版のヘロデだけが、「イエスを見たいけれども殺したい」という矛盾する考えを持っています。この不思議な現象についてどのように説明できるのでしょうか。鍵となるのはサマリアです。ヘロデ・アンティパスの父親はヘロデ大王(イドマヤ人の血を引く)、母親はサマリア人です。そしてルカ文書において、サマリア人/サマリア地方は重要な位置を占めているからです。

ルカ福音書9章51節から19章27節までは、「ガリラヤからエルサレムへの長い旅行(中間部分/大挿入)」と呼ばれる部分です。この約10章分は、元本であるマルコ福音書を離れたルカ独自の記事が多い部分です。旅行の最初の地は、サマリア地方でした。そこでイエスは自分たちを歓迎しないサマリア人に対する寛容を示します。差別しているユダヤ人が差別されているサマリア人に親切されない場合でも、不平不満をぶつけずに「別の村」(サマリア地方内)に行くべきなのです。

さらにイエスは「良いサマリア人の譬え話」で、差別されているサマリア人が差別しているユダヤ人を助けることがありうると教えました(10章30-36節)。また、癒されたハンセン病のサマリア人が、道を戻ってイエスに感謝をする場面で、イエスはサマリア人を高評価しています(17章11-19節)。

全体にイエスはサマリア人とユダヤ人がどのように共生・共存できるかという主題を前向きに捉えています。このことは、使徒言行録においてキリスト教伝道がユダヤ地方から次に(あるいは同時に)サマリア地方に広がったということと関連しています。使徒言行録1章8節「ユダヤとサマリアの全土」という言い方や、8章2節「ユダヤとサマリアの地方」という言い方。さらに使徒フィリポによる「サマリア伝道」と呼ばれる記事です(8章4-25節)。

ユダヤ地方のユダヤ人から侮蔑されているガリラヤ地方出身のユダヤ人から、サマリア人差別の課題をどう考えるのか。わたしたちに置き換えるならば、最も近い事例は、かつて日本国籍を持っていた朝鮮半島の人・台湾の人・サハリンの人でしょう。イエスは「隣人になること」を回答として示し、その通りに生き抜きました。そのイエスをキリストと信じる使徒たちも、イエスに従いました。サマリア人差別に対する教えは、世界を変える力を持っています。

母親がサマリア人であるガリラヤの領主ヘロデは、イエスを見たいけれども同時に殺したいと考えます。統治者であるヘロデの「サマリア人問題」に関する政治的解決策は、自らが「ユダヤ人の王」となることです。そして、その領土の中にサマリア地方を含めることです。かつてのヘロデ大王の領土を回復することです。領土問題として捉えています。しかし、どうでしょうか。朝鮮半島を日本の領土にすれば現在の「在日の課題」が解決されるのでしょうか。

イエスの提案の方が急進的であり実践的です。もし、互いが仕え合う隣人となるならば、もはやユダヤ人もサマリア人もない。サマリア人でありながらの隣人、ユダヤ人でありながらの隣人がいるだけです。自分よりも異なる優れた意見を持つ者に対して、見たい反面殺したいと思うものです。十字架のイエスに出会う人々は、その人生が露わにされていきます。「あなたは誰か」と問うと、「わたしが誰であるか」が明らかにされます。

ヘロデは言葉を尽くして(直訳「十分な言葉で」)質問を重ねます(9節)。奇跡だけを見るならば質問は不要です。彼が聞きたかったのは「ローマの平和のもとでのサマリア人問題」です。生まれてこの方母親の出自で彼は悩んでいました。自分なりの解決も模索していました。しかしイエスは何も答えません。黙って殺されていくことが、隣人となることだからです。すべての人に命を配るために、良いサマリア人の譬え話を実現するために、イエスは冤罪をかぶって殺されていきます。ユダヤ人のためにも、サマリア人のためにも、ユダヤ人とサマリア人のダブルであるヘロデのためにも、すべての人のために。

黙るイエスを前にして、ヘロデは神の救いの計画を知らないままに、イエスを殺す側に完全につきます。ヘロデはおそらくイエスと政策論争をしたかったのだと思います。もしも懐柔できるならば自分の側近にしても良いと思っていたかもしれません。しかしイエスは自分の道を歩みます(13章33節参照)。

サドカイ派の祭司長たち、ファリサイ派の律法学者たち、つまり首都の最高法院議員たちは、立ち上がります。黙って反論も皮肉な言い方もしなくなったイエスを、ここぞとばかりに激しく訴えます(10節)。そしてヘロデとヘロデ党の者たちもここに加わり、暴行を行います(11節)。自分の利益にならない者は邪魔者として殺す。権力の非情さです。中央政府と地方政府が、イエスを殺すことに賛成し、ローマ帝国に身柄を引渡しました。

今日の小さな生き方の提案は、隙間に目を留めることです。人間関係の狭間で苦しむ隣人がいるかもしれません。そこに気づいて隣人となるのです。あるいは自分の人生の隙間にも目を留めることです。直視せずに置き去りにした課題があるかもしれません。十字架のイエスに面と向き合い出会う時に、わたしたちは気づかなかった悪さや弱さに気づきます。そして十字架の赦しを知り、わたしたちは隙間を埋めて明日から生きる力を得るのです。